天地温古堂商店 -6ページ目

天地温古堂商店

歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めています。読み物が中心です。表現の自由度を高めるために、です・ます調でなく、である調を使っています。そこにみなさまの目に止まる、心に残る何かがあれば幸いです。どうぞお立ち寄りください。

あれはおそらく、聖地巡礼なのだろう。

私の10代後半から20代にかけて、文庫本と地図を片手に、少しのカネとヒマがあれば各地を巡った。

文庫本とは、『街道をゆく』。

あるときは、対馬へ。
あるときは、松浦、平戸へ。
あるときは、島原、天草へ。
あるときは、白河へ。
あるときは、葛城、山の辺、飛鳥、吉野へ。
あるときは、苗代川、坊津へ。
またあるときは、竹内街道へ。
そして、石垣、与那国へ。

対馬は二度、訪れた。
一度は、ただ千俵蒔山にのぼって半島を見るためだけに出かけた。

吉田拓郎の『サマータイムブルースが聴こえる』の歌詞の一節に、

ギターケース抱えて歩いたよ
何故かバスにのるより自由な気がして
こんな馬鹿なことが出来るのも
20才になるまでさ それでいいよね


というのがあるが、まさにそんな気持ちであった。
それが自分の何になるかも分からず、ただ文庫を手に歩き回った。
そんな〝馬鹿な〟旅であった。

私のこの手の稚拙で、しかし貴重な旅は三十で終わったが、司馬遼太郎の『街道をゆく』は、1971(昭和46)年から1996(平成8)年2月のその死まで、四半世紀の長きにわたり続いた。

NHKスペシャル『街道をゆく』タイトルバック NHKオンデマンドより


『街道をゆく』は後半になってくると、その土地の文化や歴史の世界が大きく広がって、さながら司馬さんの奥行きの長い知の貯蔵庫のようだ。
個人的には、初回の「湖西のみち」から1980年の「越前の諸道」あたりが、一緒に旅をしている錯覚をともなってなんとも好きである。

そんな大紀行文でありながら、司馬氏は、『街道をゆく』を書くことを、さほどの動機もなく、もののはずみだったという。
一年くらいやってやめるつもりでいたというのだから、これほど長く続いたことは予想外だったことになる。
それにはなにか理由があるにちがいなかった。

『街道をゆく』がかくも長きにわたって続いた理由は、その土地土地の風土への尽きることない興味と愛着によることは確かだが、私はある人物の存在がその理由のひとつだと思っている。

その人とは、司馬さんが

画伯

と呼んだ、須田剋太氏(1906〜1990)である。

須田さんが挿絵をかくことになったのは、編集者の推薦によるもので、1970(昭和45)年の『街道をゆく』の最初の旅が、二人の出会いであった。
日帰りの朽木街道の旅だった。

このとき、須田さんは64歳。
司馬氏は17歳年下といっているから47歳であった。
であるのに、司馬氏は須田さんが40歳前後にしか見えなかったという。

自分より年下のような風韻が須田さんにあったのだろうか。いずれにしてもそれは好意に近いものだったのではないか。

そして、須田さんが1990年にお亡くなりになったとき、司馬氏は『街道をゆく』をやめようとしている。

二人は19年間、一緒に街道を歩いた。
司馬氏にとって、須田さんはかけがえのない人になっていたのだ。

司馬氏は、ひとにやさしい人である。
と、同時にその眼の奥に、その人の本質を見抜くこわいほどの観察力を備えている。

司馬氏は、出会ったこの人を、

出離の人

とよんだ。
まことに稀有な人と出会ってしまった、とも言った。

一年間もやればいいと思っていたこの仕事が、須田さんとの出会いで〝反故〟になったのは、司馬氏の次の言葉で明解だ。

『街道をゆく』は私にとって義務ではなくなり、そのつど須田剋太という人格と作品に出会えるということのために、山襞に入りこんだり、谷間を押しわけたり、寒村の軒のひさしの下に佇んだりする旅をつづけてきた。

契約を結ぶと、当事者間に約束を守るべき義務が生まれる。
『街道をゆく』にも他と同様になんらかの契約があって義務が生まれる。
それが、須田さんの存在により義務でなくなったというのである。

須田さんと旅をしたい

だから、須田さんの死まで旅は続き、須田さんの死によって、この〝不自然な契約〟は終わったと司馬氏は思い、旅をやめようとしたのだろう。

 

image

『街道をゆく』の作者・司馬遼太郎 西日本新聞ウェブサイトより


司馬氏は、恩師とよべる海音寺潮五郎をはじめ同時代の作家、学者、芸術家などのことを随筆に書いている。
須田さんについて司馬氏は、その存命中に少なくとも二度にわたって随筆に書いている。

