望月の世への道⑤〜われら王氏・平将門と興世王の歴史への一撃〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

平将門は、桓武平氏の祖・高望王の孫にあたる。
興世王(おきよおう)の出自は不詳だが、桓武天皇の皇子・伊予親王の玄孫とも文徳天皇の曾孫ともいう。彼の役職は武蔵権守というからなかなか大役だ。

高望王が臣籍に降り平高望となって関東に下向してその子らが勢力を扶殖していったことは以前述べた。



将門もその一人であった。
彼らは武士と呼ばれる。
ただ、初期の武士は下級貴族や有力農民が土着し武装した者たちだ。
なぜ、彼らは武装したのか、あるいは武装しなければならなかったのか。


日本最初の律令である大宝律令には軍団についての規定があって、軍隊が常設されていた。
しかし、桓武天皇のとき、参議・藤原緒嗣の以下の提言、



 

方今天下の苦しむ所は、軍事と造作なり。此の両事を停むれば百姓安んぜん。

が採用され軍団が廃止されて、日本に常備軍はなくなってしまった。


小規模な盗賊の逮捕なら当時の警察である検非違使で間に合うが、武装した大集団の強盗は手に負えない。
人々は自衛するしかなくなった。

寺院では僧兵が生まれた。
領地を持つ者は一族の次男坊三男坊を家子にし、使用人のなかで壮健な者を郎党にした。あわせて、イエノコ・ロウトウと呼ばれた。どちらも族長(惣領)の家来というほどの意味を持つ。

このようにして武士は起こった。

武士はおおむね全国一斉に発生したが、それでもとくに関東(この頃は坂東)は盛んであった。

白河以北は鎌倉時代の初期までは、まだ蝦夷の版図であった。
奥羽の只中の秋田・志波(盛岡)には朝廷の出城があったが、蝦夷の叛服は頻繁であった。

坂東は蝦夷の地と境を接している、いわば辺境地帯である。
白河以北の奥羽では蝦夷の反乱が頻々として起きていた。

朝廷には常備軍がない。
有事の際にどうするかというと、将軍が任命され数名の従者を連れて坂東にやってきて、そこで兵を徴募するのだ。
徴募されるのは坂東人たちであり、その都度に奥羽に乗り込み敵と戦うのだ。
強くなるはずである。

将門はそういう土地に生まれ、そういう気質の人々の中で育った。

 

大河ドラマ『草燃える」のワンシーン NHKアーカイブスより

藤原氏と血縁のない王氏であった将門は、土着し代を重ねるごとに、武装農場主として一大勢力となったのである。

さらに脇道にそれて、別の王氏を見てみる。

その衰勢なさまは摂関藤原氏と対照的である。
平城天皇の子・阿保親王の曾孫に大江玉淵という人がいる。日向守という官職まであるが、その娘が白女という名の遊女だというのだ。

淀川沿いの江口のあたりの遊女であるといい、宇多天皇が淀川あたりに遊びにきた際に、白女を召して涙を流したという。
宇多にも藤原氏の血でない皇女がいる。その行く末を案じたのか、それとも白女の境遇を憐れんだのだろうか。

ちなみに大河ドラマ『風と雲と虹と』には、天皇の末裔が遊女に身を落として主人公の平将門と出会う、貴子という女性を吉永小百合が演じていた。
白女をモデルにしたのかもしれない。

 


嵯峨天皇の曽孫・貴子を演じた吉永小百合(左) NHKアーカイブスより

光源氏のモデルのひとりとされる源融は嵯峨天皇の皇子である。
臣籍に降り藤原氏の血をひいていないといっても従一位・左大臣まで進んだ。
その子が源昇(のぼる)は、正三位・大納言。
昇の次男の源仕(つこう)になると、いよいよ都では職にありつけず関東に下向して、武蔵国の国司となった。
仕の子は宛(あつる)。
宛は、国司である武蔵守にはなれず権介という次官補程度だ。
もはや貴族とはいえない。
わずかに桓武平氏の平良文と荒川のほとりで一騎打ちをした逸話が残るくらいである。
光源氏も曾孫となるともはや田舎源氏である。

さて、平将門である。
彼が坂東で起こした(巻き込まれた)親族間の騒擾については、以前に別の稿で述べた。



ときに武蔵国である事件が起きた。

武蔵に武蔵武芝という実力者がいる。
土豪劣紳というやつで地生えの名家の当主が郡司という役についている。

そこへ新しく武蔵権守・興世王、武蔵介・源経基が赴任してきた。
経基は清和天皇の孫だから、二人とも肩で風を切っている。
さっそく気張って国内の巡視をやるというのだ。

武芝も武骨者だから、守(長官)が来るまで待つのがならいだ、といって譲らない。
興世王も経基も無礼だと怒って、ずんずん巡視をやり始めた。
というか、武芝やその一族の屋敷に入り込み、不審であるなどといい、品物を差し押さえたり持ち去ったりした。

