鎌倉武士たちのファミリーヒストリー③〜平将門の公憤を受け継ぐ者〜 | 天地温古堂商店

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2月6日放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、見ごたえがあった。

というのも、放送開始早々にして、このドラマのテーマ、主人公・義時の人生においてなすべきことが語られたと思うからである。
それは、偶然にも、前稿の最後に述べた〝鎌倉武士たちの精神の源流〟と同じものだった。

源流をたどるために、時代を少しさかのぼる。

平安時代は、桓武天皇の平安京遷都にはじまる。
朝廷には常備軍があり、諸国には軍団が置かれていた。
桓武の治世も晩年になると予算が枯渇し庶民は疲弊した。

参議・藤原緒嗣は桓武に向かって

方今天下の苦しむ所は、軍事と造作なり。此の両事を停むれば百姓安んぜん。

と諫言したのは有名な話。

これを受けて、桓武は常備軍を廃止した。
しかし、軍団は警察力でもある。
泥棒や凶悪犯などは、検非違使と呼ばれる警察官でも対処できるが、大規模な強盗団などは手に負えない。
住民めいめいが自衛しなければならないことになる。
たいそうなことだ。

そこで関東に土着した桓武平氏など地方豪族は、一族の分家の者を家の子とし、私領化した土地の民の壮健な者を選んで郎党とし、刀槍を持たせ、武技を習わせた。

最初の武士は武装した農場主

司馬遼太郎の「街道をゆく」は、氏のライフワークであり大紀行文である。
なかでも私がもっとも好きなのが、第42巻の「三浦半島記」だ。

その冒頭で、上のような歴史的状況を概括してくれている。

八世紀のほぼ大半を占める奈良朝も、その後四百年ほどつづく平安朝も、律令の世であることには変わりはない。律令制は、公地公民が大原則だった。
農地は農民のものでなく国家のものであり、農民自身、国家の所有だった。
画一的に租税を納める機械にすぎず、重税に耐えかねて逃散する者が多かった。
やがて、土地公有制の例外として荘園という私領が公認された。
ただし、この私は公家や有力社寺の私領のことである。
農民は、国の農民と荘園の農民にわかれた。さらに、もう一種類の農民は墾田の農民だった。
律令制国家は農地を増やすために諸国諸郡に開墾をすすめた。
人々の欲望を刺激するために、墾田は、開拓者の永代私有とされた。
といって、農民が墾田のぬしになったわけではない。
当時、鉄が高価だった。
鉄製の農具や水利道具を多量に買える者が、逃散した農民を集め山野をひらいた。
(司馬遼太郎「三浦半島記」より)

 


平安時代の武士 Japaaanホームページより

 

 

たとえば、平将門(?〜940)はそうして山野をひらいた者の一人だ。
将門の領地では、製鉄炉と工房の跡が見つかっている。
将門は鉄を精錬し、農具を作っただけでなく、武器も生産して、土地を守るために武力を強化していた。
また、将門は野生の馬を放ち、敵兵に見立てて軍事訓練をしたといわれている。
武士の起こりというものだ。

このころの武士とは、自衛の軍備を持つ農場主であり、家の子・郎党とはその家来であり、兵力であった。
むろん、平良文やその子ら、平貞盛や藤原秀郷たちも同様であった。

しかし、将門ら武士にとって、いまの世は決して居心地のよいものではなかったのである。

平安時代に入ってしばらくすると、京の公家や有力寺社などが、これらの武装農場主の土地を横領しはじめたのだ。
これらの権力者どもは、地方政府にわたりをつけて広大な土地を開墾する権利を手に入れた。

律令制とは、その点おかしなもので、せっかく切り拓いた土地の所有権が、その開拓者である武士(実は武装農場主)やその子孫のものにならなかったのだ。

おかしいではないか。

と、政府に訴えようにも、地方の首長や役人たちは、その権力者たち(藤原摂関家などの大貴族、大寺社)の味方だ。
受けつけてもらえない。

仕方がない。

開発人たちは、その農場を京の公家や有力社寺に献上し、ひきさがってその管理人となることで、安堵された。(略)
法的な持ち主である京の公家から、いつ、
「お前の面が気に入らない」
と、いわれるかもしれない。
そうなれば、管理人であることから追い出される。公家は、その人物の伯父や従弟などに、跡目を継がせてしまう。鶴の一声だった。このため管理人たちはつねに京に対しておびえていた。

