兵にあらず、信のみ〜ふたりの僧を通して見る家康の本性〜 | 天地温古堂商店

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時代が必要とする人物が最もさかえる。

これを、適者生存というのだそうだ。

たとえばこうだ。

戦国末期、社会が中世の不合理の破壊と除去とを必要とする時期には、大魔王のような織田信長が出現して、解体業者のように古家群を取り壊していった。


社会が統一と整備を必要とする時期には、陽気で人たらしな豊臣秀吉が出てきて、鼻歌でも歌うようにして、天下をばたばたと静めていった。


最後に、恒久の平和と民心の休息を必要とする時期には、綿密で堅実な徳川家康が出てきて、緻密な設計図を持ってきて、槌の音を響かせながら平和を打ち立てたのだ。

彼らは時代の求めにより歴史に登場して、時代に合わなくなったとき、他のものに代わられた。

最後に登場した家康については、どうも人物評が分かれているようにみえる。


徳川家康像 nippon.comホームページより

 


家康を悪者とする者の常套句は、

たぬき親父

であろう。

たぬき親父は、まず風貌がよろしくない。

日本人が好む華々しく活躍するヒーローではない。
次いで、たぬきは人を化かすことから、狡猾を連想させる。

三河の大名時代、領内での一向一揆に手を焼いていた彼は、いったん一揆側と和睦を結び、彼らを解散させた。
しかし、一揆側が解散するやいなや、途端に手のひらを返して、武力で一揆側を弾圧。


まあ、大坂の陣でも、最初の「冬の陣」で豊臣秀頼と表面的には和睦しながらも、その陰で大坂城の総堀を埋め、翌年の「夏の陣」では豊臣家を滅ぼしてしまった。

その結果、最後の勝利者となったのだ。

遠くから彼を見ていた多くが、

イヤなやつだ

と思ってもおかしくはない。

一方で、家康肯定論者は、このことばを口にする。

律儀者

家康の律儀は、織田信長と結んだ織田・徳川攻守同盟に現われる。
戦国の世には、攻守同盟などは、それこそはいて捨てるほど結ばれた。 

そのほとんどが長く守られたことはない。

たったひとつの例外が、この織田・徳川両家の同盟であった。

信長は、戦国随一の名将であることは間違いないが、それ以前に天性の外交家であった。

敵国武将に徹底的に媚をふり、自分が勝てるという確信がもてるときまで、絶対に戦さは起こさない。

逆にいえば家康との同盟などはまったく意に介さない性格なのだろうが、両家の同盟は信長の死までつづいた。
それは何故か。
家康が絶対に違約をしなかったからである。

信玄との決戦となった三方ヶ原の合戦に信長軍が少数の派兵しかしないなど、さんざん煮え湯を飲まされようとも、家康は同盟を遵守した。

彼は他の者にとって代わられず、最後に天下を手にした男だ。
しかも、その後260年の平和を招来させた史上無双の者である。

彼の本性を見極めたいのは人情というものだ。

時代が必要とする人物が最もさかえる。

これを、適者生存と言ったのは、作家・海音寺潮五郎である。
彼は、また、家康が成功者となった要因を5つあげている。

一、家臣団である三河武士団が優秀であったこと。
二、用心深い性格であったこと。
三、最も勇気のあった武将であったこと。
四、最もかしこい人であったこと。
五、マキャベリズムと誠実さを兼ね備えた人であったこと。


史料を渉猟した海音寺氏ならではのたいへんな炯眼にほかならないが、この中で最も悪評に近いのはマキャベリズムであろう。
すなわち、どんな手段や非道徳的な行為であっても、結果として「国家」の利益を増進させるのであれば許されるという考え方だ。
豊臣家を謀略まがいに滅亡させたことや、豊臣家恩顧の大名たちにイチャモンをつけて取り潰していったことがこれにあたるのだろう。

ただ、家康のマキャベリズムは、その目的を達成するまでの時限的なものだったに違いない。
利益の受け手は、あくまで自己ではなくて秩序のよりどころとなる新国家だ。
家康が理想とする秩序ある平和国家を打ち建てるための手段としてのマキャベリズムだったはずだ。


