北条氏、因縁の家系の虚実②〜始祖伝説の饒舌と沈黙〜 | 天地温古堂商店

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平直方

北条時政が、息子義時に告げた先祖の名前である。

桓武平氏の嫡流・平直方の五代の孫がこの北条四郎時政じゃ。

と、時政本人は言うが、しかし、直方から時政に行き着くまでの系図が、はなはだ曖昧だ。

時政には通説でも3人の父がいる。

北条時方
北条時家
北条時兼

根拠となる史料は、上から「尊卑分脈」、「続群書類従」、「妙本寺本」というように系図によって異なるのだ。
また、「源平闘諍録」という史料では、直方とは別流の伊勢平氏・平維衡の子孫とされている。

実のところ時政より前の世代のことについてはよくわかっていない。

 


北条時政(日本随筆大成第2期第9巻)  Wikipediaより

代表的な3つの学説を見ても、北条氏の始祖が平直方であることを否定するものも少なくない。

一、
「上野介平直方の五代の孫、北条四郎時政主は当国(伊豆)豪傑なり」(吾妻鏡)
と記されていることや、比較的信頼のおける北条氏諸系図が北条氏を直方系としていることから、当時から始祖は平直方と信じられていたようだ。
(國學院大学教授・長又高夫氏)

ニ、
時政の父祖が東国と関わりがあったことを示すのは系図上だけの話。
北条氏が伊豆に土着するのも12世紀に入ってからの可能性もある。
強引に直方系に結びつけられた可能性がある。
時政の祖父時家が養子に入ったとする説が有力ではないか。
(歴史学者・野口実氏)

系譜の記録だけ見ると、時政の祖父である時家を「北条介の婿」と記しているものもある。

三、
伊勢・伊賀方面に縁故があることから、時政の出自は実は伊勢平氏であったのではないかと推測。
(歴史学者・野口実氏)

ある系図では、こうだ。

平直方ーー阿多見聖範ーー北条時方ーー時家ーー時政

※ここでは時家は時政の祖父でなく父

直方の子・阿多見聖範は伊豆山権現の僧だという。
その子時方は生没年不詳、伊豆国の在地豪族。従五位下、伊豆介。
時政の父(または祖父とも)は時家という人物とされるが、どんな人かはっきりしない。父は時兼という説もある。

鎌倉幕府の正式な記録書である「吾妻鏡」に、時政の父の名前すらないというのは驚きだ。

「吾妻鏡」は鎌倉時代末期の完成とされ、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。つまり、北条氏の手による記録書だ。
権力者の始祖にかかわる記述は細かく華々しく書くのがふつうだろうに、この〝沈黙〟はなんだろう。

時代が古いとはいえ、100年以上にわたる権力者の初代の親兄弟が、これほど曖昧な氏族は史上めずらしい。



北条氏は伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を発祥とする。

伊豆の豪族である伊東・宇佐美・狩野氏も田方郡を在地としており、天野・仁田は北条の地にほど近い。
このうち、伊東・宇佐美・狩野・天野はすべて工藤氏から派生している。
工藤氏が伊豆国最大の豪族だといえよう。

日本史学者で東北福祉大学名誉教授の岡田清一氏は、北条時政までの北条氏をこう見ている。

このように隣接して多くの武士が存在することは、当然のことながら、それぞれの支配領域が狭いということを示している。
伊豆国を代表できるほどの国主ではないだけでなく、名字の地でもある〈北条〉周辺には、多くの武士が存在しており、きわめて限られた地域を支配する領主でしかない。


具体的にいえば、上総介広常をはじめ千葉常胤、畠山重忠、三浦一族、比企一族などは、郡単位以上の比較的広域な領地を有しているのに比べ、北条は田方郡の一部を有するに過ぎない、中小領主だったのだ。

もうひとつ不思議なのは、時政の兄弟身内がほとんどいないことだ。
四郎という通称にもかかわらずに、だ。
少なくとも、のちに初代執権から得宗家となるというのに、時政の伯叔父、兄弟の栄えがまったくないのだ。

源義家、平清盛、足利尊氏、徳川家康にはみんな兄弟がいてその族葉も栄えている。
地方豪族に過ぎない東国武士団にしても、三浦義澄、大庭景親、伊東祐親、畠山重忠、土肥実平などなど、敵対して滅んだ氏族にしても親兄弟ははっきりしている。

