松山市には
松山七不思議
というのがあるそうです。最近知りました。
その中に、星に関するものがあります。
占い池の昼の星
という名前がついています。
これは、菅原道真が左遷されて大宰府へ赴く途中
松山市久保田町
にある池で、昼間、池の水面に映った星を見て占いをしたという言い伝えに基づいているようです。
この池は現在の
履脱天満宮(くつぬぎ)
の敷地内にあり、当時は竹藪が生い茂って昼間でも暗く、道真は水面に映った星を見て自分の運勢を占ったと言われており
占い池
と呼ばれているようです。
🟢 菅原道真が左遷された経緯
宇多天皇は、藤原氏の勢力が増大するのを危ぶみ菅原道真を登用し、後に右大臣となりました。
ところが醍醐天皇のとき、左大臣の藤原時平は実権を握ろうとするも菅原道真が邪魔になり、また、道真の優秀さを妬み、道真を追放しようとしたのです。(諸説あるようです)
菅原道真は、
藤原時平に「菅原道真が醍醐天皇を退位させて自らの娘婿を天皇に即位させようと計画
している」
と事実でないことを醍醐天皇に告げられ、太宰府へ大宰員外帥として左遷させたられてしまうのです。
🟢 菅原道真ゆかりの地(他にもありますが2か所だけ書きます)
菅原道真が左遷されることになったのは、901年1月25日で、2月1日に京都を出発したようですが、大宰員外帥は悲惨な生活を余儀なくされることを自覚していたため、行きたくなかったことは想像できます。ですから、あちらこちらに立ち寄り時間稼ぎをしながら向かったのではないかと思います。
そのとき、菅原道真は中央政権から脱落し左遷される身でしたから、大宰府までの行程ははっきりしていない部分が多く、また後世に後付けされた部分もあり真偽のほどははっきりしませんが、愛媛県内にも言い伝えが残っています。
● 綱敷天満宮
菅原道真は瀬戸内海を船で大宰府へ向かったのですが、途中で嵐のため難破し
今治市の志島ヶ原(桜井浜)
に辿り着いたということです。
現在、その場所近くに綱敷天満宮があります。
綱敷天満宮の由来は、
そのとき菅原道真は地元の人に助けられたのですが、浜で座るところがなく、漁具の
綱を丸めたものに座ってもらった
ことからきているようです。
● 履脱天満宮
その後、陸路で
松山市久保田町
の現在の履脱天満宮まで来たということです。
履脱天満宮の由来は、長旅で疲れたので沓を脱いで休んだことからきているようです。
という訳で、松山七不思議の一つである「占い池」がある履脱天満宮へ行ってみました。
履脱天満宮は久保田町と富久町のちょうど境目にあるのですが、実は、私は30年以上前に富久町に住んでいたことがあるのです。
そのとき、息子を連れて履脱天満宮の「占い池」でザリガニ釣りをして遊ばせたことが1回だけあるのですが、そのときは「占い池の昼の星」のことは全く知りませんでした。
勅使橋(河川改修により川が拡張されたため石だけ保存されています)
(道真がなかなか大宰府に向わないので都から勅使が来たのですが、この橋で迎えたということです)
「占い池」 残念ながら池に水は入っていませんでした。
池に水が入っていたので撮影して追加しました
履脱天満宮でふと考えました。
なぜ昼間に星が見えたのだろうか?
超新星爆発かもしれないし、木漏れ日を星と勘違いしたのかもしれない
ということでその頃の超新星(Supernova)を調べてみると
902年に SN902
というのが1件ありましたが、正式な超新星ではないような記述になっておりました。
歴史的記録が残ってないのではないかと思いますが、よく分かりません。
(ちなみにかに星雲は、SN1054だそうです)
菅原道真が大宰府に到着した日がはっきりすれば、この池で昼間「SN902」をみた可能性があるかどうか位は分かるのですが菅原道真が亡くなったのが
903年2月25日
であることは多く記載があるのですが、大宰府に到着した日についてはウェブで検索してみましたが、分かりませんでした。
履脱天満宮にある松山市教育委員会が設置の立て看板の説明文には
【立て看板の内容】----------------------------------------------------------------------------------------
履脱天満神社
祭神は、菅原道真公霊である。
『予陽郡郷俚諺集』に、「管丞相が筑紫に左遷のとき、越智郡桜井浜に船を寄せ、陸伝いに当地に至り、沓を脱いで三ヵ年逗留した。頭三位中将が追立ての官人を連れ、都からやってきたので、道真公は西方の橋まで出迎えた。道真公は筑紫へ向かうことになった。
このことから、勅使橋といい、沓脱というようになった。船で出発するとき、名残惜し今出ると仰せられたので、その浜を今出浦と名付けた。別当長松山安楽寺」という内容の記述がある。
その後、長保元(999)年に、一条天皇が社殿を建立し、道真公霊を祀って履脱天満宮と称したという。永正元(1504)年には、河野通篤が当社に土地を寄進している。
江戸時代になって、松山藩主松平(久松)家が社殿を再建し、代々の藩主が参拝して祖先神として厚く敬い、幕、提灯にいたるまで奉納したと伝えられる。
松山市教育委員会
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と書いてあります。
菅原道真は901年2月1日に京都を出発し、903年2月25日に大宰府で亡くなっているわけですから、上の『予陽郡郷俚諺集』に書かれている3年間住んでいたというのは長すぎで、誇張して書かれているようです。実際は3か月位だったのかもしれません。902年に滞在しておれば池に映った超新星を見ていた可能性もあるわけで興味深いです。
昔は、急に明るくなったりする星を「客星」と言っていたそうですが、菅原道真は学者でもあったそうなので、多少の知識があったのかもしれません。
その他にも菅原道真に関連して興味深いことがあるので、機会があれば書いてみたいと思っています。
(この記事の内容は市等の資料や他のブログなどを多く読ませていただいて得たものですが、古い出来事ですのでどの点も諸説あるようですのでご理解をお願いします。)
今回使用したカメラはコンデジの
CASIO EXILIM EX-H20G
で、特徴は、光学10倍ズーム、GPSと簡単な地図内蔵などです。
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【追記】次の記事は履脱天満宮関連記事です。