続・どうする!大河ドラマの分断〜「それ」を知る者の幸福〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

わたしは今夜のそれを見ていない。

だから、多くを語る資格もないが、かつての「それ」を知るしあわせを少しは語ることができる。


人は云う。

 

『徳川家康』で家康を演じた滝田栄は、役を受けるに当たり、大きな悩みを抱いたという。


それは「なぜここまで執拗に豊臣家を追い込み、滅ぼさなければならなかったのか」ということだ。


これを解き明かすべく、滝田は家康の心境を知ろうと、家康の幼少の頃に人質生活を送っていた駿府の臨済寺で僧侶たちと共に二週間の修行生活を送った。

過酷な生活の中で、彼は家康の心の声と対峙する。


こんな辛い人質生活を送る子供が現れる時代はもう終わりにしなければならない。

そのためには、自分が鬼となってでも豊臣家を滅ぼすしかない…。


滝田の演じる晩年の家康の演技には鬼気迫るものがあったが、そこには痛切な思いが秘められていた。



また、人は云う。

 

たえず命がけの決断を迫られながら、悪徳に身を堕とす者、滅びゆく者、栄華と引き換えに孤独を迎える者…時代の流れという、予め規定された運命のくびきから誰も逃れることはできない。

かつての大河ドラマの魅力は、そうした歴史の残酷さに翻弄される人間たちの無力さ、儚さにあった。

 

歴史には「真の勝者」などどこにもいない。

いかなる英雄も、過ぎ行く時の流れに浮かんで沈む一粒の泡沫でしかない。
そうした寂寥感もまた、大河ドラマの魅力だった。

※春日太一『なぜ時代劇は滅びるのか』より

 

その意味では、いい時代に生まれたとつくづく思う。