しかし、時政にはそれがない。

北条氏の先祖は、平直方だけは明確だが、それ以外は多くが歴史の暗箱のなかにある。

ただ、さがせば弟らしき人物は、一人いる。従弟(いとこ)かもしれない。

北条時定という。

ただ、この人物あまり評判がよくない。

1186(文治2)年9月というから、平家が滅亡して半年後のことだ。
時定は、時政の代官として越前国大蔵荘の支配を任されていたが、これを横領してしまっていた。
地元の寺からこの事実が後白河法皇に告発され、後白河から頼朝に院宣が下された。

不心得であろう。至急、もとに戻せ。

とでも書かれてあったのだろうか。
時定はこのことを頼朝にとがめられている。

しかし、時定は性懲りもなく、伊賀や河内でも他人の領地を横領し、またまた朝廷が頼朝に訴え出ていて、頼朝から再警告を受けている。

時定は49歳で亡くなっているが、子孫についてはよくわからない。
時定の孫の某は、承久の乱で後鳥羽上皇側についたともいう。その後は知れない。
いずれにしても、時政唯一の弟一族にしては不自然なほど不遇だ。

ここで想起する。
大化改新を成し遂げた中臣鎌足を。

鎌足は死の前日に、天智天皇から藤原姓を与えられ、藤原鎌足となった。
鎌足には、久多、垂目の兄弟がいた。国足、許米という従兄弟もいた。

しかし、彼らはその後代々中臣を名乗り、藤原にはなれなかった。
政権のど真ん中にいつづけ、これほど長く人臣の位を極めたのは藤原鎌足の血統のみだった。
北条時政を初代とする得宗家が、これにきわめて酷似している気がしている。


大河ドラマ「草燃える」のワンシーン NHKアーカイブスホームページより
 

時政には、平直方の血はおのれのみが独占しているのだ、という絶対命題があったのではないか。

なぜか。

北条時政と平直方。
一点で非常によく似ている。

直方は、娘を源氏の嫡流・頼義に嫁していて、義家を産んでいる。
時政も、娘・政子を源氏の嫡流・頼朝に嫁していて、頼家や実朝を産んでいる。

源氏嫡流の岳父にして外祖父。
平直方の再来。

それが北条時政であった。
ゆえに、歴史の必然として、東国武士団が頼朝の旗の下に結集し、東国国家を打ち建てたとき、その王の最高の輔弼者こそ、北条であるのだろう。

繰り返すことになるが、
「吾妻鏡」は、

上総介平直方の五代の孫北条四郎時政主は当国の豪傑なり

と書く。
そしてそれは、北条氏の手による記録書だ。
つまりは、北条氏の始祖伝説は〝自称〟なのだ。

本稿の主題は、ここで尽きる。


源頼朝上陸地・猟島 鋸南町ホームページより

 

あとは、余談あるいは仮説をもとにしたフィクションになる。

時政のはなしを聞いて義時は、少し首をかしげながらしばらく黙っていたが、やがてこう言った。

私も死んだ兄上から聞いていたことがあるんですよ。

何をだ。

私らのご先祖のことです。
たしかに遠いご先祖は平貞盛という方らしいですよ。
そのお子がたくさんいて、直方公は維将という方の孫にあたるお血筋だそうです。
北条は違うみたいですよ。


時政は途端に苦い顔になった。

どこまで知っておるのだ。

貞盛公のお子のひとりに維衡という方がおられた。
そのお子が二人いて兄君と弟君。
兄君の子孫が都にいる我らの敵・平清盛。
弟君のお子が正家公。
従五位下、駿河守だと聞いています。
そのお子が父上のお祖父様、時家さまですね。


時政はいよいよ苦虫をつぶしたような顔をしている。

時家さまは四男坊で庶子だったので、官位もなし。
伊豆に北条介を名乗る豪族がいて、娘が一人いるだけだったので婿に乞われた、と。
三郎兄はそう申されていました。


ほとんどソッポを向いて、どうでもいいような顔をしている時政に、言った。

どうも我が家は直方公とは関係がないようですね。

義時は小声でそう言ったあと、急に明るい表情で、父時政の目を見て言った。

でも、父上。
我が北条は父上の言うとおり、間違いなく平直方公のお血筋ですよ。
父上は直方公五代の孫です。


小四郎、おまえ。

佐殿はまもなく大勢のお味方を得て、鎌倉殿になられるでしょう。
父上は直方公のように、鎌倉殿の岳父であり、いずれ生まれるそのお子の外祖父です。
そういうことで、いきましょう。


義時は饒舌にそう言って、時政に背を向け遠ざかっていった。
北条は時政と義時の黙契によって、源氏嫡流にとって特別な家になったのである。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」北条時政(坂東彌十郎)と北条義時(小栗旬・右)(C)NHK シネマカフェネットホームページより