砂浜に、木の枝で絵を描く。
そこが海辺なら、しばらくすると潮が満ち、あるいは波が寄せ来て、砂に書いた絵は消えて、またもとの砂浜に戻る。
ひとの人生もこれに似ている。
私などもそうだが、平凡な家庭に生まれ育ち、人並みに青春をすごし、社会へ出て、仕事をし、恋をして、家庭を持ち、子どもが産まれて、これを育て、成長を見届けたころ、定年を迎え、老いを少しばかり愉しみ、やがて万人と同じようにその生を畢る。
やがて、私を知る者がいなくなったとき、砂に描いた絵は、もとの砂に戻る。
須田さんのことを書いていて、ふとそんなことを考えた。
司馬遼太郎は作家である。
その著作の量ははなはだ厖大で、司馬氏をよく知る人は、この人を「書くことが大好きな人間」といい、
書きたいときに書きたいことを書きたいように書いた文人だった
という。
彼の書いた小説という〝砂浜の絵〟は、おそらく古典である『平家物語』や『太平記』のように、はるか後世まで語り継がれるだろう。
とともに、彼は紀行文、随筆、書簡などの多くの文章を残した。
『この国のかたち』
『風塵抄』
『街道をゆく』
『司馬遼太郎が考えたこと』
書きたいときに書きたいことを書きたいように書いたそれらは、作品というより、彼の声であり心でもあり、彼そのものだ。
彼の書いた多くの〝砂浜の絵〟は消えることがないだろう。
一方、須田剋太は画家である。
私は、多くの画家を知らないが、少なくとも須田さんは、自分の絵を第三者に評価してもらい高い評価を得るために絵を描いていたのではなかっただろうと思う。
ましてや、それを売ってなりわいとする気などさらさらなかったのではあるまいか。
須田さんの遺された絵は作品となって、須田さんを知る者がいなくなっても、〝砂浜の絵〟として残る。
しかし、須田さんは画家であり芸術家であるが、文筆家ではない。
その世界で須田さんは寡黙であり、司馬氏を通じて、わずかながら須田さんの人間像を見ることができるのみだ。
須田さんを知る者がいなくなれば、彼の作品以外のものは、私と同様に〝ただの砂〟になるのだろう。
もったいぶった言い方になってしまったが、須田さんのことで書き忘れたことがあったのだ。
もう少し書かなければ、と思ったのだ。
忘れ去られたくないと、思ったのだ。
〝ただの砂〟にしたくなかったのだ。
つまり、以下は余熱である。
ピレネーの谷で 大阪府立江之子島文化芸術創造センターウェブサイトより
***
1990年7月14日。
須田さんは儚くなった。
その訃報を、司馬遼太郎は、モンゴル高原のホテルの一室で聞いた。
司馬氏は、そのとき因縁を感じていた。
なぜなら、二人は17年前、『街道をゆく』でモンゴルを旅していたのである。
司馬氏はその二日後、ウランバートルのホテルで須田さんへの弔辞を書いた。
その弔辞が残っている。
なんという別れになったものでしょう。
から始まる。
私は、いま、十七年前、須田さんとご一緒したモンゴル高原にいるのです。
あのとき、草原での最初に迎えた朝、須田さんは、晴れ晴れと指をあげて、
シバさん、あの山まで歩きましょう
と、おっしゃいました。
その山までは大阪から京都ほどの距離があるのです。空気が澄んでいるため、近所のタバコ屋ぐらいの距離にしか見えません。
百キロあります
と申しあげましたが、須田さんはすでに歩きはじめていました。止めなければ、歩きつづけていたでしょう。
そのあと、司馬氏は、須田さんとのもっとも忘れられない思い出を語っている。
草原の夜は、恐ろしいばかりの闇でした。
歩きましょう
そうおっしゃるので、二十歩ほども歩きましたが、星空の中を歩いているようでした。
星のどれもが金の鋲のように大きかったのを覚えています。
このとき、須田さんは、突如、母君の背に負われている頃のことを思いだされました。
場所は武蔵のくに、熊谷の在で、明治四十年ごろのことであったでしょう。
あの星をとってほしい
とむずかられたそうです。美しいものを自分のものにしたいという画家としての出発は、このときからはじまったのでしょう。
司馬氏は、このことを『街道をゆく』のモンゴル紀行に書いている。
私にとっても、もし『街道をゆく』を映像で切り取れるとすると、この場面がもっとも印象深いシーンである。