この仲裁に乗り出したのが将門だった。
興世王、経基、武芝、将門の四者会談がおこなわれた。
興世王はすぐに折れた。
経基は渋々折れた。不満顔だったかもしれない。

 

平将門木像 毎日新聞ウェブサイトより

興世王、武芝、将門は国府に帰り、酒など酌みかわして意気投合したが、経基が会談場所近くの野営地に残っていると、武芝の私兵がそれを包囲してしまった。
巡視のときの仕打ちに対する憤懣がおさまらなかったのかもしれない。


経基は、三人ともグルだな、と思ったのか、はるか都を目指して逃げ出した。
経基の末裔に、八幡太郎義家や悪源太義平、木曽義仲、頼朝、義経らがいるが、この人自体は小心者なぼんぼんだったのかもしれない。
三人が謀反を起こしたと、朝廷に報告したのである。

朝廷はさっそく坂東が有事に入ったと認定し、祈祷を開始。
宮廷守護兵の警備強化を命じた。
次いで朝廷(このときは首班・藤原忠平)がやったことは調査使の任命である。
源俊という公卿が行くことになった。

しかし、兵が集まらないとかなんとかいいながらなかなか出発しなかった。もっと兵をつけてくれなければ困る、というのだ。
忠平はしびれをきらし源俊を解任した。

結局、調査使は派遣された形跡はなく、坂東の問題は放置された。
桓武朝の常備軍廃止後の安全保障問題が不安定だったことがわかる。


結果からみると、興世王が来てから将門はおかしくなってきた。
おかしい、というのはリスクマネジメントという観点でである。
確かに将門は、直情径行で世渡りベタだが、めっぽう戦さに強い乱暴者だった。
坂東で兄弟・叔父甥たちが所領をめぐって武力抗争になるのは、ある意味で自然な運動律のようなもので、そのことで朝廷への反逆にはならない。
むしろ、勝てば東国一の勇者の評価を得る。

大河ドラマ『風と雲と虹と』の興世王(演・米倉斉加年)と平将門(演・加藤剛) Pinterestウェブサイトより

源経基逃亡の一件以来、興世王は武蔵権守だったにもかかわらず、新任の武蔵守とソリが合わず、国府でなく将門のもとに身を寄せていた。

鹿島玄明という素行劣悪な土豪がいて、常陸国で納税拒否、強盗、官物強奪をおこなった。ただちに常陸介(長官)である藤原維幾は、朝廷に訴えて追捕状の発出を要請してこれを得た。
となると、玄明が縛につかなければ、反逆になる。

が、玄明は逃走し、将門を頼って駆け込んできた。しかも、行きがけの駄賃とばかりに国の緊急備蓄庫から米穀を略奪してきたのだ。
これはまずい。反逆行為だ。

将門の美徳が悪いほうに出る。

将門もとより侘人(不幸な者)をすくいて気をのべ、無便者(不憫な者)をかえりみて力を託く

と記録にあるから、義理人情にあつい親分肌なのだろう。
将門はこれをかくまった。
このとき興世王は何を考えていたのだろうか。興世王に悪意をもっていえば、

面白いことになってきた

と思ったのではないか。
将門は興世王、玄明と一味して、常陸へ出兵したのだ。
こうなると一族間の抗争とはわけがちがう。

将門が朝廷の上層部と強いコネがあるか、稀代のネゴシエーターであれば何とかなったかもしれない。
しかし、将門にそれはなかった。

常陸の維幾軍は数千の兵をもって迎撃したが、将門はこれを一蹴して国府を包囲。
ついに維幾は降伏してとらわれの身となり、将門に印鑰を渡している。
印鑰とは、国府の長官の印と役所、城門、蔵などの鍵のことだ。
将門らはついに一線を越えた。

興世王は、いつからシナリオを考えていたのだろう。
多くは私の想像だが、興世王は将門を使って藤原氏が独占している中央政府に対抗する勢力を坂東に打ち立てようとしていたと思うのだ。

彼は王氏としては、中央ではまったく出世の道がなかった。かといって、将門のように濃厚に土豪の血の入った王氏ではない。家子郎党もいない。
だからこそ、大きな軍事力と領地をもつ将門に寄生してシナリオの企画者となり、非藤原的な王氏による大勢力の伸張を狙っていた。

興世王自身の肉声はほぼ次の一言しかわかっていない。

関八州は沃饒にして四塞、拠りて以て天下に覇たるべし。それ一州を取るも誅せられ、八州を取るも誅せらる。誅は一のみ、顧うに公いづくにか決する所ぞ。
(江戸期の歴史家・頼山陽の意訳)