その一つのタイトルは、 

出離といえるような

という。

出離とは、仏教の用語である。

迷い、執着、欲望の満ちた世間から離れることを意味している。
もっとやさしくいうと、自分を苦しくさせる気持ちに振り回されなくなって、心がとっても穏やかで自由ということだ。

少なくとも司馬氏は須田さんのことをそう見きわめている。
ただ、時として司馬氏にはそれ(出離)が、妖精か童子と見まちがえることもあったようだ。


『街道をゆく』にはそんな光景がしばしば見られて、とても微笑ましい。

たとえば、八戸でのこと。

「須田さん、まず根城(地名)へゆきましょう」
「ゆきましょう」
と、須田さんはそばの椅子の上においてあった黒い革カバンをもちあげ、それを左肩から右脇へひもをかけて背負いあげた。
カバンの中には、須田さんの下着やら日用品やらが詰めこまれていて、このカバン一つあれば野宿もできるし、アメリカ大陸でもどんどん歩いて横断できるような仕掛けになっている。もっともこれは想像である。(略)

須田さんは、若い頃からアメリカの自動車工が来ているようなナッパ服しか着ない。
その背中に黒カバンが盛りあがっており、頸にひもがかかっていて、スケッチ用の大きな画板が胸もとにぶらさげられている。


一見、甲州からやってきた冒険的征服者団の軍師を彷彿させるが、しかしこの軍師はご自分の芸術的関心のおもむくままに左へゆき右へゆき、ときどきどこへ行ったのか掻き消えてしまうために編集部のHさんが、須田さんの背後にあって誘導を怠らずにいる。

 

image

須田剋太 大阪府立江之子島文化芸術創造センターウェブサイトより


たとえば、モンゴルのゴビでのこと。

午後一時四十分、このラクダの草原を辞した。
マイクロバスに乗って、座席にすわると須田画伯がいない。
須田さんは、まだラクダの群れの中に残っていた。脚を前後にひらき、反りかえって、腹で画板をささえ、しきりにスケッチしている。ひどく駘蕩とした風景で、ほおっておけばラクダの仲間にまじってラクダに化ってしまいそうな危なっかしさもあった。


呼びにゆくと、群れから離れ、ゆたゆたと歩いてきた。
バスが動きだしてから、須田さんは私のほうをふりむいた。血相が変わっていた。
「シバさん、こんなところに一人でおっぽりかされたら、あなたどうします」
と、いった。
いまさらながら景色を見て怕くなったらしい。
まったく、ラクダもバスも、地球の中の一塵にすぎないといった感じの草原である。


たとえば、肥後八代の鍛冶屋でのこと。

(店主の)老人は値段をいってから、彫刻家が自分の傑作を売り惜しむのと似た表情になり、私の手から金槌をとりもどした。大きな掌で鋼の部分を包み、揉みしごくようにしながら、
「よか鎚です。ハガネですから」
といって、振りあげるなり土間を打った。
土間にずしっと鎚音がひびき、するどい窪みができた。
「これはいったい、なにするトンカチですか」
と、須田さんはいかにも怕くてたまらないといった表情で老人に聞いた。
「石工の金鎚です。岩をくだきます」
老人は言った。
「須田さんも買いなさい」
と、私が騎虎の勢いでそう勧めると、須田さんは後じさりするようにして、いいです、僕はいいです、と鼻白んだ。


心情を察するに、須田さんというのは、御自分は世の中でもっとも弱々しい人間だと思いこんでいる人だから、金鎚を見るだけでも、脳天を打ち砕かれている自分を想像してしまったにちがいなかった。


金剛山の宿での蝉の話も楽しい。

 

われわれはスキヤキを食った。

頭上には蛍光灯がついている。窓をあけているために蝉がしきりととびこんできた。

「蝉ですよ、司馬さん」

須田さんが私に注意をうながしたのは、一匹の蝉がまるで小銃弾のように須田さんの頬をかすめてするどく飛び去ったからであった。

「蝉はまだ死に絶えていないんですね」

須田さんははじめうれしそうだったが、しかし五匹も六匹も部屋の中を飛び交いはじめてからわずらわしくなったらしく、飛んできた蝉をつかもうとした。とらえて外へほうり出すつもりらしかったが、しかし須田さんにつかまえられるようなぼんやりした蝉はいなかった。


そのうちスキヤキ鍋の中に一匹がころげ落ちてきて煮えそうになった。鄭さんがあわててそれをつまみあげ、立ちあがって階段の降り口のむこうの窓までゆき、外へ放った。

ついに蝉どもの襲来をふせぐためにわれわれは蛍光灯を消さざるをえなくなった。プロパンガスの炎だけがわずかに一座にとっての灯りであった。

 

