もう一人の駿河御前〜家康に嫁いだ〝どうすることもできなかった女〟〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

大河ドラマ『どうする家康』が始まった。
徳川家康という男の長い長い物語の始まりである。

家康ほどの男だ。
生涯、彼と関わった人物は名前の通る者でも100や200ではきかないのではないか。

家康の生涯で正室と呼べる女性は、瀬名。
築山殿である。
ご存知のように、この女性は天寿を全うせず悲惨な末路をたどる。

家康は多妻であったが、正室はこの築山殿ただひとりであった。

おそらく築山殿の非業の死で、家康は生涯もう正室は持つまいと思っていたのだろう。
正室には、しょせん政略がつきものだ。
築山殿の一件で家康は、正室と不幸は一緒にやって来る、そういう思いだったに違いない。

と言いたいところだが、そうでもない。

家康は45歳のとき、2人目の正室を得た。
その女性も築山殿の別名と同じく駿河御前と呼ばれた。
名を、旭と書き、あさひという。
このとき、旭は44歳だっという。
当時の女性の平均寿命は60歳くらいだったというから、現在に当てはめると64歳の花嫁ということになる。

 

駿河御前とよばれた秀吉の妹・旭 戦国ガイドウェブサイトより

司馬遼太郎の短編に『駿河御前』がある。
以下、しばしば引用したい。

旭は、幸い藤吉郎の奇相とは似ておらず、この同胞のなかで目鼻はいちばんととのっており、色も野仕事で焼けてはいるが根は白いらしい。

旭とは、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の異父妹である。

藤吉郎が織田家に仕え墨股に一夜城を築いたころ、旭にはすでに亭主がいた。
名は嘉助。
藤吉郎の生家は百姓だ。
自然、旭の亭主も百姓だった。
だから、旭は百姓の妻である。

藤吉郎は、すでに弟の小一郎をそのまだ小さな家臣団の中核にしていたが、嘉助も使えるものなら使ってやりたいと思い観察してみたが、侍に必要などんな才能も持っていなかった。

藤吉郎が名を秀吉とあらため、近江長浜20万石の大名になったとき、さすがに妹夫妻が百姓とあっては世間体もどうかと思い、なかばむりやり嘉助を侍にしてしまった。
さらに佐治日向守などというたいそうな名までつけられた。

小説『駿河御前』には、佐治日向守は長浜の屋敷暮らしに適応できず、日照りの青菜のように萎えたまま死んでしまった、とある。

旭は、寡婦になった。

羽柴家の家中や長浜城下では、寡婦になった彼女を、
「旭姫」
と、よんだ。姫といっても、なが年の日焼けじわは化粧では覆えず、齢も三十を幾つか越えており、その尊称に相応うはなやかさなどはもはやない。しかも夫の死がよほどの打撃であったのか、表情がつねに暗く、齡よりも老けてみえた。


旭は、秀吉の差配で織田家直参の副田甚兵衛に再嫁することになった。
以下、『駿河御前』に沿って話を進める。

嫁いできて甚兵衛が気づいたことだが、旭は武家育ちでないため、年中行事の知識もなく、家来や下僕たちの宰領もできなかった。
旭は、終日居間にすわってぼう然としているしかない。
甚兵衛は武士にしては生来やさしい男で、旭の気持ちに寄り添うことができた。

わしがそなたを育ててやろう。

三十路まで百姓だった旭を、別の女に仕立てることに甚兵衛は情熱をそそいだ。

 

豊臣秀吉 (狩野光信筆 高台寺蔵)写真 Wikipediaより

秀吉と徳川・織田信雄連合との小牧長久手の戦いは、秀吉が信雄と単独講和することによっておわった。
しかし、家康はひたすら沈黙。

秀吉は天下統一のため、家康に対し勝者として講和がしたかった。
外交でなんとか家康を家来にしたい。

秀吉はそのための荒唐無稽の策を弟の秀長にきりだした。

旭を離婚させ、それを家康に縁づかせ、秀吉と家康が義兄弟になることによって、彼を秀吉政権の幕下にくり入れてしまおうという。

副田甚兵衛はどうするか、との秀長の反問に、秀吉は、5万石をあてがって大名にしてやるつもりだ、という。

秀長は兄に代わって母を説き、姉を説き、妹の旭を説いた。

旭には、もはや甚兵衛は承知しておるわ、と重大すぎる嘘をついた。

この一言が朝日の手足を冷たくした。
その場に倒れ、一時は、息が絶えたようになった。
医師がそれを回復させたが、あたらしい結婚のことよりも、甚兵衛にすてられたという事実のほうがよほどの衝撃だったのであろう。
そのあとものもいわなくなり、秀長が最後に、浜松へゆくことをーー承知か承知か、と問いかさねたとき、うつろにうなずいたのみであった。