家康の本性を見ようとするとき、面白い手法でそれを証明した人物がいる。

勝海舟。

海舟は、家康が誰を重用したかで、家康を推し量ろうとした。

家康が69歳のときのこと。
家康はすでに大御所として駿府にあって、初めてその人の天台宗の講義を聴講。
感銘した家康はその人に向かい、

もっと早くにそなたと出会って、もっと早くその教示するところを聞きたかった

といっている。

その人とは、僧・天海。
天海はこのときすでに75歳。

海舟は、この天海という視座から家康の本性を見ているように思える。

天海は、非凡な人物であったらしい。

あれがいましばらく頭を円くしなかったなら、きっと家康公に向かって弓をひいたであろう。
あの男はもと、宗家の蘆名家が滅亡したために流浪落魄して、とうとう叡山の坊主になり、そこで非常に苦学したものだが、一朝、家康公の知遇に感激してからは、赤心を捧げて徳川氏のために画策経営の労をとったのだ。
なかなか今時のなまけ書生が、十分の学資がありながら、それでなにごとをもしでかさないで、空しく一生を過ごしてしまうのとは、頭から比べものにならない。


このように天海を激賞している。


勝海舟 写真 Wikipediaより

ところで、家康公が天海をなぜ用いられたかということについては、おれに一説がある。

と、海舟はいう。

それはほかでもないが、家康公は幼少のときに今川家の人質となって、駿河の臨済寺で読み書きのけいこをせられたが、その寺の住職は、よほどの高僧であったとみえて、始終今川家の枢機に参与して、今川家のためにずいぶん功労があったらしい。
家康公は明け暮れそれをみておられたから、出家というものは、政治上しごくたいせつなものだというお考えが、深く脳髄にしみこんでいたに相違ない。


海舟の興味深い視点だ。

おそらくこの高僧とは、太原雪斎のことだろう。

定かではないが、このとき雪斎は幼き家康(竹千代)に、兵法・歴史・政治のすべてを教えたと思われる。
のちに家康は、雪斎がいなければ今川は立ち行かないと発言しているところをみると、それは雪斎を知悉していたからと思えるし、よほどの人物だったと思える。


太原雪斎木像(臨済寺蔵)https://kiiroipanda.com/より

 


大河ドラマ「徳川家康」では、雪斎が竹千代を教える場面がある。

雪斎が竹千代にいう。

孔子が弟子に、政治には食と兵と信がある、と言う。すると、弟子が聞いた。

国がその3つを備えられない時はどれを捨てればよいかと。
竹千代、
お前ならどう答えるか。


竹千代が答える。

兵。

なぜ兵を捨てるか。

ひとは食を捨てたら生きられませぬが槍は捨てても生きられまする。

孔子は竹千代と同じことを答えられた。

そこで弟子はまた聞いた。

残った二つのうちどちらかを捨てなければならぬ時はどちらを捨てればよいかと。
お前ならどう答えるか。


信を捨てます。食がなければ生きられませぬ。

尾張にいるときは三之助と徳千代と三人で食がないとあさましくなりました。


大河ドラマ「徳川家康」の竹千代 NHKアーカイブスより


食が手に入ったときお前はどうした?

まず三之助に食べさせました。

その次に竹千代が食べました。

徳千代は竹千代が食べぬうちには食べませぬゆえ。
でも、それからは三之助も徳千代のまねをして食べませぬ。
それゆえに次からは最初に3つに分けてまず竹千代が取りました。


そうか、それはよいことをしたのう。

しかし、孔子はそうは答えなかったぞ。

すると、食を捨てよと申されましたか。

そうじゃ、食と信ではまず食を捨てよと申された。
徳千代は、竹千代が食べぬうちには食べなかったと申したな。

徳千代はなぜそうしたのだろうか。

それは、三之助がまだ幼かったゆえ、竹千代に食べられてしまい自分は食べられぬと思った。

ところが徳千代は竹千代がひとりで食う人ではないということを知っていた。

そういうお前を信じていたゆえ、竹千代が食べぬうちは食べなかった。
そしてその次に三之助は竹千代を信じた。

黙っていてもひとりで食う人でないと悟ったのだ。
だれかがひとりで食べたら二人が飢えてゆく。
人と人とのあいだに信がなかったら、三人をつなぐその食が争いのタネとなり、かえって三人を血みどろの戦いに誘い込まぬものでもない。
信じ合えるからこそ人間なのじゃ。

