理想郷はるかなり・西郷隆盛の死命③〜風を結ぶ西郷の維新〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

もうひとり、西郷隆盛を史伝のかたちで書き残した人がいる。

海音寺潮五郎。


司馬遼太郎を作家として見い出した、いわば司馬氏の恩人であり師にあたる人でもある。
そのことは以前に少し取り上げた。




海音寺氏は、西郷の大ファンだ。

かれが西郷の小説を史伝、すなわち歴史上の事実に基づいた伝記のかたちで書いたのには理由がある。

海音寺氏は西郷に惚れぬいている。

男ぶりがいいと外見に惚れ、性格に惚れ、見識に惚れ、なにからなにまで気に入った。
惚れたがゆえに自分の目が主観というナミダに曇っていることを自覚していた。
だからこそ、西郷の歴史的事実だけを見、史伝というワクにはめこもうとしたのだ。

西郷に対する司馬氏の戸惑いは、維新前の倒幕に大きな能力を発揮したのに、維新後の西郷が新国家の青写真をなんら持っていなかったという大きな落差にある。

しかし、海音寺氏はそこがまるで違っていた。
維新前と維新後でまるで人が変わってしまうことなどあろうはずがないといっている。
むしろ、維新後、西郷の理想はいっそう実現するはずだったというのだ。

 

海音寺潮五郎 写真 かごしま近代文学館ウェブサイトより

 

なぜ西郷は政府に反乱したのか。

それには多くの要素がありすぎて一口には言うことはできない。
だから、よけいに反乱の当人の思想や人間像から、なにごとかを知りたいと思うのだ。

司馬氏は薩摩特有の文化まで引き合いに出して、決起までの西郷の内心に迫っている。

薩摩の藩風として、その人物が理想的な首領の風があるとなれば、これを甚だしく尊敬し、かつぎ、ついにはその人物のために命も要らぬということになってしまう。
西郷は素材として十二分にそうされるにふさわしい種子を持っていた。


薩摩には古来、オセンシ(大兄衆)という言葉があり、オセンシのいうことにはさからうな、といわれている。

司馬氏はいう。

このことは、薩摩藩、西南戦争、西郷を理解する上で、重要であるといわねばならない。(略)維新後の鹿児島県にあっては、多くのオセンシの頂点に立つ大オセンシが西郷だったということになる。

坂本龍馬は西郷を評して、

西郷という男は大太鼓のような男。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく響く。
もしバカなら大バカ、利口ならば大利口。

 

と言った。

 

これは日本のある種の不思議な役柄で、その原型は天皇だ。

黙って坐っている、その前でいろんな知恵が空転する。

そして最後のところで一つの決断を西郷は下してくれる。

という解説を前稿で紹介した。

司馬氏もこのことは重大な西郷の特性と見ており、次のようにいっている。

幕末の西郷は藩を代表し、他藩との外交を担当した。その幕僚は藩においてそういう役職を持つ者達ではない。
西郷が、任意に選んだ連中である。(略)
かれらが諸方から情報をあつめてきて、西郷が判断者になった。ときにはかれらが判断し、西郷はその判断を採用し、行動した。
幕僚のなかでも、弟の西郷従道と大山巌がもっともすぐれていた。


司馬氏は、維新前と維新後の西郷の違いをあらわす発言を発見した。
弟・従道が晩年にいった言葉がそれだ。

兄が幕末にあれほど働いたのは、私たちが居たからだ。

従道はおよそホラ吹きでも自信家でもない人物だ。おそらく事実だろう。
と同時に、それは従道の恨みごとでもある。

 

西郷従道 国立国会図書館ウェブサイトより

あらたに西郷をかついで西郷を大オセンシにしたのは、従道からみれば単なる人殺しで信じがたいほどの阿呆である桐野利秋であり、あるいは賢愚さだかでない篠原国幹らであった。(略)右の言葉には、
「兄を誤ったのは彼らだ」
という恨みと気持の偏りがこもっている。


つまり維新前の西郷は、従道や大山らすぐれた幕僚の情報による判断者だったため、維新の英雄となり得た。
しかし、維新後は取り巻きが桐野ら阿呆な判断の採用者になったため、身を滅ぼしてしまった、そう言いたいのだろう。

司馬氏は困りぬいたはてに、敗亡に向かう間の西郷の内心のありかを留保し、大オセンシへの絶対服従という薩摩文化と桐野らへの白紙委任という答えに行き着いた。
そのことは次のことでうかがえる。

西郷は、暴発に反対であった。
が、結局は「わしの体をやる」というかたちで、かれらにかつがれた。
この西郷の心事については、以後、議論が多い。
西郷の行動は論理的でないといわれたりする。
しかし薩摩文化というものからみれば、議論も論理もここで絶えるわけで、西郷は当然ながら雪の道を蹴って若衆とともに肥薩の国境を越えてゆかざるをえないのである。


