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天地温古堂商店

歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めています。読み物が中心です。表現の自由度を高めるために、です・ます調でなく、である調を使っています。そこにみなさまの目に止まる、心に残る何かがあれば幸いです。どうぞお立ち寄りください。

『吾妻鏡』に有名な一節がある。

十二日。癸酉。
さまざまな訴訟のことについて、羽林(源頼家)が直接、判決を下されることは取りやめる。
今後は大事・小事とも、

北条時政
北条義時
大江広元
三善康信
中原親能
三浦義澄
八田知家
和田義盛
比企能員
安達盛長
足立遠元
梶原景時
二階堂行政

等が、合議して取り計らい判断する。それ以外の者たちは、むやみと訴訟の事を(頼家に)取り次いではならない。


というものだ。

 

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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の大江広元(左) izaウェブサイトより


大河ドラマのタイトルにもなった、十三人の合議制のはじまりで、1199(建久10)年4月12日のことである。
頼家の政務開始が2月6日だから、わずか2ヶ月足らずで、頼家の訴訟裁決権は取り上げられてしまった。

とはいえ、上の一節の文末を見ればわかるように、十三人が雁首そろえて審議するのではなく、この十三人以外による頼家への訴訟の取り次ぎを禁ずるもの、と考えられている。

ほかの合議制のメンバーたちが、頼家の能力や人間性に疑問や失望を感じ冷ややかになってゆくなかで、広元は頼朝のときと変わらず、鎌倉殿の側近として誠実に頼家に奉仕をしていこうとしている。
もう少し後のことになるが、頼家が重病になったとき、広元の屋敷で療養していたと『愚管抄』に見える。
このことからも、広元にとっては、終始一貫して頼家が〝機関〟としての将軍であったことがわかる。

将軍頼朝は、武人である北条時政たちと文人である大江広元たちを巧みに使い分けた。
広元は頼朝の意向に留意することのみによって、実務をこなせばよかったが、将軍は将軍でも頼家は違った。

広元は将軍の意志のほかに、北条ら有力御家人集団の意志に配慮しつつ、政治に参画しなければならないことが大きな課題となっていたのである。

自分の振る舞いによって、みずからにも幕府という組織にもリスクとなるかもしれない。
難しいところであった。

頼朝は太陽だった。
その巨大な求心力が失せて、宿老ともいうべき有力御家人たちははやくも抗争の芽を芽吹かせていた。

十三人の合議制から半年後。
梶原景時が頼家にある讒言をしたことから、六十六人の御家人が景時を糾弾する連判状を作成した。
その一人和田義盛がその連判状を、将軍取次の広元に提出したのだ。

 

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和田義盛像(菊池容斎画) Wikipediaより


広元がいちばん恐れていることが起きた。

ご先代(頼朝)が亡くなられてまだ十ヶ月しか経っていないのに、もう幕府に分裂の兆しがあらわれている。
宿老の団結が失われることは、幕府自体の力が弱まることだというのに。


広元は景時の有能さを惜しみ、頼家への取り次ぎを逡巡していると、それを察知した和田義盛が広元のもとを訪れ、眼に怒気を含ませて言った。
その言葉が『吾妻鏡』にある。

あなたは関東の爪牙耳目として、すでに長い年月を経ている。
梶原景時の権威をおそれ、われわれ多くの御家人の鬱懐をさしおいている。


次のひとことは、広元の存在が特別であることを明確にあらわしている。

いづくんぞ憲法にかなわんや。

武骨で一本気な義盛のことだ。
刀でも抜いて脅しでもするかと思えば、広元に向かって、幕府の基本法にかなっていないじゃないか、それは不当だ!と訴えたのである。

関東の爪牙耳目

とは、関東武士のすべての者たちの手足となって働く者の意であろう。
義盛は広元を評価しているのである。

これを見るだけで、広元が行政と司法の中心にいて、常に適正な執行を求められ、かつ、それを履行していたこともわかる。

結果、広元はしぶしぶながら半月たってようやく景時弾劾状を頼家に取り次いだ。
頼家にとって景時は乳母父であったから、助けてやりたかったに違いない。
弾劾状をみた頼家は、それを景時にみせたうえで、弁明を命じた。
しかし、景時は何も弁解せずに、親族を引き連れて自らの所領にひきこもってしまった。
孤立した景時の末路は周知のとおりである。


