小笠原びと奇談③~貞任の夢・無人島始末記~ | 天地温古堂商店

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名奉行といわれた大岡越前守忠相。
その活躍ぶりは、大岡裁き、大岡政談として後世に伝えられている。

その大岡忠相が、南町奉行時代に扱った事案でもっとも印象深かったのが、ひとりの浪人をめぐるこの事件ではなかったか。


大岡忠相像(国立国会図書館蔵) Wikipediaより

1727(享保12)年、南町奉行所に現れた一人の浪人。
名を小笠原貞任(さだとう)と名乗った。
自分は小笠原貞頼という徳川家家臣の曾孫だという。

貞任という男が忠相に手渡した書状には

辰巳無人島訴状幷口上留書

と書かれてあった。

辰巳、とは東南の方角を指す。
江戸から大海を隔てた東南にある無人島に関するものだという。

忠相は貞任をいったんは帰してから、小笠原貞頼について調べてみた。

宗家の家系ではないな

宗家とは小笠原貞慶から始まる豊前国小倉藩15万石のことである。
戦国時代、武田信玄に敗れ国を追われた小笠原長時の三男・貞慶は徳川家康に仕えて信州松本に領地をもらい松本城主になった。その子・秀政は8万石をもらい小笠原家として初代藩主となった。秀政は大坂の陣で討死。
その子・忠真が小倉に移封され、いまに至っている。

小笠原貞頼は、前稿で触れた小笠原長時の長男・長隆の子とされている。
しかし、寛政重修諸家譜や小笠原家譜など一級史料には小笠原貞頼の名前は見当たらない。
ただ、「朝野旧聞裒藁」という幕府編集の史料に、神君伊賀越の随伴者として小笠原貞頼の名があるのである。
ただし、忠相のころにはまだこの史料は存在していない。
かろうじて存在だけがわかっている謎の人物だ。

いまに残る小笠原貞頼像は、曾孫と名乗る浪人貞任の差し出した文書によるところが多い。

貞任が大岡忠相に提出した口上留書によれば、

1564(永禄7)年、貞頼は同族の幡豆小笠原氏を頼って、三河国へ移住し、小笠原宗家の小笠原貞慶よりも先に徳川家康に臣従している。
長時・貞慶親子は信濃を追われて京にいた頃だが、貞頼はもう別行動をとっていたのだろうか。

1593(文禄2)年、文禄の役から帰陣した貞頼に対して、家康は、

貞頼は小田原の陣以来、数度の戦功にもかかわらず、いまだ本地に帰らず、家臣の禄も不足しているであろうから、しかるべき島山があれば、見つけ次第、取らすであろう。

と証文を貞頼に与えた。

こうして、貞頼は噂に聞く南方諸島の探索のため、南海へと船出した。

この南海探検で、貞頼は、無人島3つを発見し、家康に報告。
家康はこのことを天下人・豊臣秀吉に報告し、秀吉は、直々に貞頼へこれらの島の所領を安堵したという。

このことは、貞任の訴状のうち証拠として添えられていた「巽無人島記」に書かれてあった。

しかし、大海をゆく船をどうやって用意できたのだろう。水夫はどうやって手配したのだろう。

口上留書には、こうもあったという。

初代茶屋四郎次郎の妻が、小笠原貞頼の姉であり、2人は義理の兄弟の関係にあった。

これは何を意味するのか。

茶屋四郎次郎は、本能寺の変の際、堺に滞在中であった徳川家康一行に早馬で一報した。さらに後世、「神君伊賀越」といわれた脱出劇のとき、物心ともに家康を支援した。
この恩により、家康に御用商人として取り立てられ繁栄のいしずえを築いた。
茶屋四郎次郎は南蛮貿易に従事し、朱印船貿易の特権で豪商として栄えたのである。