海音寺氏は、そう思ってはいない。
海音寺氏は西郷を維新前と維新後でまるで人が変わってしまうことなどあろうはずがない。むしろ、維新後、おのれの理想はいっそう実現するはずと考えていたというのだ。

海音寺氏の西郷への思い入れは相当に深い。西郷の内心を思うと自己同一化して身もだえするほどだったのではないか。

海音寺氏はいう。

ぼくのみるところ、西郷はあくなき理想家である。
理想家であったが故に、彼は幕府政治に不満を抱いてこれを打倒したが、その後にできあがった明治政府は立って数年ならずして腐敗のきざしをしめしはじめた。


理想家であり、良心的であり、誠実である西郷にとっては身を切られるように切なかったに相違ない。
「こんなつもりで、おいどんらは幕府を潰したのではなかった」
という心が去らなかったであろう。


こんなつもりで、とは政府の腐敗のことである。
腐敗とは、たとえば新政府の金庫番である井上馨を指す。
井上は職権を悪用して尾去沢銅山を横領してしまった。
井上は、銅山を所有する民間人に南部藩が借金をしていたものを、民間人のほうが藩に借金をしていることにし、それをただちに新政府へ返せといい、無理だとわかると私有する銅山を没収してしまった。
さらに井上は、収公した銅山を懇意の政商に好条件で払い下げたばかりでなく、銅山に
「従四位井上馨所有地」
という立看板を堂々と掲げたという。

 

尾去沢銅山(秋田県) 史跡尾去沢鉱山ウェブサイトより

また、たとえば軍政を取り仕切る山県有朋を指す。
山県のかつての部下に山城屋和助という御用商人がいた。
山県が山城屋からの軍需品納入に便宜を図り、たちまちのうちに財を為し豪商といわれるまでにのし上がった。
山城屋は見返りとして山県に贈賄したことはいうまでもない。完全な癒着である。

山城屋は、生糸相場にも手を出し、陸軍省から公金を無担保で借り出した。
ところが、ヨーロッパの生糸相場が暴落、山城屋は投機に失敗。
これを取り返そうとして、山城屋は再び陸軍省から公金を借り出す。
その額は当時の国家歳入の1%強、陸軍省予算の10%弱という莫大な金額だ。
悪事は明るみに出て山城屋は山県に救済を求めるも見放され、万策尽きて自殺した。
山県は政治生命の危機におちいったが、西郷によって救われたのである。

もはや悪政府というべきだろう。

だけでなく、西郷の失望がよほど深刻だったことは『南洲翁遺訓』からもうかがえる。

西郷はいう。

国民の上に立つ者は、
いつも自分の心をつつしみ、
品行を正しくし、
偉そうな態度をしないで、
贅沢をつつしみ節約をすることに努め、
仕事に励んで一般国民の手本となり、
一般国民がその仕事ぶりや生活ぶりを気の毒に思いなさい。
そうでなければならない。


であるのに、いまを見よ!

維新となってまだ間もないというのに、
立派な家を建て、
立派な洋服を着て、
きれいな妾をかこい、
自分の財産を増やしている。
そんなことばかりを考えるならば、維新の本当の目的を全うすることはできはしない。


いまになれば、戊辰の正義の戦いも、ひとえに私利私欲をこやす結果となり、国に対し、また戦死者に対して面目ないことだ。

倒幕の同志も薩摩人も幕末維新の風雲のなか、多くが死んだ。
感情量の多い西郷にしてみれば、かれらが夢見た維新がこれか、という哀しみにも似た憤りがあったろう。

 

南洲翁遺訓 日本の古本屋ウェブサイトより 

どうも西郷が実現したかったのは、士族による軍制だったらしい。

彼は維新からその死まで、中央政府にいる時間より薩摩にいる時間の方が長かった。
薩摩では参政の地位にあり、また下野した後は私学校を作った。

彼がそこでやったことを見ると、士族による軍政だった。
維新直後の薩摩藩改革では、藩の統治権を取り上げて各地に「地頭」という職を置いて、軍を常備した。
地頭は、

軍事
警察
司法
行政

その一切を掌握した。
地方の役所は「軍務方」と呼ばれた。
西郷のやった藩改革は、すべてを戦時体制とする士族による軍制であった。

西郷が、廃藩置県に賛成したのは有名な話だが、彼は大久保利通ら中央政府の思惑とは違い、みずからの敷いた改革薩摩の軍制を、廃藩置県によって全国に展開したかったのだと見られている。

西郷の考える維新のゴールはそれだった。

 


私学校跡 かごぶらウェブサイトより

 