◾️梶原景時に関する拙稿


将軍と御家人集団とのはざまの微妙であやうい立場にある広元の苦衷が、察せられる事件だ。


この後、次々と起きる事件を見てゆくと、広元がなにを大切にして生きていたのかがよくわかる。

景時事件から3年後の1203(建仁3)年7月、将軍頼家は重病にかかり危篤状態におちいった。
頼家危篤は、水面下で渦まくおそろしい権力抗争のゴングでもあったのだ。

藤原定家の『明月記』には、

9月1日に頼家が病死したので、千幡が跡を継いだ、との報告が9月7日に都に届き、千幡(実朝)の征夷大将軍任命が要請された

と記されている。

しかし、おかしい。事実は違う。
頼家は危篤だがまだ生きている。

 

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源頼家像(建仁寺蔵) Wikipediaより


一方、『吾妻鏡』の9月2日の項には、こうある。

頼家の妻で一幡の母である若狭局の父比企能員とその一族が頼家とともに、北条一族を討つ計画を立てたところ、その計画が漏れて北条時政はこれを知った。

この後、広元が出てくる。

時政は広元の屋敷にやってきて、比企一族の横暴なふるまいと策謀をくわだてていることを話し、これを討伐するつもりだが、意見はないかと、尋ねた。

広元はこのとき、思わず背筋に悪寒がはしったのではないか。
頼家は広元の屋敷で療養していたのだ。彼がそんな悪謀に加担してたとは思えなかった。
そう思いつつ、しかし、広元は慎重に言葉を選んで言った。

わたしは、頼朝様以来、政道を補佐するものでありますが、合戦のことはよくわかりません。
比企氏を討伐するかどうかについては、賢明な判断をくだすべきと存じます。


これでは、討伐が是か非か、曖昧な回答だ。
しかし、時政は、討伐容認と解した。
このあと、北条政子邸で協議をすることになり、広元も招請された。

このとき、広元はみずからの命の危険を感じたらしい。
彼には一人、身辺護衛役がいる。
彼はその護衛役に、こう言ったという。

世上は不穏でおそろしい。
けさ、十分に協議したばかりなのに、また招集されるというのは、まことに納得がいかない。なにか不慮のできごとが起きたら、お前はまずわたしを殺しなさい。


しかし、広元は危機を脱している。

9月2日 比企一族滅亡
9月7日 頼家解職、出家
9月29日 伊豆・修禅寺に幽閉

そして、翌年7月18日に北条氏の刺客によって頼家は殺害された。

いくばくかの歳月が流れた。
頼家の後を継いだ実朝もすでになく源氏将軍は三代で絶えた。

 

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大江広元邸跡の碑 鎌倉PRESSウェブサイトより


1221(承久3)年5月。
広元は74歳になっていた。
同月19日、後鳥羽上皇は執権・北条義時追討の院宣を発した。
上皇の挙兵である。

京都にいる御家人たちも、この朝幕破局のあおりを受けた。
幕府の京都守護は、伊賀光季と大江親広の二人。伊賀光季は義時の義兄であり、大江親広は広元の長男である。
上皇はこの二人にも動員命令を出した。
光季はこれを拒否して殺された。一方、親広はこれに応じている。

上皇起つの報が鎌倉に届き、動揺する御家人たちに対しておこなった尼将軍・北条政子の

皆心を一つにしてお聞きなさい。これが私の最後の言葉である。

に始まる演説は有名だ。
これで、御家人たちのハラは固まった。

次は具体的な戦略である。

迎撃か、出撃か。

迎撃策は、足柄・箱根の関を固めて、長い軍旅に疲れた朝廷軍を迎え撃つという。
広元は出撃を提案した。

義時は、両案を政子に示したところ広元の案に同意したため、京都出撃が決まった。
しかし、動員を進めるうちに御家人たちの間にふたたび迎撃論が強まった。

5月21日、ふたたび軍議。
広元はかつて、時政から比企討伐を相談されたとき、「わたしは、頼朝様以来、政道を補佐するものでありますが、合戦のことはよくわかりません」と言った。
その軍事のシロウトの広元が、軍議で喚くようにこう言ったのである。

いったん京都出撃に決まったのに、軍勢の進発に時間をかけたためにふたたび迎撃論がむしかえされてしまった。武蔵国の軍勢を待つというが愚策である。
いかに幕府の主力たるべき彼らも、時が経過すれば心変わりするおそれがある。
今夜にも泰時は単騎でも出撃すべし!
そうすれば関東武士はことごとくこれを追い従うだろう!


