家康に過ぎたる男・本多忠勝②〜深きご恩の君を思えば〜 | 天地温古堂商店

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日本の張飛

本多忠勝をそう呼んだのは織田信長らしい。
張飛とは、三国志に出てくる蜀の武将。劉備が旗揚げして以来、関羽とともに劉備を助けた。

長坂の戦いでは数千の曹操軍に対し、20騎でしんがりを務めた中国史屈指の豪傑だ。

花も実もある勇士、とも言ったという。

合理的でシビアな信長に称賛される忠勝は、いったい何をしたというのか。

織田信長は桶狭間の戦いのあと、家康と軍事同盟を結んだ。
今後、双方が他の国と交戦に及ぶときは軍事的に共闘するというものだ。


紙本著色織田信長像(狩野元秀画・長興寺蔵) Wikipediaより

桶狭間の10年後の1570(元亀元)年、浅井・朝倉連合と織田信長との間で戦いが起きる。

家康はこの織徳同盟によって戦いに参加することとなった。

浅井軍1万、朝倉軍1万に対して、織田軍2万5千。
徳川軍はわずか5千だが、酒井忠次、石川数正、大久保忠世、本多忠勝、榊原康政らの精鋭を率いている。

戦いの当事者は織田と浅井であった。
徳川は織田の援軍だ。
姉川の南岸に陣した信長は、このとき家康に予備隊を割り振ったという。
後方に控えて、味方に何かあった時に戦闘に用いる部隊のことだ。

家康は承知しなかった。

それがし、ぜひとも先陣を承りたい。

もし、聞かれずばこれより直ちに陣を払って帰国いたす。

といった。
信長はこれを聞いて大いに喜び、家康に先陣を与えたという。

信長の陣立て、家康の異論でこうなったようだが、実情は違ったものらしい。
この戦いの出陣に際して、本多忠勝は家康にこう進言している。

このたび信長公の頼みで援軍として姉川に参りますが、信長公は必ずしもわが軍を味方とは考えておられぬと存じます。
折あらば、殿を討ち死にさせるようくふうされることは疑いありませぬ。
何とぞこのたびの出陣はことのほか大事をお取りください。


これが本当なら、家康は進んで危地に入るよう先陣を望んでいる。
信長の本心がそこにあるなら絶好機ではないか。

なのに、なぜ。


織田は尾張・美濃・和泉・若狭・近江・大和南部などを領する大国。
一方の家康は、三河・駿河の一部のみ。

しかも、その東には武田信玄や北条氏政が健在だ。
小国が大国に伍していくには、信長の本心を知った上で先陣という危険を覚悟しなければならないのだろう。

援軍とはいえ、家康は捨て身なのだ。
そして、忠勝はそれを人一倍痛いほどわかっている。


『阿根川大合戦之図』の本多忠勝 古美術もりみやホームページより 

姉川をはさんで戦いがはじまった。

先陣の徳川軍は朝倉軍に打ちかかった。
一方、織田軍は浅井軍と激突。
しかし、織田軍はことのほか弱く、浅井方の猛将・磯野丹波守の勢いに押され、織田の陣立ては次々と破られ、十二段のうち十一段までが潰乱した。
もはや、残るは信長の旗本隊だけになり、いよいよ敗色が濃くなったときだ。

徳川軍にいた本多忠勝は、蜻蛉切の槍を振りかざし、なんと朝倉軍1万余の真ん中に一文字に突っ込んでいった。

忠勝は単騎。単騎対1万だ。

家康はそれを見た。
忠勝は死ぬであろう。
家康は激しく感動した。

狂ったように、

平八討たすな、平八討たすな

と絶叫した。
果然、忠勝を死なせるものかと、徳川軍の将兵は、我も我もと朝倉軍に殺到した。

家康は、この時しかないと榊原康政に命じて、朝倉軍の右側面を衝かせた。
朝倉軍の左翼は浅井軍の右翼とつながっていて強固だが、右翼は無防備だ。
康政は、ただちに姉川の下流に迂回すると、がら空きの側面を急襲した。
不意をつかれて朝倉軍は浮き足立つ。