これは興世王が将門に進言した言葉だ。

一国を討てば、その罪軽からず。しょせん逃れがたいのであれば、坂東すべてをわがものにしてしまったらどうです。

進言というより、使嗾というべきか。 
この事実があるからこそ、興世王がこの悪謀のシナリオライターであり演出者であることが推認できるというものだ。

「平将門の乱」の勢力範囲 歴史総合ドットコムより

将門は上野国(群馬県)の国府も占拠して、ここで関八州の国司を任命した。
将門はこれを朝廷と同様に、除目と称した。
むろん彼にその権限はない。
だから、「新皇」として坂東に独立しているつもりであった。

新皇とは、皇の文字がある。
王ではない。
皇を名乗る者は日本には唯一人しかいない。

天皇である。

新皇はむろん私称である。

新皇を称するには、将門の弟らの反対があったが、興世王はこれを強く推し進めた。
この知恵も彼がつけたのだろう。


二人の間にどこまで綿密な戦略の認識共有があったかはわからないが、

目的は、将門を中心に東国での勢力拡大とそれを阻む勢力へのレジスタンス活動。

最終目標は、(むろん幻想だが)日本の東半分の永久的な独立。

ということのようだ。

将門は藤原忠平あてに次のような手紙を書いていることでもこの分国統治論に本気であったことがわかる。

伏して家系を思いめぐらせてみまするに、この将門はまぎれもなく桓武天皇の五代の孫に当たり、この為たとえ永久に日本の半分を領有したとしても、あながちその天運が自分に無いとは言えますまい。

さて、除目のとき重大事が起きた。
突然、一人の巫女が現れて神がかりをした。
巫女は菅原道真の霊魂が乗り移った者だという。そして、こう叫んだ。

わしは八幡大菩薩。天皇の位を平将門に授けるぞ。

これは反乱ではないかと疑懼していたその場の者たちには、大必然の宣言だったのではないか。

八幡神坐像(東京国立博物館蔵) Wikipediaより

私はこのパフォーマンスを興世王のアイディアではないかと思っている。
彼はその前半生は、都で藤原氏の専横を苦々しく憎悪の目で見ていたことだろう。
その一方で、作家・海音寺潮五郎氏の次の文も大いに説得力がある。

巫女の神がかりは一時的な発狂状態になって無意識にいろいろなことを口走る病的状態なのだが、その時のことばは無意識に発するとしても、その根底は平生の見聞や意識下の思考にあるはずだ。

この時の総社の巫女も、


将門の血統の尊貴さにたいする敬意、
現在の威勢のすさまじさにたいする驚嘆、
菅原道真の冤死やたたりと称せられることに対する同感、


それが藤原氏対天皇家の権力闘争に起因しているという認識等は、かねてから胸中に持っていたであろうから(略)前掲のようなことを口走ったのは最も自然なことであろう。

かりに興世王のヤラセでなく、巫女のまっすぐな心情が根底にあっただけのこととしても、それはそのまま民衆全体の心情をあらわすものであっただろう。
そして、こう続く。

当時の人は神託というものを信じ切っているのだから、将門にたいして八幡大菩薩の寵児として心からなる拝跪の念を覚えたに相違ない。

将門も興世王も桓武天皇から五世の子孫、いわゆる王氏である。

巫女が口走った託宣に出て来る菅原道真は皇権の回復のために宇多・醍醐の両帝に信任され、そのために藤原氏一門の憎みを受けて都をおわれて悲惨な死を遂げ、藤原氏にうらみをふくんでたたりにたたって、人々に恐怖戦慄されている人だ。

また八幡神は、藤原氏が春日明神を氏神としてそれにたいする信仰を中心にして結束しているのに対抗して、皇族から出て臣籍に下った諸氏が氏神として信仰したものだ。

菅原道真の霊魂をもつ巫女が、
八幡大菩薩のことばを告げる、
新皇になれと。

王氏の興世王が仕組んだのなら、これほど完璧なお告げはない。


結局、この壮挙は鎮められ地方の反乱に終わった。

しかし、将門と興世王の消長は、藤原摂関家を中心とした貴族社会に静かな一撃となったことは間違いない。

 

平将門の反乱は東国に住む民衆たちに、ひとつの可能性を与えた。

それはあたかも閉ざされていたパンドラの箱が開かれたさまに似ている。

そのパンドラの箱を開けたのは興世王である、と私は思う。

東国の王氏の末裔たちはやがて土にまみれ、現世の不条理に対するストレスを蓄積させながら、団結力と戦闘力を高めていく。

 

周知のとおり、藤原氏にとっての望月のごとき世はこのあとに来る。

王氏の一撃は、歴史という大地の地表が何も変わりなく見えていても、地下の岩盤を細かく砕き割ってしまったことにみな気づいていない。

少なくともさらに栄華を極めることになる藤原氏一門には…。