九死に一生を得すぎた男〜「頼朝」を作った何かとは〜 | 天地温古堂商店

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日曜日の夜が楽しみになる面々だ。
おそらく、彼ら全員が一堂に会して雌雄を決する日が遠からずあるはずだ。

彼らは来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に出演する俳優たちである。

これだけの面々が一堂に会するのは一度の機会しかない。

一堂に会する場所は相模国石橋山。

石橋山の戦いにおいてである。

彼らが演じるのは、

●このときの敗者たち
源頼朝、北条時政、北条宗時、北条義時、土肥実平、仁田忠常
●このときの勝者たち
大庭景親、伊東祐親、伊東祐清、梶原景時、山内首藤経俊

石橋山の戦いは、1180(治承4)年8月17日、源頼朝と大庭景親ら平氏方との間で行われた戦い。

経過も結果もあまりにも有名で、劇的だ。


勝川春亭 作「石橋山合戦」 刀剣ワールド浮世絵ホームページより

 


源頼朝ドラマ、または鎌倉幕府誕生ストーリーの多くは、伊豆蛭ヶ小島で流謫の日々を過ごす頼朝と東国武士たちの邂逅から始まる。

やがて、頼朝を奉戴して平家西国政権打倒に決起する東国武士団だが、その初戦がこの石橋山の戦いだ。

源頼朝は伊豆国の目代・山木兼隆を攻め討ち果たすと、相模国の豪族三浦氏と合流するために石橋山に陣を敷いた。
しかし、合流に失敗し孤軍となる。


梶原景時と同族、相模国の大庭景親(平家方)を中心とする3000騎とその10分の1ほどの少数の頼朝勢。


鎧袖一触、頼朝勢は敗北、散々に潰走して生き残った者は山中に逃げ込んだ。



残党狩りをする大庭勢から逃げ隠れようと、頼朝は土肥実平らごく少数でとある巨木の洞に身を隠す。

大庭勢の中には敗残兵を追う梶原景時の姿もあった。
ここからが、石橋山の戦いの最も有名なシーンだ。

この時、梶原景時は、石橋山の後峰にかなり深入りしていた。泥と闇の中でいつか手勢とも別れ別れになって、従う者も数えるほどだった。
しかもかすかに蒼味を帯びた朝靄はみるみる濃さを増して、今は少なくなった郎従たちをさえ景時から押しへだてようとしている。
(略)
と、そのとき、
ぴしっ!
斜め前で、かすかに小枝を踏み折る音がした。
先駆の者か?
何気なく靄をすかしてみようとして、景時ははっとした。
彼の視線がその人影を捉えるより一瞬早く、さっと身構えた相手に、異様な殺気を感じたからである。
「動くな!」
声を殺して鋭く言うと、刀の柄に手をかけた。
相手は無言である。
恐らく刀は抜きはなっているのだろう。こちらの隙を窺っている気配である。
「誰だ!名乗れっ」
低くそう言うと、景時はその影に近づいた。
が、数歩間隔を縮めたことによって、その人影の輪郭が分明になっとき、思わず彼は立ち止まった。
「お、土肥……」
その人影は、まぎれもなく敵方の土肥次郎実平だったのだ。

永井路子「炎環」より


景時と実平はともに相模の豪族で旧知の間柄、遠祖は同じ平良文である。
いまは、事情により敵味方に分かれている。

「寄るな!」
思いがけない激しさで実平は言うと太刀をかまえた。
殆ど生気を失った顔の中で、落窪んだ眼窩の奥の瞳だけが、手負の獣のそれのようにきらきら光っているのに気づいた。二人は黙ったまま、靄の中で睨みあっていた。

「炎環」より

 

土肥実平 画 菊池容斎 Wikipediaより

 

景時はこのとき、実平の異常な殺気の中の「寄るな」の真意を悟ったはずだ。
その背後の靄の中にいる人物が誰なのか、を。

実平の頬に絶望の色が走った。が、このとき、
「寄るな!」
短く言ったのは景時の方だった。彼はふりむくと靄の中へ再び言った。
「寄るな、者ども!」
それから彼は低い声で実平に言った。
「刀を収めるがいい、土肥の次郎」
(略)
「見逃してくれるのか、かたじけない…」
「俺にお前が斬れると思うのか」