大久保ら新政府の首脳たちは、西郷に留守をまかせ欧州諸国を外遊した。
その結果、彼らは西洋の進んだ技術や政治のしくみ、文化を知ることとなり、西洋の国々に倣った近代国家をめざすこととなった。 

近代化イコール西洋化。
彼らは、富国強兵、殖産興業、不平等条約の解消などの課題解決のために、急速に洋化政策をとり西洋を模倣しようとしたのだ。

交通手段も、街並みも、建築も、食文化も、風俗習慣も、模倣した。

東京名勝筋違目鏡橋之景(絵・三代目歌川広重)世界の歴史まっぷウェブサイトより 

しかし、西郷の考えはそうではない。
順序が異なっていた。

まず先に、自分の国の根本のかたちをしっかり理解して、徳のあるおこないをもって国民を教え導かなければならない。
西洋の長所を取り入れるのはそのあとでよい。


と遺訓のなかで言っている。

みだりに模倣すれば

と言うのは、政府の洋化政策を指すのだろう。

みだりに模倣すれば、国は根本から衰退して、道徳は地に堕ち救いようのないことになろう。

西郷は、文明やそれがもたらす利益や便益には目を向けていない。
といえば語弊があるが、彼はそれは後回しにして、まず人間の内面、精神、思考とそれに裏付けられた行動を求めた。

西郷の理想は

よく国に仕え、親を大事にすること
他人に対していつくしむ心
徳あるよい心と行いに教え導くこと


であり、

それらが政治の基本であり、未来永遠に、全世界になくてはならない大事な道である。

ということであった。

西郷の士族による軍制は、いわば容器に過ぎず、その容器には西郷の理想が盛られるはずだったのだ。

現代に生きる私にとっては、彼がその理想をもって宰相となり、あの当時の日本を切り盛りできたかどうかは、はなはだ疑わしい。

しかし、彼が妥協を受け入れる漸進的な政治家なら、理想の一部を実現して違う日本ができたかもしれない。

 


鹿児島に建つ西郷隆盛の銅像


海音寺氏の書いた西郷隆盛の史伝の最後は、維新後の西郷の不可解な失陥を、推しはかることができそうだ。

彼の良心的な性質と、誠実さとを見るとともに、彼がいかに新政府にあき足りなく思っていたかがわかるのであり、このあき足らなさは、彼が飽くなき理想家であったところから出て来るのだと、ぼくは思うのだ。

そして、西郷にとって西南戦争は不平士族に身をゆだねた緩慢な自殺行為ではないと、氏は断言している。

彼はクーデターによって最も理想的な政府をつくろうと思ったにちがいない。

しかし、氏はそれが成功したときの西郷の運命まで予測している。

しかしながら、もし西南戦争が彼の勝利に帰し、彼が東京に上って来、政府をこしらえたとしても、彼は決してそれに満足せず、再び革命を企てるか、彼の股肱であった人々に殺されるかもしれない。

そこまで言い切る氏の炯眼には驚くばかりだ。

私は西郷の思いを知り、ふと、『翔ぶが如く』の一場面を思い出した。
前稿に登場した西郷軍中津隊の増田宋太郎は、西郷とともに城山で死ぬが、彼のもらしたことばが、こう描かれている。

増田は、西郷軍の勝利に期待するところ大きく、その勝利によって自分の志を実現しようとした。草と草を結んで事の成功を期待する古俗が豊前あたりに残っていたらしく、増田は野村(注・忍介・薩摩人)にその話をし、
「しかしありようは草のかわりに風を結ぶようなものだ」
ともいった。


草は結べても、風は結ぶことなどできはしない。

西郷の理想郷は、風を結んで終わった。

海音寺氏の史伝の結びは、西郷への思慕が深甚なものであることを痛感させられる。

理想的な政府なぞ、どこの世界だって、いつの時代だって、あったためしはない。
彼の心理の中だけにあるだけだ。
彼はそれを知らない。
普通の人なら、それを知って、妥協に甘んずるか、哲人となって世を雲煙の下に高踏するかするのだがー彼はいく度かそうしようと試みているのだが、かなしいことに彼は英雄であった。

おのれの力を信ずることが厚い。

おさえてもおさえ切れない烈々たる熱情がある。
実現可能と信じて、賽の河原の子供のように、積んではくずし、積んではくずすことをつづけざるを得ないのだ。
最も悲劇的な性格というべきであろう。


もうこれ以上の説明が不要なほど、西郷隆盛という人間がわかるような気がする。

しかし、海音寺氏のこの一節。
まるで尊敬し愛する大切な人への弔辞のようで、とても切なく思えるが、どうであろう。

 

【参考】

海音寺潮五郎『武将列伝・江戸篇』(文春文庫)

司馬遼太郎『翔ぶが如く』(文春文庫)

「翔ぶが如く」と西郷隆盛(文春文庫)