星の群れのなかから、私の名を呼ぶ者があっておどろいてふりかえると、須田さんだった。
赤ん坊のときの記憶というものを信じますか
と、須田さんはいった。
私のはあとから教えられて記憶になったという感じじゃないんです、ニ歳の時です、という。
埼玉県熊谷の在にうまれた須田さんは、まだお若かった母君に抱かれて村の祭礼に行ったという。途中、雨が降って、知りあいの家に雨宿りした。
帰路、夜道になった。
そのとき抱かれて見あげていた星がこれと同じでした
嬰児の目に刺すように飛び込んできた星影がおどろくほど大きい感じで、嬰児の須田さんは、あの星をとってくれ、とむずかったという。
その後、あれほど大きい星を見ず、結局は錯覚だったのかと思っていたが、その後、六十数年ぶりで、嬰児のころの網膜に焼きついた星が本当だったと言うことを確認した。
この星なんです
どの星ですか
これぜんぶの星です。赤ん坊のとき、鎮守の祭礼の帰りに見た星にやっとめぐり逢えました。あれはほんとうでした。
さっき、ぼんやりしておられたのは、それでしたか
それでした
須田さんはうなずいた。
ゴビ砂漠星空 大阪府立江之子島文化芸術創造センターウェブサイトより
事実、須田さんは、地と天の中に両手を突き入れて霊そのものの躍動をつかみあげるようにして、この星空を絵にしている。
司馬氏は、この須田さんのこの特異な体質を信じられなかったにちがいない。
氏は、このことを、
画家としてのおそろしいばかりの精神
といい、それをもった人というのは、自分の網膜に、美しいものが光を投げかけてきたとき、錐でほりこまれるようにして記憶されるものらしい、と受けとめている。
さらに、須田さんの天性のこの特異な精神を、美しいと感じるものが記憶され、とほうもない倍率で拡大されたのも、この人の天性の詩心のしわざであると、いうのである。
ゴビ砂漠 えびな書店ウェブサイトより
それは次のことでもわかる。
モンゴルへゆくべく乗ったハバロフスク行きの飛行機が沿海州の上空にさしかかったとき、眼下で大河が極度に蛇行しているのが見えた。
司馬氏は、ああアムール川の本流か支流だろう、という程度の感慨だった。
ところが、須田さんは窓から顔をひるがえして、こう言った。
シバさん光琳です、光琳しか描けなかった水の模様です
光琳とは、江戸時代の画家で元禄文化の担い手になった尾形光琳のことだ。
司馬氏は、あれはアムールです、と言ったが、須田さんには川の名前などはどうでもよく、太古以来、水が大地を刻んできた自然の作用の美しさを飽きることなく見つづけていたという。
須田さんの訃報をきいたとき、司馬氏は、思わず涙がこみあげてきた。
司馬氏がみずから涙することを告白することはきわめてめずらしい。
思い出が深すぎたのだろう。
弔辞の最後、司馬氏は、いよいよ須田さんの死と別れに向き合う。
しかし、それは司馬氏らしい死生観を見てとれるのだ。
須田さんの大好きだった道元にあっては、世界は空であります。それも、光に満ちあふれた世界であります。
生死は、ささやかな一現象にすぎませんが、ただ世に在られるという不自由さは、あの仄かなおかしみのこもった清らかなお姿やお声にふたたび接することができないということであります。
その死生観からすれば、生と死はほんの紙一重で、死者も空や光のなかに存在するかのようである。そして姿や声に接することができない不自由によって、私たちと隔てられているという。
しかしながら、と司馬氏はいう。
しかしながら、私どものしあわせは、目の前にご当人そのものである須田芸術があることであります。(略)
豊かな観賞者であることの幸福を与えてくださったことへの感謝を、虚空に満ち満ちておわす大いなる魂にむかい、ひたすら捧げまつります。
つまりは、須田さんには〝砂に描いた絵〟が残ってるじゃないか。私たちは永遠にそれに接することができるのだ、と。
私などは、その紙一重の寂しさに堪えることができないのだが、司馬氏は明るくそう言う。
司馬さんは、モンゴルの星空の下で、須田さんとは何者かがわかったのだと思う。
この画家は、高い知性をもつひとだが、その精神の大部分は、この世にこういう人が存在するのかと思えるほどに、幼児としてのものである。