武士顔負けの強硬な出撃論だ。
文人である広元がなぜこうも強硬に出撃を説いたのか。

広元は幕府政所という政治の奥座敷にいて、勝利者が何をもって勝利したかを傍観者または追認者としていやというほど熟知していた。

頼朝の伊豆での挙兵
梶原景時の排斥
比企一族の討伐と頼家追放
和田義盛への挑発
畠山重忠の討伐

すべてが先制攻撃によって得た勝利だった。

さらにいえば広元は、上皇の義時追討命令に大きな公憤を持っていたと思える。
義時を討つということは、幕府を討つということだ。
それを広元の人生が許すはずがなかった。

鎌倉幕府は、広元が頼朝に請われて都を離れて以降いままで、全身全霊をかけて作り上げた〝一所〟であった。
武士は、鎌倉殿から与えられた土地や先祖代々受け継いだその一所を命を懸けて守り抜いたというが、広元にとっての幕府はそれ以上のものであろう。
それを壊されていいはずがない。

広元は、鎌倉における京下りの官吏であったが、決して京都での生活と絶縁して鎌倉に活動の場所を移したわけではなかった。
頻繁に京都と鎌倉を往復し、幕府の要人でありながら、朝廷においては従四位下・陸奥守を任官されていた。
九条兼実や源通親ら朝廷の実力者とときに親しく交流しときに厳しく交渉して、朝幕の融和に務めてきた。
それもこれも武家政権の存在を前提にした国家秩序のあり方を守ることに人生をささげたからだった。
それを壊されていいはずがない。


もしできるのであれば、広元一人が都へ攻めのぼり、御所へ駆け入ってそれらのすべてを覆そうとする上皇と刺し違えたかった。

広元の軍議での言葉は義時を強く動かし、その翌日、ついに幕府は軍勢を京都へ向けて進発させた。
幕府軍は破竹の勢いで朝廷軍をやぶり、6月15日には京都へ入り、朝廷軍は完全に敗北した。

 

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承久の乱を描いた承久記絵巻 毎日新聞ウェブサイトより



広元は、承久の乱の4年後の1225(嘉禄元)年6月10日、持病の痢病が悪化して死んだ。

78歳であった。

鎌倉にはすでに北条義時は亡く、北条政子も広元の後を追うように7月に亡くなった。

ちなみに史上初めての武家法である『御成敗式目』は、広元の死から7年後の1232(貞永元)年に義時の子である泰時によって制定された。

泰時は、広元の死後、あることをおこなっている。
それは、広元が所有していた多数の文書をかき集めたことだ。

その中身は、

朝廷との政治交渉記録
御家人たちの任官要求の将軍への取次文書
公家・寺社勢力に対する政策文書
荘園領主と地頭との訴訟裁定記録
合戦後の御家人の論功行賞記録


泰時は、驚きつつこれらのすべてを精読したであろう。
そして、泰時はこれら〝広元の遺産〟に学び影響を受けて、御成敗式目を作ったにちがいない。

 

虎は死して皮を残すという。

 

私の勝手な想像になるが、すこし前の稿に、現在の民法162条1項にある「20年占有していれば自分の土地」というルールは、御成敗式目にさかのぼると書いた。

ひょっとするとその法慣習は、広元の荘園領主と地頭との訴訟裁定記録のなかにあったのかもしれない。

 

だからというわけではないが、大江広元ほどこの国の歴史に大きな遺産をのこした存在は、他にいないのではあるまいか。

 

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御成敗式目 日本大学法学部ウェブサイトより


【参考】
上杉和彦『大江広元』(吉川弘文館)
西田友広編『吾妻鏡』(角川書店)
司馬遼太郎『街道をゆくー三浦半島記ー』(朝日文庫)

司馬遼太郎『この国のかたち⑹』(文春文庫)
永井路子『つわものの賦』(文春文庫)

海音寺潮五郎『武将列伝・源平篇』(文春文庫)
伊東潤『なぜ平氏政権は20年で終わり、源氏政権は150年も続いたのか…鎌倉殿の13人に4人いた「吏僚」のすごさ』(プレジデントオンラインより)


◾️承久の乱〜霜月騒動に関する拙稿