ほころびは朝倉軍に出た。
朝倉軍は算をみだし敗走を始めたのだ。
ついに浅井・朝倉連合軍は総退却となった。

織田軍の多くの将兵が忠勝の武勇をその目で見た。
むろん、信長も見た。
信長が忠勝を称賛したのはこのときである。

前稿に書いた一言坂の戦い、三方ヶ原の戦いはその2年後のこと。

織田からも武田からも称賛された武将など本多忠勝くらいなのではないか。

小牧山 

小牧・長久手の戦いは、1584(天正12)年、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康との間で行われた戦いだ。

秀吉は、柴田勝家を敗死させて織田信長の覇権を相続した。
秀吉は、織田家による天下は終わり、天下創業はおのれによって成ると野心をたくましくしている。

内輪のことだ。


家康にしてみれば、秀吉は柴田勝家に勝った、それだけに過ぎなかった。

小牧・長久手の戦いの背景は、秀吉とそれに追随する勢力と、それ以外の勢力の対立にある。
それ以外とは、織田信長の二男・信雄、徳川家康、関東の北条氏政、北陸の佐々成政、四国の長宗我部元親、紀州の雑賀衆や根来衆などである。

天下は一極化に向かうのか、多極化に変わるのかのマグマ状態だ。


マグマの噴火は、秀吉と織田信雄の対立から始まった。
信雄は、家康に接近して同盟を結ぶ。
ついに戦端が開かれたが、結果は徳川・織田連合軍の戦術的勝利、羽柴軍の戦略的勝利といわれる。
武力戦闘では徳川・織田方が勝ったが、政治外交では羽柴方が勝ったと評価されている。
秀吉は信雄の人としての脆さを看破して戦略を打った。
すなわち信雄家臣団の離間に成功させ、信雄の諸城を狙い撃ちした。
信雄は秀吉に有利な条件で講和に応じて、家康に相談することなく単独で講和してしまったからである。

しかし、徳川対羽柴の武力での戦いでは徳川が勝利している。
もっとも華々しかったのが、長久手の遭遇戦だ。

家康の本営は小牧山、秀吉の本営は楽田にあり、にらみあいが続いていた。
そのとき、池田恒興という故・信長と乳兄弟の武将が秀吉に建策をしてきた。

いま、我が方から一軍を割いて、長駆、家康の本拠地である岡崎を衝きたい。

という。
秀吉はこの策が愚策であると知っていたが、秀吉は頭の回転が人よりも速かった。

勝入(恒興)殿は先鋒をつとめよ。秀次を加えよう。

秀次とは甥の羽柴秀次だ。
この別働軍の大将は秀次となり、総勢は2万の大軍となった。

秀吉はこの別働軍を、餌にしょうとした。
いくさは膠着して千日手のようになっている。

が、これを知って家康は必ず動く。
動けば、それを討つ。我が方の勝ちじゃ。


家康は伊賀衆を使って秀次軍を偵知。
小牧山を密かに出て、これを1万5千で追った。

作戦開始から3日後、秀次軍は白山林というところで休息中、後方と側面からふいに徳川軍に襲われた。
この奇襲によって秀次軍は潰滅。
池田恒興は討死。秀次は自身の馬を失い、供回りの馬に乗っていのちからがら逃げおおせた。

秀吉はこの白山林の敗北を半日後に知った。
家康の神速が秀吉の策を狂わしたが、秀吉は諦めなかった。

家康はまだ小牧山には戻っていない。
全軍でこれを囲み殲滅する。


秀吉は総勢3万8千を率いて楽田を発った。

このとき、本多忠勝は酒井忠次、石川数正の家老とともに小牧山の留守を守っていた。
忠勝は、小牧山からこの様子を見た。

殿が危ない、お救いせねば。

小牧山の留守部隊はわずか1千。
忠勝は家老2人に頼んで半分の500を率いて秀吉軍を追った。

忠勝らは小川を隔てて秀吉軍との距離4、5百メートルにまで接近した。
忠勝は兵卒にいう。

いまここで我らが命を落とすなら、秀吉の軍勢もしばらくのあいだはここで足踏みするであろう。
その間に殿は進退の時間を稼ぐことができよう。
よって、我らはこの場でいさぎよく一戦をとげて屍となり、その名を千年のちに伝えよう。