「炎環」より

大河ドラマ「草燃える」の原作のひとつ「炎環」では、梶原景時は、土肥実平の背後にいる頼朝を視認している表現はない。

景時が実平を見逃した事実が書かれている。

それは歴史書「吾妻鏡」に、

景時は、頼朝の所在を知りながら
この山には人はいない
といって、(大庭)景親の手を引いて去っていった。


という記述があるために作者は脚色を抑制したのだろう。

「草燃える」では、景時は洞穴に隠れる実平の後ろに頼朝がいることを視認し、言葉を交わしている。

いずれにしても、頼朝は九死に一生を得たのである。


絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)Wikipediaより

この時からさかのぼること5年前。
伊豆国蛭ヶ小島の流人だった頼朝は伊豆豪族伊東祐親の娘のもとに通い、ついに子を成した。

男児である。名を千鶴丸。
この間、父の祐親は京都に赴任していて長期不在。

平家にあらずんば人にあらず。

平家一門に接近して勢力維持を図っていた祐親は、帰郷してこのことを知り激怒。
祐親は生まれた千鶴丸を川に沈めて殺害。
さらには、頼朝の暗殺も図ったのだ。

祐親の次男・祐清の妻は、頼朝の乳母・比企尼の娘であったため、この暗殺計画を事前に頼朝に知らせて、すんでのところで逃亡。
頼朝は夜陰に乗じて馬を走らせ、熱海の伊豆山神社に逃げ込んだ。
頼朝このとき、28 歳。

関白・九条兼実の日記「玉葉」には

頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決

とある。
とくに威勢厳粛、成敗文明などは、頼朝の強靭な理性と政治的演技性を感じさせる。

もともと強固強烈な性格のうえに、こうした九死に一生を得るような、人為だけではない不思議をいくども経験してこそ体得する後天的な性格が、頼朝にありはしなかったか。


石橋山の敗戦や伊東祐親の一件が、彼の人格形成に大きな重力を与えたことはまず間違いない。

ただ、頼朝の人格形成にもっとも大きな影響を与えたドラマなどであまり語られない出来事がある。

彼は、不運と幸運がセットで訪れる、九死に一生を得すぎた男なのである。


『平治物語絵巻』平治の乱で敗走する義朝一行 Wikipediaより
 

石橋山の戦いからさかのぼること21年。
1159(平治元)年12月27日。


13歳の頼朝は、敗残の身にあった。
この少年、まだ三郎などと呼ばれていたかもしれない。
三郎頼朝は、母の身分が比較的良かったことから三男ながら嫡子であった。


父・義朝にひたすら付き従い、平治の乱で初陣するも敗戦。
父らとともに雪中を東国に落ちる道すがら、いまの滋賀県草津のあたりで、不覚をとった。
馬の背でつい眠りこけ父や兄(義平、朝長)たちにはぐれてしまったのだ。

しばらくしてから頼朝がいないことに気づいた義朝は腹心の鎌田正清を引き返させる。

ひとり頼朝は必死に父を追うが、途中で平家方の源内某に遭遇。

そこへゆくのは落人であろう、止まれ。

馬の口を捉えられてしまう。

少年頼朝は少しも慌てず怯えず、「いや謀反人ではない。合戦などで都も騒がしいので」などと答えるが、頼朝が着ていた源家の嫡男の証となる「源太が産衣」という見事な鎧を見た源内は、この少年を源氏の公達に相違ないと思った。

源内は力ずくで頼朝を生け捕るため、馬からひきずりおろそうとした。
そのとき、頼朝は馬上突っ立って渾身の力で太刀をふりおろす。
太刀は源家相伝の名刀「髭切」。
源内の頭は真っ二つに割れた。

