海音寺潮五郎と司馬遼太郎のいる風景②〜『西郷隆盛』『翔ぶが如く』のころ〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。そこに目に止まる、心に残る何かがあれば幸いです。どうぞお立ち寄りください。

海音寺潮五郎は、鹿児島県伊佐市(旧・大口市)生まれの薩摩人だ。
氏は、故郷の英雄・西郷隆盛を惚れ抜いていた。


私が西郷の伝記を書こうと思い立ったのは、私が西郷が好きだからです。
理由を言い立てればいくらもありますが、詮ずるところは、好きだからというに尽きます。
好きで好きでたまらないから、その好きであるところを、世間の人々に知ってもらいたいと思い立ったという次第です。


と言って、大長編史伝『西郷隆盛』を書いた。

どうしても西郷伝を書かなければならない。
私が書いておかなければ、西郷はこの妄説の中に埋もれてしまい、ついにはこれが定説となってしまう。


海音寺氏は、これを完成させるために引退宣言(1969年)までして、他の一切の活動をやめている。
もはや、執念である。
おそらく惚れ抜いた西郷を書くことが、全精力を投じる最後の大仕事と決めていたのだろう。

 

海音寺潮五郎・著『西郷隆盛』 Amazonウェブサイトより

西郷〝伝〟と言っているように、海音寺氏はできるかぎりフィクションを排して、実証的な筆づかいをしようとした。
西郷への愛で曇る目で、運ぶ筆が小説的になるのを、こらえにこらえて史伝に踏みとどまろうとした労作だった。

人間はそういうものなのです。
ほれて書けないなどという人は、人間というものを知らないのです。
単に公平であるというだけが取柄の伝記など、何になりましょう。
貴重な時間を費して読む道楽は私にはありませんね。


海音寺氏の『西郷隆盛』の執筆は、1961(昭和36)年から1977(昭和52)年まで続いた。

海音寺氏がそれまでの妄説を排し、これぞ定説だとして書き始めた『西郷隆盛』だったが、司馬氏も1972(昭和47)年から西郷隆盛を主人公とした小説を書き始めたのである。

司馬氏が西郷を書こうとした動機は、海音寺氏とはまったく違う。

ある酒席で、官僚を職としてきたある人が、不意に杯を置いて、
「日本の政府は結局太政官ですね。本質は太政官からすこしも変わっていません」
と言ったことから、司馬氏は、

日本の統治機構は、政府というべきなのか、それとも「官」といったほうが語感として本質に近いものなのか、ここ十五、六年来、すこしずつ考えてきて、その濃度がやや濃くなったときに『翔ぶが如く』を書く気になった。

というのだ。

司馬氏、西郷を愛する海音寺氏とは視点においてまったく違っていた。
司馬氏はいう。

倒幕後の西郷は、みずから選んで形骸になってしまった。
悲惨なことに、その盛名だけは世をおおった。

西郷は革命の象徴となり、曠世の英雄とされた。

そして、『翔ぶが如く』について、

この作品では、最初から最後まで、西郷自身も気づいていた西郷という虚像が歩いている。
それを怖れる側、それをかつぐ側、あるいはそれに希望を託する側など、無数の人間現象が登場するが、主人公は要するに西郷という虚像である。


主人公は、虚像の西郷だというのである。

 

司馬遼太郎・著『翔ぶが如く』 Amazonウェブサイトより

司馬氏の『翔ぶが如く』の西郷は、維新後からスタートする。
維新前の倒幕の大きな原動力だった存在が、維新後になると近代国家像を持たず、虚像となってかつがれ敗滅してゆく姿に描いている。

海音寺氏が見たのは、維新後も維新前とその理想はまったく変わらない、むしろさらに理想をめざす西郷の姿であった。

ぼくのみるところ、西郷はあくなき理想家である。
理想家であったが故に、彼は幕府政治に不満を抱いてこれを打倒したが、その後にできあがった明治政府は立って数年ならずして腐敗のきざしをしめしはじめた。
理想家であり、良心的であり、誠実である西郷にとっては身を切られるように切なかったに相違ない。

「こんなつもりで、おいどんらは幕府を潰したのではなかった」
という心が去らなかったであろう。
彼はクーデターによって最も理想的な政府をつくろうと思ったにちがいない。
理想的な政府なぞ、どこの世界だって、いつの時代だって、あったためしはない。
実現可能と信じて、賽の河原の子供のように、積んではくずし、積んではくずすことをつづけざるを得ないのだ。
最も悲劇的な性格というべきであろう。


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海音寺潮五郎 かごしま文化情報センターウェブサイトより

 

水魚の交わりの二人であっても、西郷隆盛像はこのように異なっていた。
異なっていると互いに感じつつも、海音寺氏の『西郷隆盛』と司馬氏の『翔ぶが如く』の執筆時期は見事に重なっていた。

海音寺氏の次女・末富明子氏によれば、父から、

『西郷隆盛』を書きながら、『翔ぶが如く』を持ってくるようにと、よく言われました。

しばらく読んでいて、「うーん、司馬君でもこう思うのか」って。
やはり、自分の持っている西郷像とは違うという気持ちもあったんでしょうね。


これはとても大きな証言だろう。
海音寺氏の思わず口に出た「司馬君でも」の「でも」とは、氏の言う

豊富な知識があり、最も柔軟鋭敏な感性があり、雲間にきらめく電光のような天才的創見を持っているうえに、すぐれた話術の持ち主

そんな司馬君でも、俺とこんなに違っていたのか、という詠嘆ではなかったか。

 

司馬遼太郎 産経新聞ウェブサイトより

しかし、互いに執筆の忙中にあっても、二人はともに薩摩を旅しており、このときは島津久光について語り合い、それでも話し足りなくて後日、司馬氏は手紙を添えて久光に関する書籍を海音寺氏に送っている。

