ことしは司馬遼太郎氏の生誕100年にあたる。
そして1996(平成8)年に腹部大動脈瘤破裂で急逝されて、もうすぐ27年が経つ。
20代以下の若者では知らない人も多いかもしれない。
その司馬氏が五十路に入るころ、ある人についてこんなことを言っている。
浮世を年を経て、ちかごろになってしばしば驚かされるようになり、ついにはこういう人間が自分と同じ民族の中に存在したのかという疑わしくなる思いで、その人を眺めるようになっている。
司馬遼太郎 NHKアーカイブス・NHK人物録より
その人の名は、勝海舟(1823〜1899)。
さらには、海舟のことを、
日本がもった唯一の文明的経世家
と激しく称賛している。
経世家とは、政治経済の論をもつ有能な者という意味だが、さらに現実の政治・社会・経済問題に対する処方箋を持つ者として、海舟を大きく評価しているのだろう。
司馬氏の称賛は、とくに海舟の脳中にある論を、人々に披瀝する文才に対してのことと思われる。
氏は、海舟の偉大さを『海舟語録』によって知ったという。
『海舟語録』を読んで、海舟という人間の姿を
大げさにいえば頸の骨をへし折られたような衝動
をもって感じたという。
すわ、頸の骨を折るとはかなりのおおごとだ。
史料の密林のなかを渉猟した氏が、そこまで激賞する海舟の言に、わたしは興味をそそられた。
勝海舟 近世名士写真・其2より
まず、氏が感動し驚嘆した一点は、海舟の人物評価の視座だ。
『海舟語録』の中でインタビュアーが海舟に尋ねる。
ー横井小楠は、胆力はあったほうですか。
横井小楠(1809〜1869)は、幕末の人。
熊本藩士で儒学者。松平春嶽に招かれて越前藩の政治顧問となった。
坂本龍馬が大政奉還を推し進めるために起草した新国家の基本政策である船中八策は、小楠が書いた「国是七条」を参考にしたものといわれている。
海舟に言わせると、一を聞いて十を知る途方もなく聡明な人だ。
たとえば、海舟が米国には大統領制があることを話すと、
ははあ、それは尭舜の政治ですな
と言ったという。
尭も舜も古代中国の帝王である。
二人とも徳をもって理想的な仁政を行ったことで、後世の帝王の模範とされた。
尭と舜は親でも兄弟でもなくアカの他人だ。
尭は、舜を試しに使って、三年の間その様子をみていた。
すると舜はよく人物を見分け、多くの才能ある人を推薦してうまく仕事をやらせた。尭は舜に大変満足して、その地位を彼に譲ったという。
アカの他人が武力にも策謀にもよらず権力を譲ったのだ。
小楠の直感で大統領制の本質をそう理解したのである。
また海舟は、「おれは、今までに天下で恐ろしい者を二人見た。それは、横井小楠と西郷隆盛である。」とも言っている。
海舟が恐れたただ二人の人物だ。
よほどの人物である。
横井小楠 Wikipediaより
そういうことを知ってインタビュアーは先の質問をした。
つまり、小楠はある暴力事件のとき、きわめて臆病な反応をした。
だから、小楠を高く評価する海舟に「胆力は?」と意地悪な質問をしたとみえる。
それに対する海舟の答えはこうだ。
あれだけ、智慧があって、胆力があってどうするエ。
司馬氏は、この答えように海舟の素晴らしさを感じたのだろう。
大きな好意とリスペクトかもしれない。
小楠ほどの智慧がある上にもし胆力があるとすれば人間どうなるんだえ、という、これは小楠評というよりも海舟の人間一般についての洞察と機微をほのめかしたもので、(略)海舟の座談の文学性とみたほうがはるかに落ちつく。
そう言っている。
そう言うことによって、小楠は臆病というインタビュアーが狙った成果は消し去られ、尋常でない小楠の偉さが際立ってゆく。
司馬氏自身も座談の名手といわれた。
ときおり、座談の中で、
○○はえらかったですナ
などというセリフを耳にしたことがあるが、氏もどこかで海舟の座談を意識していたのだろうか。
司馬氏が着目した『海舟語録』のもうひとつは、経済についてのこの問答だ。
ーご自分で得意とお思いになることは何ですか。
問われて海舟は、まず経済だ、と答えた。
幕府瓦解前後のころはずいぶんと骨を折ったよ、と自分のことは簡単なコメントで済ませてから、こう言う。
昔の人もみな、経済には苦労しましたな。