頼朝は雪けむりをあげて走り去り、やがて父義朝一行に追いついた。
無事を喜ぶ義朝と異母兄たち。

しかし、九死に一生はこれだけではない。
頼朝は再び父たちにはぐれてしまうのだ。

このあと、父義朝らは信頼する家来である長田忠致に裏切られて殺されてしまう。

ひとり雪中を彷徨っていた頼朝は、一人の鵜飼に出会い、かくまわれ、女装して危機を脱することができた。



しかし、九死に一生はまだこれだけではなかった。

その後、頼朝は平家方に生け捕られた。

武士の子は怖い

といわれ、普通、男子はその命を絶たれる。
頼朝は源氏の嫡流だ。
当然、死を賜るところであろう。
しかし、平清盛の継母・池禅尼の命乞いによって、奇跡的に死を免れて、伊豆に流されることになったのだ。
頼朝の助命のために池禅尼は断食をし始めたため、清盛も折れて伊豆国への流罪へ減刑したとも言われている。

この池禅尼がただものではなかった。
名を宗子という。

平清盛の父・忠盛と結婚し、忠盛との間にふたりの男子を産んでいる。

宗子は、待賢門院(藤原璋子)の近臣・藤原家の出身。
従兄弟には鳥羽法皇の寵臣・藤原家成がいたことからその姪である美福門院(藤原得子)ともつながりがあった。
藤原璋子は後白河帝の母、藤原得子は鳥羽帝の皇后だ。

池禅尼はその幅広い人脈により

夫ノ忠盛ヲモモタヘタル者(愚管抄)

夫の忠盛をも支えるほどの者と呼ばれ、忠盛の妻たちの中で最も重んじられていたのである。
その彼女が頼朝助命のためハンガーストライキをしだしたのだ。

また、頼朝の母の姉妹たちも待賢門院・璋子やその娘統子に女房として仕え、頼朝の母も統子の女房だったといわれる。

以前、比企尼の稿で、乳母による強力な派閥について書いたが、頼朝には池禅尼に連なる女性たちの強力なバリアが存在していたのだ。

 

 

とにもかくにも、少年頼朝は九死に一生を得た。

頼朝は、絶体絶命の危機に陥ったとき、なぜか奇妙な強運を発揮する。
もし彼が、父らにはぐれずにいたら、父とともに殺されていただろう。
池禅尼や上西門院統子のような非政治的な権威グループが情をもって彼を懸命に救おうとしてくれる。

最後に平家の家人に捕らえられたとき、頼朝は、

命は惜しい

と言ったそうだ。

「殺すなら殺せ!」とか、「死んで鬼となってたたってやる!」などとは言ったりしない。
年若なこともあろうが、武人特有な熱性や自我がなく芝居っ気もなく、素直で飾らないやさしい人間だったのではなかろうか。

頼朝はこうして何度も何度も迫りくる危機と、名もなき鵜飼や池禅尼や伊藤祐清や梶原景時たちにより救済されるという経験を重ねるうち、「源頼朝」という源氏の棟梁がもつ逃れられない運命を悟ったのではなかろうか。

梶原景時の稿でも触れたが、自然人・頼朝は自分の背後に、

頼朝大明神

のごとき神性な箱があって、この箱に出たり入ったりする術を体得したのではないか。

頼朝大明神とは、すなわち源氏の棟梁、東国武士団代表、征夷大将軍という公なるもの。
彼を危機から救おうとする者は、武人特有な熱性や自我がなく芝居っ気もなく、素直で飾らないやさしい自然人・頼朝をそこに見たのではないだろうか。

あくまで、私的な想像にすぎないが。

 

 

威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決。熱性や自我がなく芝居っ気もなく、素直で飾らないやさしいひと。
彼自身は歴史のうえを一万馬力のエンジンで疾駆するスーパーカーのような英雄では決してない。

「炎環」の作者・永井路子氏はそのあとがきでこう言っている。

一台の馬車につけられた数頭の馬が、思い思いの方向に車を引張ろうとするように、一人一人が主役のつもりでひしめきあい傷つけあううちに、いつの間にか流れが変えられてゆく

源頼朝は、間違いなくその一台の馬車であるはすだ。




☆こちらは『石橋山の3人』

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