芸術や創造というものは、その人のなかの少年の感受性の部分が、外界から吹きこむ風のなかでつねにふるえている状態のなかから成されるものだと私は信じているが、画家の場合、その状態は、稀有なほどに、労せずしてそうなのである。
司馬氏は、須田さんにふれて、「芸術家の精神は童心によって成立している」ことが普遍の真理であろうことを発見した。
星空のエピソードも、この真理も、須田さんが遺した〝砂に描いた絵〟なのだと、私は思っている。
須田剋太没して三十余年、遅まきながら、私は、この人のお人柄に惹かれてしまったのである。
ハバロフスク公園内 大阪府立江之子島文化芸術創造センターウェブサイトより
***
余熱は、いま尽きようとしている。
もう、須田さんのことで書くことはないのだろうか。
そう思ったとき、須田さん自身が書いた文章を見つけた。
司馬さんと旅して
という題の文章で、『街道をゆく』を始めてから14年後のこととあるから、1985年になる。
須田さんのお亡くなりになる5年前のことである。
長文だが、ゆるされたい。
旅をして体が丈夫になりました。それになにより絵が変わりましたね。いろんなヒントを得たし、絵にリアル感が出てきたと思います。
私にとって大変な収穫でした。それもこれも司馬さんのお蔭で、あの人が無名の私を世間に出してくれたんです。
司馬さんは非常に気を遣って下さいましてね、須田さんは特異児童だから、といって、いつもわたしをいたわってくれる。
乗り物に乗ると横からボタンを押して椅子を倒してくれたり。実際、私はそういうこと、何もできないんです。
九州へ行った時のことでしたか、飛行機の中でスチュワーデスがおもちゃの飛行機を子供たちに配った。
私、それが欲しくて頼んだんですけど、大人はいけません、といってスチュワーデスはツンツンしている。(略)
司馬さんはそれを見てましてね、内緒で掛け合ってくれて、あとで、ハイッ、須田さん、ておもちゃを渡してくれたんです。
断られた時のあの須田さんの絶望的な顔!
そして今のうれしそうな顔!って笑うんですけど、いつもこういうやさしき心遣いをしてくれる人なんです。
(中略)
私には生涯の恩人が三人います。
最初の人は、私の絵を根本から変えてくれた人で、造形とは何かということをたたき込んでくれた人です。
次はお坊さんなんですけど、お前は造形のしかいわないけど、人を愛することがもっと大切じゃないかと人としての生き方を教えてくれた人。
第三は司馬さんで、この二つをくっつけてくれた人です。
あの人は若い頃新聞記者をされていた、といいますが、あれはアルバイトだったんですね。
初めから歴史家なんです。
というより人間というものを深く見つめている大思想家なんです。
司馬さんに出会えたことは、私は本当に恵まれていると思う。
道元に、同事ヲ知ルトキ自他一如ナリ、という言葉がありますけれど、いっしょに仕事をしておりますと、心が深い所で響きあって、自他の区別がなくなる。そういう瞬間をおこがましいけど司馬さんにある時ふっと感じるんです。
司馬さんも、私がとにかく一所懸命に絵を描いていることだけは認めてくれているんだと思います。そうでなくてはこんなに長く続かなかった、と考えているのですけれども。
舞妓二人 PR TIMES ウェブサイトより
さて、名残り惜しいが本稿をとじねばならない。
『街道をゆく』のページを開けば、また、愛すべき須田さんに会えるだろう。
須田さんのことだ。
ひょっとしたら、ナッパ服を着て、背中に黒カバン、スケッチ用の大きな画板を首からぶらさげたその人が、古びた雑貨屋脇の路地から街道に出たあたりをゆたゆたと歩いているかもしれない。
そして、私を見つけて言うだろう。
私(わっち)は、いまでもこうして街道を歩いて、好きな絵を描いているのです、と。
嘘でもいい。
私は、そういう景色を遠くから見ていたい。
そうだ。
ギターケースをかかえて歩くような〝馬鹿な旅〟だと思っていた、文庫本片手の聖地巡礼に、また出かけてみようか。
【参考】
司馬遼太郎『以下、無用のことながら』(文春文庫)
司馬遼太郎『街道をゆく⑵』(朝日文庫)
司馬遼太郎『司馬遼太郎ーアジアへの手紙』(集英社)
『司馬遼太郎全集』(文藝春秋)