(司馬遼太郎「三浦半島記」より)


今でいえば、土地を手に入れ整地しマンションを建てても、〈武士〉はそのマンション管理人にしかなれず、京にいる貴族が大家であり、大家から

お前はクビ

と言われれば、管理人は失業してしまうのだ。

頼りになる男・将門、政府に叛く

平将門は、留守中に伯父らに土地を横領され、大反発して関東の騒擾が起きた。
将門は取り憑かれたように戦いにのめりこんだ。
将門は段違いに強く、阿修羅のように坂東平野を席巻した。
彼は戦場の駆け引きにおいては天才的なものを持っていたらしい。

伯父・国香とその義父・源護は敗死。伯父・良兼も敗走し数年後病死した。国香の子・貞盛も敗走し、命からがら都へ逃げていった。

将門は東国一のつわもの

と評判が立ち、関東一円から彼を頼りにする人々が集まるようになった。人々とは、地方政府の者ではない。彼らの理不尽に耐えかねている中小の武装農場主たちだ。

前稿で書いたように、将門は反乱を起こす。
常陸の武士、藤原玄明という者が常陸国を相手に納税をおこたり、官物を強奪。
常陸介藤原惟幾は朝廷から追捕状を得る。
玄明は将門を頼り、ついに将門は常陸国府を占領した。

彼には、多治経明、文屋好立、藤原玄茂など多くの武装農場主らが味方した。
また、下野豪族の藤原秀郷も一時は味方しようとしたと、源平盛衰記は書いている。
関東独立国もほんの一時だが成立したのである。

諸国の長官、魚の如く驚き、鳥の如く飛び、早く京洛へ上る
(「将門記」より)


という状況で、将門は常陸・下野・上野・下総・武蔵・相模などを手中におさめた。

平貞盛と藤原秀郷の連合軍の攻撃を将門は見事に撃退するも、飛んできた矢が将門の額に命中し討死してしまった。
940(天慶3)年2月14日のことであった。


平将門木像 毎日新聞ホームページより


作家の永井路子氏は、将門の乱についてこう言っている。

将門が起こした争乱は、革命と呼ぶには、あまりにお粗末で、政治的見通しもほとんど持ちあわせていない。
彼の目ざしたのは、せいぜい坂東諸国の軍事的制圧だけであって、西国の中央政府を打倒しようという計画性はなかったようである。(略)
かといってこの事件を単なる私闘だ、と片づけてしまうことにも無理があるように思われる。
(略)
国衙権力と将門や藤原玄明のような在地土豪層との対立は、やはり歴史的にも大きな意味を持つと思うし、それが東国に起こったことは、私闘の範囲を超えた問題として考えなければならないだろう。
(永井路子「悪霊列伝」より)




忠常の乱、武士たちに〝不安と理不尽と絶望感〟


関東はふたたび叛いた。
将門の死から約70年後、というから将門の記憶がまだ残っているころだろう。

平忠常

将門の娘を母に持ち、平良文を祖父に持つ男である。
つまり、将門の孫にあたる。

忠常は祖父と父の地盤を引き継ぎ、常陸国、上総国、下総の三カ国におよぶ広大な所領を有し、上総介を歴任。
京に上り関白・藤原教通に家人としてに仕えていたこともあるという。
忠常は強大な武力を背景に、傍若無人に振る舞い、国司の命に従わず租税も納めなかったとされる。

忠常には、ごく近くに蛇蝎のごとく嫌っている男がいる。
同じ平氏で維幹という、常陸大掾の男だ。
将門を死に追いやった貞盛の子・繁盛のことを、父が仇敵と呼んで憎んでいたことを忠常は知っている。

維幹は、仇敵・繁盛の子である。

以前から忠常は維幹と利権をめぐって抗争していた。
忠常は維幹のことを、

先祖ノ敵也

と言っている。
(「今昔物語集」より)