一方、甚兵衛には、秀吉の代理人からその一件について伝えられた。

上意である

というのだ。
5万石の大名にする、受けよ、という。
甚兵衛は、思わずわめく。

ことわる。

妻を売って、その価で五万石の大名になるというばかが、どこにあろう。
代はいらぬ。

どうぞ無償(ただ)でもっていってくだされ。

甚兵衛がそう申しておった、とシカと上様にお伝えあれ。

ゆめお忘れあるな。

甚兵衛は、翌朝に寺で頭を剃り、そのまま隠棲してしまった。

家康はこの縁談、受けるか。
花嫁となるべき相手は、容色は醜いうえにとうに衰え、官位なく素性はわるく、離婚したばかりときている。

意外にも、家康は一諾した。
猛反対する家臣団を尻目に。

 


徳川家康 nippon.comホームページより

甚兵衛と別れた1586(天正14)年5月に、旭は浜松城に入り家康に嫁いだ。

秀吉の意に反して、家康は婚儀が済んでも上洛しなかった。
秀吉はさらに下手に出て、母・大政所が岡崎の旭を訪ねるという形で事実上の人質となり、家康は上洛して秀吉との和議が成立した。

その後、旭は、母・大政所の病気の見舞いを理由に上洛。
それからはどうやら京の聚楽第に住んでおり、1590(天正18)年に病気になって死去した。年、四十八。

『駿河御前』の最後はこう結ばれている。

旭姫の奇妙さは、一首の和歌さえその没後の世に遺さなかったことであった。
和歌だけではない。
この時代、豊臣と徳川家の内外には多数の記録者があらわれて、さまざまな記録を後世に残したが、彼女のことばというものがどの記録にも伝わっていない。よほど無口だったのか、それとも人と接するのを好まなかったのか。
いずれにせよ、歴史のなかで永遠の沈黙をまもっている。



瑞龍寺 (静岡市)にある旭の墓 Wikipediaより

さて。
大河ドラマでも、秀吉の妹・旭は多数の作品に登場している。

もっとも有名な作品といえばなんといっても『おんな太閤記』(1981年)であろう。
演じたのは、泉ピン子。
ピン芸人から芸歴をスタートさせた彼女にとって、初の連続ドラマにして初大河だった。

泉は役が決まったときのことを振り返って、こんなことを言っている。

念願のお姫さま役だと思ったのですが、どうも様子が違いました。
父が太閤記の資料をそろえてくれていたのですが、朝日姫というのはとても醜くて、嫁ぎ先の家康からも疎まれて、手をつけられなかったという…。


制作発表のポスター撮影のとき、(主演で秀吉の正室であるねね役の)佐久間良子さんが、金糸銀糸の刺繡が入ったちりめんの豪華な衣装を着ていたので、「私もあんな衣装だろうか」と期待しました。

「次、ピンちゃーん」と呼ばれて、ポンと渡されたのは、忘れもしない、粗末なピンクの木綿でした。
「これ、丈を短くして、膝を出して。手甲脚半するから、わらじだから」と言われて、「ええ…。一応、お姫さま役なのに…」と思っているうちに、蓑笠までかぶせられてね。


隣で同じ格好をした(秀吉の母役である)赤木春恵さんが「ピンキーちゃん(ピン子さんのあだ名)、用意できた?」と聞くのです。2人並ぶと、なんだか信楽焼の親子みたいでした。

私ね、「こんな格好で大河ドラマのポスターに出るのは嫌だ」とごねたんです。だって、1年間は東京・NHK放送センターの玄関に、そのポスターが飾られます。私は「夢にまで見た大河ドラマで、こんな木綿で、膝丈で、勘弁してくれ」と泣きそうになりました。


と、大抜擢にしてはグチることしきりだが、内心は燃えに燃えていたのだろう。

大河ドラマ『おんな太閤記』であさひを演じる泉ピン子 NHKアーカイブスより


やはり橋田先生のお話は本当に面白いです。

あの戦国時代を、合戦よりも家庭を中心にして、女から見た戦の悲劇を、いつも泣かされるのは女であるという、新しい視点から描かれていました。
泉ピン子という、芸人ならともかく、女優としてどうだろうと思っていた芸名も、売れてきたなら、それなりの良い名前に見えるようになってきました。