となるとである。
海洋探険船も水夫も茶屋を通じて入手が可能となり、大名でもない一家臣の小笠原貞頼の無人島探索、発見は不可能な話ではなくなるのだ。


茶屋四郎次郎木像(京都市本能寺 所蔵)戦国ガイドHPより

忠相の手元には、浪人貞任が提出した自身の系図と、貞任の家に伝わる無人島の古地図があった。

系図の真偽については、豊前小倉の宗家、分家の播磨国安志藩、越前国勝山藩の家老から聴取するか。

忠相はその旨の依頼状を書き、さっそく部下を走らせた。

古地図については調べればわかる

忠相がそう自信をもって言ったのは、その南海の無人島について、幕府の書庫にいけば古い調査書があると思ったからだ。
これもすぐさま有能な部下に指示を与えた。

しばらくして忠相のもとに報告が来た。

貞任のいう無人島は、すでに日本人によって発見されていた。
1670(寛文10)年、阿波国の勘左衛門のミカンの輸送船が紀州の有田でミカンを積み、江戸へ向かう途中に遠州灘で遭難。
7名の乗組員は米を食べ尽くしその後は積み荷のミカンを食べ、魚を釣って飢えを凌ぎ、72日間に及ぶ漂流の末に、八丈島のはるか南の無人島に漂着した。
その後、勘左衛門らは八丈島経由で伊豆国下田に生還し、島の存在が下田奉行所を経て幕府に報告されたのだ。

ミカン船が漂流中に南海で無人島を発見し、そこから生還したニュースは日本中に広がった。
当時長崎のオランダ商館に勤務していたドイツ人医師ケンペルが帰国後の1727年に「日本誌」出版したが、その中でその島には人が住んでいなかったので、日本人はこの島をブネシマ(無人島)と呼んだと記している。
これによって世界にブネシマ(またはボニンジマ)の名が知れわたった。

5年後の1675(延宝3)年、漂流民勘左衛門らの報告をもとに、幕府は島谷市左衛門を無人島に派遣した。
正式な国の調査団である。
島谷らは36日間にわたって島々の調査を行い、大村や奥村などの地名を命名したうえ、

此島大日本之内也

という碑を設置した。
これらの調査結果は、将軍をはじめ幕閣に披露され、これ以降これらの島々は無人島(ぶにんじま)と呼ばれることになった。


アソビューホームページより

忠相が、貞頼のことを多少胡散臭いと思いつつ調査を進めようとする矢先に、幕閣から働きかけがあった。

新田次郎の小説「小笠原始末記」では、こんな記述になっている。

新しく老中に加えられた松平伊賀守忠周だけは、この問題をべつの見地から取り上げていた。
「かの無人島は今から五十二年前の延宝三年に幕府から正式に派遣された島谷市左衛門によって認知せられている。
それより八十二年も前に既に発見されている事実があるとすれば、日本にとって大いに結構なことである。
よく調べてはっきり記録を残すがよい。
小笠原家が、系図問題でとやかく掣肘を加えているように聞き及んでいるが、かまうことはない。個人の問題と国の問題とは違う」


忠相はそう激励された。

松平伊賀守は、無人島が無人のままであることを憂慮していたのだろう。
国の問題と言ったのはそのあかしだ。
たとえば八丈島は流刑の地だ。
無人島はそのはるか南。
幕府にとって小笠原か何かは知らないが、男女がつがいとなって入植してくれるのなら理由はなんでもかまうまい。
伊賀守の政見は、国土拡張策にほかならない。

南町奉行、大岡忠相は詮議の結果、1728(享保13)年、小笠原貞任に対して実地検分のため渡航許可を与えたのだ。
貞任は狂喜した。

渡航許可から6年。
甥の小笠原長晁(ながあき)を先遣隊に出すことになり、大坂から鳥羽を経由して渡航した。
が、その後消息を絶つ。
船が難破して長晁は帰らぬ人となってしまったのだ。