忠常にとっては将門の敵は自分の敵と思っていたようだ。
先祖の敵・維幹一族に安房守維忠という者が安房国府にいる。

1028(長元元)年6月、忠常は安房国府を襲い、安房守・平維忠を焼き殺す事件を起こした。
将門同様、地方政府と武士の対立が高じたものと思われる。

朝廷は忠常追討を命じ、追討使平直方が派遣された。官軍を相手に忠常は頑強に抵抗した。

忠常は上総国府を占領。
もうこうなれば反乱である。
しかし、これを見た上総国の武士たちは忠常に加担して反乱は上総国、下総国、安房国に広まった。
注目すべきは、武士たちが「反乱」という行為にもかかわらず、比較的容易に忠常にくみしていることだろう。

上総国の武士たちは、地方政府やその親分である藤原摂関家などの大貴族、大寺社に対するフラストレーションから、将門の再来と忠常に期待して身を投じたとしか思えない。

忠常は、征討使平直方を撃破して抵抗を続け、関東の混乱は長期化した。

反乱は3年にもおよんだ。源平合戦が6年だから、長いと見るべきだろう。

次に征討使に任じられたのは、源頼信。
源氏の嫡流だ。
忠常は、源頼信が征討使に決まるやいなや戦わずに降伏し、出家。

実は、頼信が常陸介であったとき、忠常と戦ったことがあり、そのとき忠常は頼信に心服し家来となることを誓約したという。
二人は心で繋がった主従だったのだ。

忠常は都に上る途中で病死したが、頼信は即座に帰服した忠常の残された一族を守ることに尽力した。

ちなみに、上総介広常は忠常の嫡流だ。



平忠常の乱の討伐に向かう源頼信 Wikipediaより

 


武士というものが勃興したときの中心的存在であった平将門とその孫・平忠常は、ともに悪くいえば無為徒食の中央の権力者に対して、強烈なレジスタンス闘争を繰り広げている。

鎌倉武士たちの多くは、将門や忠常らに代表される武装農場主(武士)たちの中央に対する不安と理不尽と絶望感に満ちたレジスタンス精神を源流としているだろう。

だから、2月6日の「鎌倉殿の13人」第5話『兄との約束』の中の、北条宗時のこの言葉は、私には将門や忠常の公憤そのものに聞こえた。

俺はこの坂東を、俺たちだけのものにしたいんだ。

西から来たヤツらの顔色をうかがって暮らすのは、もうまっぴらだ。

坂東武者の世をつくる。そして、そのてっぺんに北条が立つ。

そのためには、源氏の力がいるんだ。頼朝の力が、どうしてもな。

さらにいうと、43年前の大河ドラマ「草燃える」で、同じ北条宗時が言った言葉が、ダブって見えた。

そのシーンは、森本毅郎アナウンサーの重厚な語りから始まる。

平家の世に不満をいだく者たちは東国にもいた。北条宗時を中心とする豪族の息子たちが、坂東武者の力を結集するには源氏の嫡流頼朝を担ぎ出そうと寄り集まっていた。

その場にいるのは、北条宗時、義時、三浦義村、仁田忠常、加藤景廉、佐々木定綱。

宗時は言う。

土地争いが起きても公平に裁いてくれる人がいない。だから豪族同士の無益な殺し合いにもなりかねない。

おまけに大番にでも当たれば、蔵の中総ざらいでも何もかも食いつぶしてしまうほどの物入りだ。

てめえの土地にはごっそり税をかけられる。それをいくらかでも軽くさせようとして、荘園として貴族や寺に寄進する者もいるがよ。
オレたちの土地を守るのになんでそんなことまでしなきゃならねえんだ。
オレたちは足元の定まらない土地に立っているのも同じなんだよ。


将門がいま私たちの前に姿を現すことができたなら、こう言うに違いない。

ワシも忠常もこう言いたかったのよ、宗時のようにな。

将門たちの公憤は鎌倉武士たちに受け継がれ、宗時との約束を、義時は今年一年かけて果たしていくことになるだろう。

 


大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で北条宗時を演じた片岡愛之助さん(左)(C)NHK まんたんwebホームページより