『おんな太閤記』のあさひの前名は「きい」。
夫は百姓の嘉助。
ドラマでは、嘉助が侍に取り立てられて副田甚兵衛になるという設定だった。

最初の夫・副田甚兵衛とむりやり別れ、政略結婚で徳川家康の正室になるのですが、ずっと甚兵衛のことを想っているという設定でした。

甚兵衛役は、せんだみつお。
タレントでありコメディアンであり人気MCである〝せんみつ〟との夫婦役はこのドラマの大きなトピックだった。


あさひと副田甚兵衛(演:せんだみつお) NHKアーカイブスより


ラストシーンは泉にとって、きわめて印象深かったようだ。

そんなあさひの最期は、甚兵衛に会いたくて雪の中をさまよい、凍えて死んでしまうという悲劇的なもの。
このシーンでは、雪が降るなかで肩にかけていた打掛をストンと落とす芝居をしたいと思ったんです。

そのとき森光子さんが舞台「雪まろげ」でかい巻きを肩から落としていた姿を思い出し、芸術座の森さんの楽屋にうかがいました。
どうやったらきれいに落とせるか伝授していただいたおかげで、思い通りのお芝居ができたのをよく覚えています。


この雪の中のあさひのシーンは、スタジオ一面に塩を撒き、何トンも雪を降らせて撮影をしました。ですから一見シンプルなセットですが、実は歴代大河のシーンのなかで最もお金のかかった伝説のシーンになっていると聞いたことがあります。驚きますよね。  
また、あさひが息を引き取った後、秀吉が「あさひ〜」と声を上げて泣くのですが、それがあんまり悲しくて、あさひは死んでいるのに涙が出ちゃって(笑)、NGになったのも忘れられません。

『おんな太閤記』のあさひ役は彼女の人生の大きな転機となった。

思えばこの作品への出演がきっかけで「やっぱり女優として頑張ろう」という意識が芽生えたような気がします。

泉にとって、あさひは運命のひとだったわけだ。

 

あさひの最期を看取る秀吉(演:西田敏行) NHKアーカイブスより

歴史の世界に目を向けると、旭のほかにも秀吉の縁者には、奇しき運命に翻弄されたひとがいる。

百姓嘉助を生きるはずだった佐治日向守。
旭を武士の妻としてやさしく導こうとした副田甚兵衛。
2人とも秀吉によって妻と離別させられた。

秀吉の姉と百姓弥助の子治兵衛として生きるはずだった豊臣秀次。
彼は、秀吉によって一度は後継者として関白にまで登極させられたあげく、切腹させられ一族もろとも葬られた。

その父弥助として生きるはずだった三好吉房。大名となるも子に連座して配流となった。

ねねの縁者として小身の侍・辰之助として生きるはずだった小早川秀秋。彼は秀吉によって名家を継ぎ大封を与えられ、関ヶ原で裏切りを演じ、酒に溺れ衰弱死した。

藩屏の少ない秀吉の無理の代償が、彼らの不幸につながっている。

そういう家から、旭は来たのである。

今年の大河『どうする家康』の後半の大きな山場のひとつは、おそらく小牧長久手の戦いから秀吉への臣従あたりではないか。

その間、旭は亭主と離別させられ、浜松の家康のもとに送られる。
本作は家康中心のドラマだから、旭の出番はおそらく1話程度だろう。

ある評論家は大河ドラマの魅力をこのように言う。

たえず命がけの決断を迫られながら、悪徳に身を堕とす者、滅びゆく者、栄華と引き換えに孤独を迎える者…時代の流れという、予め規定された運命のくびきから誰も逃れることはできない。

かつての大河ドラマの魅力は、そうした歴史の残酷さに翻弄される人間たちの無力さ、儚さにあった。

だからこそ、家康以外、たとえば家康の正室となり後世に駿河御前と呼ばれなければならなかった旭の〝どうすることもできなかった人生〟に光をあてていただければと思う。

今年の大河では、家康のもう一人の正室であった彼女を誰が演じるのだろう。
どうすることもできなかった彼女のためにも、劇中に爪跡を残してくれたら幸いである。





【参考・引用】
『駿河御前』(司馬遼太郎、角川文庫『豊臣家の人々』所収)
話の肖像画 女優・泉ピン子12 (2022.8.13 産経新聞Webサイト)
NHK人物録・泉ピン子(NHKアーカイブス)