大の司馬ファンである俳優の真野響子氏は、

何が一番楽しいかって、挿絵の須田画伯とのやりとりですね。

と言っている。


同感である。
知の大海原を泳いでいるような大紀行文のなかのこうした景色にふれるにつれ、自分の脳の違う部分が心地よく反応している自分に気づくのだ。

司馬氏と須田さんのやりとりはたしかに楽しく、ユーモアに溢れている。
溢れてはいるが、須田さんは決して道化ではない。

むしろ、須田さんが道化ではなくその対極にあることを読者に説明するかのように、司馬氏は別の場所に書いている。

須田さんは、1906(明治39)年に埼玉県熊谷に生まれた。日露戦争が終わった翌年のことだ。
父は教育者だが、早逝した。
病弱でしかも内気な少年だったという。

2歳の時、母に抱かれて隣村の祭礼に行き、帰路が夜になった。

満天の星が、金の鋲のように大きかったということを終生覚えていた。


旧制熊谷中学を7年余かかって卒業した。
絵の先生たちがこの人の才能におどろいて東京美術学校(のちの東京藝術大学)を受けさせたが4度受けるもいずれも失敗。
その個性の強すぎるデッサン力が、受験というカタにあてはまらなかった。

須田さんはその後、浦和で倉庫の一隅を借りてひとり暮らしをしながら独学で絵を描き続けた。
彼の浦和時代は19年の長きにわたった。

その間、彼は東京へ出なかった。

司馬氏は、そのことは幸運だったと言い、東京へ出たら彼のすぐれた才能にとって悪である「仲間」というものによって、その才能が潰えただろうと言っている。

須田さんは、師すら持たなかった。
そのこともまた、彼の才能にタガをはめることからまぬがれた。

須田さんは母からの恩給の仕送りで糊口をしのいだ。
下着を洗うことも知らず、ヒゲを剃るということにも気づかず、絵ばかり描いていた。
ついには、シマヘビを捕まえて焼いて食った。
気の弱さを矯正するためだったという。
須田さんにはそのように自分を認識していた。

ある人が須田さんの絵を見て、その才能におどろき日展に出品させると、特選をとった。一度ならず三度もとった。

須田さんは30代の終わりごろ、浦和を離れ京都へ来た。
そこで出会った画家に批評された彼は、反論するのではなくその意見を傾聴し、その通りだと思い、今までのキャリアをすべて捨てた。
具象画から抽象画へ転向したのである。

 

image

須田剋太1959年の作品『抽象』 帝塚山ギャラリーウェブサイトより


そのことは須田さんの画業を完成させるには幸運だったと、司馬氏はいう。

須田さんは、山ならば山の、牛ならば牛の、襞や皮膚や草木や毛よりも、その骨格の力学的な力強さに惹かれた。
彼の抽象画への転向は、物の本質を抽出して造形をゆたかにすることに大幸をなした。

その彼が、司馬氏と出会い、ともに街道をゆくことによって、三たび転じて具象画を描いたのである。

須田さんは、仲間というものから離れ、師を持たず、画壇の常識にとらわれず、感じるままに自由奔放にひたすら描いた。
いくたび転じても、それが自由なる須田剋太そのものだったのである。

須田さんはいう。

永劫に働き続けよ 体験行動を続けよ
絶えずその体験を否定し破壊しなければだめだ


と。

image

須田剋太の『街道をゆく』の挿絵「神戸散歩 神戸トアロード帽子店」 尼崎経済新聞ウェブサイトより


朽木街道での出会いから、司馬氏は須田さんを好きになった。
そしてそのやさしく、しかし、本質を射抜く心眼で、須田さんをこう言い切っている。

いずれも、地の霊が人に化したかと思われるようなおそるべき魂をもちながら、その生き方はかぼそく、人に優しく、腫れあがった皮膚のように風にさえ傷みやすい。


そのくせ画を創りあげるときには、造形を創るという匠気をいっさいわすれ、地と天の中に両手を突き入れて霊そのものの躍動をつかみあげることにのみ夢中になる。


しかしながら、鬼面人を驚かすような構成はまれにしかとらず、たいていは花や野の樹々といったおだやかな生命を見つめ、そのなかに天地を動かすような何事かを見究めつくそうとする。


私は、須田さんを『街道をゆく』の文中の姿とその挿絵でしか知らないが、司馬氏のこの言葉の見事さはどうであろう。

そこに、司馬氏の須田さんへの溢れる愛を感じることができるし、無知ながらその愛が伝染してしまう自分を感じる。

まことに不思議としかいいようがない。

 

 

【参考】
司馬遼太郎『微光のなかの宇宙』(中公文庫)
司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと⑼』新潮文庫)
司馬遼太郎『街道をゆく⑶⑷⑸』(朝日新聞社)