織田信長は、経済の着眼がよかったので、アレだけになった。
武田信玄でも、甲州の砂金をソッと掘り出したり、いらいろな方法を作ったよ。
南朝でさえ、北朝に細川頼之という経済家がいたから負けてしまったのさ。
松尾芭蕉もなかなかの経済家で、近江商人はみなそのやり方を引き継いでいるのだ。
と、こんな語り口で答えている。
宗教戦争や長篠の戦いなどひたすら武力偏重の魔王のイメージのある信長だが、海舟は経済家としてすぐれていたと見ているのは、するどい洞察力だ。
信長の楽市楽座や関所撤廃で、誰もがお金を稼ぎやすくなり、さらに物を買いやすくなった。
民は富み、信長自身が富んだ。
手にした資金で他を圧倒するほどの武器を買い、アレだけになったというわけだ。
楽市楽座(福岡市博物館蔵) 日本史事典ドットコムウェブサイトより
海舟のご贔屓は、北条氏だ。
感心なのが、北条氏だ。
元寇が三年も続いたけれど、軍事公債は募らなかったよ。
泰時でも、単騎で出かけてゆくと、三日にして十万騎を得たというじゃあないか。そのころの兵站は、うらやましいほどととのっていたのだ。
陪臣、政をとりながら、九代の治世をながらえ、民も富み、武士も庶民もことごとく服したじゃあないか。
北条ばなしは経済にもおよぶ。
北条氏が、仏法に帰依したといっても、ただ禅に凝ったのではないよ。
やはり経済のためだぁね。
宋が滅んで元が起こる時だからね。宋の名僧を呼んで五山を開いたよ。それで無学祖元なんてのも渡ってきたよ。
宋の連中が続々と渡ってくる。
参詣人も絶えない。
信仰にことよせて来る者もある。
だから銭はたいそう渡ってきたよ。
信仰といってもそのためさ。
北条氏が宋から禅僧をどんどん呼んだのは、宋銭を持って来させるためだというのだ。
このように海舟は、史上の人物を経済でくくって、日常の会話に出るようなごく普通のことばで語りかけている。
司馬氏は、海舟の座談の文学性のほかに、こうした文明的経世家であることに驚嘆している。
そのことを彼の言葉で書くとこうなる。
経済という実態やら行政やらは江戸日本にもむろん存在したが、言葉が成立したのは明治初年になってからである。
しかしそれが政治の骨幹であるし、さらにはそれをもって歴史や世の中の動きをとらえようとした最初の人は、ひょっとすると海舟であったかもしれない。(略)
それを史学に導入したのは在野学者の山路愛山(1865〜1917)が最初であったことを思うと、海舟の先見性というのは驚くほかない。
このことを司馬遼太郎は、『海舟についての驚き』という短い随筆に書いている。
わたしにとって司馬遼太郎を読む愉しさは、司馬氏の著作を通して、たとえば勝海舟という歴史の鉱脈を見つけて掘りすすみ、未知の鉱物にたどり着くことができることだ。
ついにはこういう人間が自分と同じ民族の中に存在したのかという疑わしくなる思いで、海舟を眺めるようになっている。
探検家が、司馬氏に手を取られてそこに連れられていけば、その鉱脈を掘りたくなってしまう。勝海舟という鉱脈にある何ごとかを知りたくなってしまう。
そのナビゲーターを頼って、私はいまも歴史にふれて生きている。
司馬遼太郎の大書架(司馬遼太郎記念館)日経電子版ホームページより
その司馬遼太郎は、1996(平成8)年2月10日、自宅で倒れ、同月12日、国立大阪病院で帰らぬ人となった。彼が『花神』で描いた大村益次郎が亡くなったのと同じ病院だそうだ。
死因は腹部大動脈瘤破裂。
いったん発症すると救命困難なことのある疾患で、最大のリスク因子は喫煙と言われている。
氏は愛煙家だったようだが、ぜひ禁煙していただいて、もっと長生きして平成から令和にいたる日本を見て、私たちをナビゲートしていただきたかったと思う。
けれど、そんなことを言うと、氏に一喝されそうな気がする。
生涯、刺客というリスクを意にも介さなかった坂本龍馬や大久保利通を見てみなさい。
ひとは死ぬときが天命です。
あとは、歴史をたずねて自分たちで考えなさい、と。
【参考】
江藤淳・松尾玲編『海舟語録』(講談社学術文庫)
司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと6』(新潮文庫)