忠勝ら500人は時間稼ぎの命の的であった。
忠勝は、秀吉に狙いをつけて鉄砲を打ちかけさせた。
秀吉は自軍の兵を制して、忠勝らを無視した。

 


本多忠勝小牧山軍功図 刀剣ワールドホームページより

ついに忠勝は川へ馬を乗り入れ、馬の口を洗わせた。
鹿の角の兜、蜻蛉切の槍もはっきりと秀吉の視界に入っている。

その姿を見た秀吉は供の者に、

あの鹿の角の兜をつけた大将は誰じゃ

と聞くと、本多平八郎忠勝だという。
それを聞いて秀吉は、ある記憶がよみがえった。

ああ、あの姉川の一戦で万を超える敵中に単騎駆けをした本多平八郎か。

500に足らぬ士卒をもってわが大軍の進行を少しでもはばもうとするこころざし、その勇気、その忠義、まことに類がない。
たとえ彼一人を討ち取らずとも、秀吉に運が強ければ勝利を得られるだろう。
あのような者はいかしておくものだ。


と、いって涙を流したという。

そのような者がわが家中におるか

と思い、忠勝の健気なまでの忠勇に、はからずも涙がこぼれたのかもしれない。

家康は無事だった。
白山林の戦いのあと、その日の夕方に小幡城という自軍の城に入った。

家康は忠勝とはここで落ち合い、忠勝の偵察情報に従い、全軍が小牧山の陣地に戻った。

この長久手の遭遇戦は、軍事・局地的に徳川方が勝ち羽柴方は敗れた。

 

この一事が、家康がのちに諸大名を味方に糾合するとき、どれだけ効果があったか計り知れない。

無敗の武田信玄に盟友のために挑みかかったことも同様だ。

忠勝は、それらの戦いで家康を窮地から救ったのである。

 


豊臣秀吉像(狩野光信画 高台寺像) Wikipediaより

 

後年、秀吉は家康を通じて忠勝を召し出したときのことだ。
忠勝が秀吉の前に進み出ると、諸将が居並ぶなかで、秀吉は忠勝の長久手以来の軍功と家康への忠誠を褒めたたえ、さらに源義経の忠臣・佐藤忠信の兜を忠勝に与えた。
そして、その晩、秀吉はふたたび忠勝を呼び出し、人払いをしてみずから茶を立ててねぎらい、その上でこう言った。

そのほうの武勇は皆が知っているとはいえ、今日のように諸将なみいるなかで、これを天下に知らせ、忠信の兜を与え、天下無双の者と披露してやった。
これはひとえにこの秀吉の恩である。
されば家康の恩と秀吉の恩と、どちらが深いか。


忠勝は頭を下げたまま沈黙した。
内心、


笑わせるな

と思っただろう。
しかし、顔を上げてみると、忠勝は涙を流しながら答えた。

いま殿下の御恩は海よりも深うござりまするが、家康は譜代のあるじでござれば、とても同日には申し上げられませぬ。
 

秀吉の無茶ぶりをさらりとかわしている。


忠勝は、小牧・長久手の戦いから26年生きた。
関ヶ原の戦いでも戦った。
家康が征夷大将軍となるのもその目で見た。

しかし、家康より6年早く死を迎えた。

1610(慶長15)年、桑名で死去。

死に際して読んだ歌はそれだけで、本多平八郎忠勝が何者であったかをあらわしている。

死にともな
嗚呼死にともな
死にともな


辞世の歌で忠勝は、死にたくないとひたすらいっている。
その心は、最後の句でわかる。

深きご恩の君を思えば

忠勝にとっての生きるということが何であったのか。

すべては家康の恩にこたえるためだ、という。

ただ、見事というほかはない。

 

本多忠勝像


〈参考〉

歴史読本『徳川家康と十六神将』

綱淵謙錠『徳川家臣団』

松本清張『私説・日本合戦譚』

司馬遼太郎『覇王の家』