それでもめげずに再渡航に向けて資金調達に励んでいた貞任だったが、1735(享保20)年、南町奉行所は一転して渡航許可を取り消してしまう。

理由は貞任が提出した口上留書の「巽無人島記」の内容が幕府の島谷調査団の報告と著しく違っていたためと言われている。

また、南町奉行所は小倉藩の小笠原宗家に

小笠原貞任という者をご存じか 

と確認したところ、万一の連座を懸念した小倉藩主から、

そのような者や提出された系図についてもまったく承知していない。
偽りならば罰せられたい。小笠原の名誉が傷ついたならわれらにも考えがある。


とプレッシャーをかけたと思われる。
幕府がその気になれば、十分減封や改易の口実になることは過去の大名廃絶の例をみればわかることだった。

松平伊賀守が1728(享保13)年、死没したことも大きかった。

「小笠原始末記」では、伊賀守の死ではなくこう筋立てている。

老中松平伊賀守が無人島探検を浪人者の小笠原一族にやらせて、小笠原家正統をほこる大名たちの鼻を明かしてやろうとした。
宗家の小倉藩主は、これに対抗して小笠原貞任らの再吟味を南町奉行所に申し入れてきた。
伊賀守は、この悶着を機に小倉藩を追い込もうとする。
そういう伊賀守の小笠原一族問題に対する感情的な言行を大岡忠相は迷惑に思い、筆頭老中と将軍吉宗と協議。
翌日、松平伊賀守は老中職を免ぜられた。

風向きは完全に変わった。

浪人貞任は、南町奉行・大岡忠相によって詐欺罪の裁きを受け、財産没収、重追放の刑が下された。
小笠原貞任による無人島入植の夢はこうして終わったのである。


南町奉行所跡 千代田区観光協会ホームページより

いま、東京都小笠原村のホームページにはこの島の沿革についてこうある。

1593年(文禄2年)
信州深志(松本)の城主小笠原長時の曾孫、小笠原民部少輔貞頼が発見したと伝えられる。

1670年(寛文10年)
阿波国浅川浦のみかん船が母島に漂着。小船を造り帰還する。

1675年(延宝3年)
江戸幕府の命により嶋谷市左衛門一行が小笠原を探検調査する。


ここに、運命の一書がある。

三国通覧図説

三国通覧図説は、1785(天明5)年、林子平により書かれた江戸時代の地理書・経世書。

日本に隣接する三国、朝鮮・琉球・蝦夷と付近の島々についての風俗などを挿絵入りで解説した書物とその地図5枚からなっている。


三国通覧図説(総図)横浜市立大学所蔵古地図データベースより

三国通覧図説は、八丈島のはるか南海上に浮かぶこの無人島について、

本名を小笠原島ということ
延宝3年島谷市左衛門らの実地調査があったこと


と書いている。

林子平は、小笠原貞頼のまぼろしの発見や浪人貞任の偽書のことも知っていたのだろう。
そうでなければ、ミカン船の乗組員が発見し、島谷市左衛門が調査した無人島を、小笠原島と記すはずがない。

藤原相之助の連載小説「林子平」に興味深い記述がある。

嘉永六年に米国水師提督ペリーが来航した時、先づ小笠原島に入りピールアイランド植民政府というものを置き、自国の領地だと称して日本政府にその確認を求めた。

幕府では大いに驚き、種々の記録を調査したがその結果として、 文禄中豊太閤の命にて小笠原貞頼が南洋を探検した時にこれを発見したもので徳川時代に至り小笠原家に與へた事蹟があるので、これは1593年の頃すでに日本の領地になつていると説明したけれどペリーはきき入れなかった。
(中略)
幕府ではすこぶる窮迫したが、たまたま仙台の林子平が天明中に著述した三国通覧図説に小笠原島の地図と説明が乗せてあり、それをドイツで翻訳公刊したものがあると聞き、辛うじてそれを求めてペリーに提示した。
日本の島として世界に認められてることが証明されたために、ピールアイランド植民地の主張が通らなくなった。

※旧仮名遣いなど一部修正

すでにこの時、林子平はこの世にはいなかったが、三国通覧図説はアメリカとの小笠原諸島帰属問題が争われたときの有力資料となったのである。

もうおわかりのように小笠原諸島の小笠原とは、小笠原貞頼に由来する。

その曾孫と名乗る浪人貞任の善悪定かならない無人島入植運動とその挫折は、そのことだけを見るとただ虚しさしかない。

しかし、彼が歴史という池に投げ入れた小石の波紋は、すさまじく巨きなものになった。
歴史とはこんな奇跡も起こすのか。

でも、せっかくのドラマをぶち壊すようだが、いちど尋ねてみたい。

貞頼さん、あなたホントにあの無人島に渡ったのですか?