信がなかったらけものの世界。けものの世界では食があっても争いが絶えぬゆえ生きられぬ。

これはフィクションかもしれないが、高僧・雪斎の薫陶がどういうものだったか想像することができる。

まつりごととはそういうものか。

家康の幼心にこうしたことが深く刻まれたに違いない。
家康は69歳になって天海の講義を聞きながら、ふと幼き日の雪斎師のことを思ったのではなかろうか。

天とはまことにありがたいものだ。
幼きおり、ひとり流寓にあって雪斎師をワシに授けてくださった。
老いてのち、天下普請に腐心しているとき、天は天海をワシに与えてくれた。


そう思ったのではないか。

もっと早くにそなたと出会って、もっと早くその教示するところを聞きたかった

そのことばが記録ではこう残っている。

天海僧正は人中の仏なり。恨むらくは、相識ることの遅かりつるを。

天下普請の仕上げ(豊臣問題も含め)のいま、天海の存在は家康のこころに安寧と確信をもたらしたのだろう。


木造 天海僧正像 栃木県総合教育センターホームページより



海舟はいう。

それで天海の非凡な坊主であることをみぬかれて、あのとおり重く用いられたのだ。

そして、天海のもっとも優れたところを海舟らしい視点でこう見抜くのだ。

天海はあれほどの人物であって、そしてあれほど重く家康公に用いられたとすれば、天海の事蹟というものが、それ相応には伝わっていなければならないのに、それがいっこう歴史にものっていないのは、なぜだろうと疑うものがあるかも知れない。
しかし、その伝わっていないのが、すなわち天海たるゆえんなのだ。
今日やったことをすぐに明日、しかも針ほどのことを棒のように言いふらすのがいまどき流行だが、天海などのそれと違って、家康公の枢機に参与しても、どんなことを計画したのか、世間へは少しも言いふらさない。
こと言いふらさず、少しもわからない底に、叩くと何だか大きく響くものがあるのだ。
そこがすなわちえらいというものだよ。


家康は、たぬき親父であり律儀者であった。

また勇者でもあり、マキャベリストでもあった。
ここからは多分に想像だが、しかし、これらは家康は天下を得るまで、新国家を建てるまで、そして、戦国を終わらせて武を偃め、平和な世を作るまでの渾身の方便だったように思う。

家康は雪斎や天海のこころを忘れることなく、むしろこれ、信や和をまつりごとの基本とした。

そして、これも想像だが、天海と二人きりで密かに語り合うとき、自分の死後のことも話したのではないか。
その意を受けた天海が、それを実現するのだが、家康のこころがそこにみてとれるのだ。

勝海舟の著作「氷川清話」の編者がそのなかでそのことを言っている。

寛永の昔、南光坊天海は家康の霊を祀るのに日光、上野、久能山の三山に東照宮を建立した。そこには家康だけでなく秀吉と頼朝とが合祀されてある。
現在でも日光に行くと三つの御輿があって、それは家康、秀吉、頼朝の三公の御輿だが、祭礼にはこの三つを担いで練り歩く慣わしである。
秀吉の霊を祀ることによって豊臣の遺臣の怨念を消そうと努めたのである。
ここに日本の政治の深い叡智がある。


新しい平和国家は、秀吉の功績によってできたものでもある。
秀吉公も私とともに日光に必ず祀ってくれ。

天海の忖度ではなく、家康の天海への遺言だったと思いたい。


日光東照宮 Wikipediaより


さらに余談だが、海舟はひょっとしてこの話を西郷隆盛にしたことがあるのではないか。

家康は、国内の力を結集するために、東照宮に敵を祀ることで遺恨を残さないように配慮した。
官軍の江戸進撃の直前、田町の薩摩藩邸で海舟と西郷が会談したとき、日光東照宮と秀吉の因縁を話し、もしあなたが江戸を攻めれば、江戸城も8万人の徳川方遺臣を浪士にしてしまい、80万人の江戸市民は焼き殺される。
その後の新しい国家はどうなるだろう。

海舟は西郷にそういったのではないか。

兵にあらず、信のみ

西郷がそうして江戸無血開城を決めたのなら、家康の本性が260年の時空を超えて、この奇蹟を生んだといえるかもしれない。

 

 

※参考 勝海舟著「氷川清話」(角川文庫)