明子氏はその後、海音寺氏に司馬氏の西郷像の違いをずいぶんと聞いてみたという。

でも、あまりはっきりわかりませんでした。
『翔ぶが如く』を作品としては好きでしたけれど、西郷については「それ以上のものがある」と言うだけでした。


私には、海音寺氏の西郷像は氏の出自が大きく関わっているのではないかと思える。

これも明子氏の証言なのだが、明子氏の祖父すなわち海音寺氏の父君は1864(元治元)年生まれの人で、子供のころに霧島の温泉で西郷隆盛に抱かれてお湯に入ったことがあるのだという。
おさな心に西郷さんへの特別な思いが宿ったとしても不思議ではない。

父君は、西南戦争のときは12歳くらいだった。

西郷軍が大口を通った時は、祖父も「オイも行く」と言ったんですが、お母さんがずっと着物の袖をつかんで離さなかった。

そういう稀有な体験をお持ちの父君からの影響が、海音寺氏になかったとはいえまい。

西郷隆盛たち薩軍出陣の図 Wikipediaより

唐突だが、空海について少しふれる。

今年の「菜の花忌シンポジウム」のテーマは『空海の風景』だった。
その中で、空海と最澄の対比についてのパネラーの発言は、大いに興味深かった。

桓武天皇が密教を欲したとき、最澄は知ることのわずかな密教を空海から知ろうとし、懇願して密教の経典を借り、書き写してその教えを知ろうとした。
この方法を筆授という。
空海は内心で、文字による密教の理解を嫌悪し憎んでいた。
空海は筆授でなく体験によって密教を会得している。
やがて、空海は最澄への経典の貸出しを断るようになった。

座談のなかでパネラーの作家・辻原登が言う。

空海と最澄の違いは、結局、長安を見たか見なかったかということに尽きる。

菜の花忌シンポジウム2025のテーマは「空海」 産経新聞ウェブサイトより

 

最澄は天台山に行き、天台宗の奥義を極めて帰国した。
一方、空海は唐の都・長安へ行った。

正統の真言密教を継がれた最高僧・恵果は長安にいて、空海はその門下となった。
恵果が驚いたのは、空海はすでに独学で密教を会得しており、恵果はそれを追認するのみだったという。
空海は恵果から後継者としての儀式を受ける。

空海が長安を見た、ということは恵果から追認を受けたことと、世界に四通する巨大な街衢にあって多様な宗教を見聞し体感したということだろう。
護摩などもそうかと思われる。
空海は、長安で密教を体感することが唯一的に重要だったのである。

こうして空海と最澄について話をはさみこんだのは、体感・体験ということのゆゆしさを言いたかったからだ。

空海の体感した長安
海音寺氏の父君の体感した西郷


この二つは同じ意味を持つのではないか。
これは私の妄想ではある。

海音寺氏が娘に問われて、『翔ぶが如く』の西郷については「それ以上のものがある」といった答えには、父君を通して氏が体感している西郷さんのなにごとかが、氏の中で結像している、といえば多少は合点がいく。

その海音寺氏が、『西郷隆盛』の執筆中に倒れた。
脳出血だった。
その2週間後に心筋梗塞を併発して、1977(昭和52)年12月1日お亡くなりになった。
享年76。
『西郷隆盛』はついに未完のまま終わった。

司馬氏は、海音寺氏の死の2日後に寄稿した文章の中で、こう言っている。

ひそかに察することだが、西郷とは江戸三百年の教養時代がその末期に発酵されさらに蒸溜され、ただ一滴だけしたたり落ちた何事かであったという消息に氏は触れたかったにちがいない。
その意味ではたとえ未完であっても十分書かれているように思えるし、いまとなれば、念ずるほどにそう信じたい。


もし司馬氏が、海音寺氏がふと明子氏に、

西郷についてはそれ以上のものがある

ともらした事実を知っていたなら、「それ以上のもの」を、司馬氏なりにそう表現したのではあるまいか。

時はすぎて、1991年に司馬氏が文化功労者に選ばれたとき、明子氏は海音寺氏の愛用した扇子と同じ柄のものを贈った。
それへの司馬氏の返事がある。

父君は、鎌倉・室町の心を持たれた方でありました。鎌倉の潔さ、室町の優美、さらには,自我の陶冶と自由という近代ヨーロッパの精神を、ごく自然にお持ちになっていました。(略)
いかにも血液の量の多そうな父君に、人並み以下少なそうな小生の体とはずいぶんちがいますが、気質としてわずかに似通ったところがあるとひそかに誇りにしています。
まことにありがとうございました。


その司馬遼太郎氏もその5年後の1996(平成8)年に、末富明子氏も2011(平成23)年に鬼籍に入られた。

人間は二度死ぬ。
まず死んだ時。
それから忘れられた時。

ということばがある。
一度目の死は、医学的に死亡が確認されたとき、二度目の死はすべての人の記憶から忘れ去られたときという意味だ。

ということは、記憶にとどめてくれる人がいる限り、たとえ死んでもその人の心の中で生き続けていることになる。

本稿は、ただそうありたいがために書いた。
機会があれば、またそうしたい。



【参考】 
海音寺潮五郎・司馬遼太郎『日本の歴史を点検する』(講談社文庫)
司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと4』(新潮文庫)
海音寺潮五郎『西郷隆盛』(角川文庫)
司馬遼太郎『翔ぶが如く(10)』(文春文庫)
『「翔ぶが如く」と西郷隆盛』(文春文庫)
週刊朝日編集部『司馬遼太郎からの手紙(下)』(朝日文庫)