戦国弱小国の生き様・死に様〜水野信元の場合〜 | 天地温古堂商店

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戦国時代、織田と今川に挟まれた尾張・三河地方は、領主たちにとって甚だ生きづらい土地である。
 
尾張中央から西を治める織田、東尾張には水野、西三河に松平、東三河には牧野、遠江以東は広大な今川の領国である。
問題は、水野、松平、牧野らの小名らで、常にどこかの勢力と手を結んでいかねば生き残ることはできず、その判断は常に衰亡と背中合わせだ。
 
地理上からみていちばん今川寄りの牧野氏は、1506(永正3)年の今川氏の東三河侵入以降、松平氏→今川氏→織田氏→今川氏→徳川氏と従属と離反を繰り返した。
松平氏は、家康の祖父清康が三河一国をほぼ治めたが、家臣に刺殺され一気に頽勢した。
松平氏は今川氏に従属しつつも、織田氏に近い西隣の水野氏とも婚姻関係を結ぶ。
 
松平清康の子広忠は、水野忠政の娘於大と結婚。まもなく男子を生む。竹千代、のちの家康。
しかし、水野家の当主忠政が死ぬと、後を継いだ信元は織田氏に従属する。そのため、今川氏につく松平広忠は、於大を離縁。その広忠も家臣に殺されてしまう。松平竹千代は、今川氏の本拠・駿府での人質生活を余儀なくされる。
 
大国に近接する小国は、一つのミスも許されない。三河の渥美半島の小名、戸田氏などは一つのミスジャッジで滅亡してしまった。
 
牧野氏の場合は、どうか。
1560(永禄3)年5月、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、徳川家康(松平竹千代)は自立。
翌年4月からの徳川氏による東三河侵攻に対しても今川方として頑強に抵抗するが、一族からも次第に徳川氏に転属する者が現れ始める。
1562(永禄5)年2月には今川氏真が家康との直接対決に連敗すると、ついに今川から離反。
1566年(永禄9)年には徳川氏に服属した。以後、牧野氏は、家康の外様の国衆に列して、東三河の旗頭・酒井忠次の配下となった。
 
 
さて、親織田の水野信元はどうしたか。
 
水野信元は、徳川家康の伯父である。
信元の妹於大が家康の母なのだ。
信元の生年はわかっていないが、1523年頃と思われ、家康より20歳年上、織田信長より11歳年上になる。
 
大河ドラマ「徳川家康」では、水野信元を村井国夫が演じた。信元の妹、家康の生母役は大竹しのぶ。今年の「麒麟がくる」の〈家康への文〉の回にもこの兄妹は登場している。
 
水野信元の父忠政は「松平氏と結ぶ」という決定をする。
松平氏との間には古くから姻戚関係を重ねてきており、両家はともに今川氏の配下として発展してきた。最も穏当で保守的な判断といえる。
こうした難しい一族経営のかじ取りを担っていた忠政が、1543 (天文12)年に逝去。
後継者として一族のトップに立った水野信元は、すぐさま外交方針の大転換に着手。
先祖代々、友好的な関係を築いてきた松平氏と断交、織田氏と結ぶことにした。

当時の織田氏は、信長の父信秀が勢力を急伸する一方、松平氏は内紛続きで当主広忠も家臣に傷つけられる事件があり、弱体化していた。
 
不思議なもので隣家の不幸は我が家にとっても不幸の始まりで、松平広忠が死去するに及び松平家はさらに弱体化し、今川氏が岡崎に進駐。信元としては、眼前の大敵と直接向き合う形となってしまった。
しかし、この窮状は「桶狭間」によって打開。水野も松平も今川の脅威から解放された。
 
信元は、なかなかのやり手で、妹や娘を政略結婚に使い、南尾張の知多半島をほぼ手中にする。
於大を南尾張の久松俊勝に再嫁させ、傘下に置いたのだ。滅亡した渥美半島の戸田氏の遺児に娘を嫁がせ勢力を吸収した。水野家は24万石の大勢力となったのである。
 
信元はこうして足元を固めつつ、外交にも手腕を振るう。
1562(永禄5)年には家康と信長が同盟を結ぶことになり、その際、中心的な役割を果たしたのが信元だったと言われている。
信元は独立を保持しつつも信長配下の一将であり、さらに家康の伯父でもあったため、両者の仲介者として格好の適任者であった。
 
以後、強大な軍事力を持った彼は、躍進する信長の配下として活躍。
同時に家康のよき相談相手ともなり、彼に対して強い影響力を有することになる。
1563(永禄6)年には三河で起きた一向一揆に苦戦する甥・家康に援軍を出すなど協力してもいる。

その年付けで、気になる記録がある。
将軍足利義昭が兄、将軍義輝時代の武家秩序を模したという『永禄六年諸役人附』に、信元が「外様衆」として登録されており、義昭在位下では、幕府直臣の地位を得ていたというのだ。
 
織田信長の軍事力は拡大し、柴田勝家や佐久間信盛など直属の織田軍団のほかに、徳川軍団や水野軍団という同盟軍を持っていた。
 
信長はご存知のように軍も将も兵も道具のように酷使する。使えない道具は迷いなく切り捨てる。使われる側にとっては、つらい消耗戦だ。
同盟軍の場合でも同じことで、徳川も水野も同憂の間柄であったろう。
 
信元殿、急ぎ姉川へ参じられよ!
長島の一揆衆を蹴散らされよ!
手持ちの全軍を長篠へ回されよ!
 
家康は、我が生きる道はこれしかないと肝に銘じて律儀を通したのだろう。信長の要請に嫌な顔もせず、参陣した。
一方の信元も、織田家の配下の歴史は徳川より古い。織田軍の一翼として東奔西走した。
 
そんな時、信元に驚愕のたよりが京から届く。
1574(天正2)年3月20日、足利義昭より信元に御内書(将軍の公的な手紙)が遣わされた。
 
武田勝頼と協力して信長を討伐せよ
 
というものであり、義昭から家康へも同様の御内書が届いたという。
 
 
翌年、織田・徳川・水野連合軍は武田勝頼軍との長篠の戦いに勝利。
しかし、信元にとって最大の不幸は直後にやってくる。
長篠の戦いで、武田方の武将が織田方の美濃岩村城を攻略占拠した。信長がこれを攻囲した時に、水野信元の領地から城に兵糧を運び込んだ者がいたことが、信長の耳に入ったのだ。
将軍義昭の御内書のこともだった。耳に入れたのは織田家重臣・佐久間信盛。
信元は、名目上だろうが将軍の外様衆にもなっていた。
 
将軍義昭ー水野信元ー武田勝頼
 
という反織田ラインがつながってしまった。

結果からすると、信元の冤罪だった。
信長はこともあろうに、甥の徳川家康に信元を斬るよう命じたのである。
家康は将軍外様衆ではないが、御内書が届いている。義昭は織田信長を討ての御内書を濫発しているのであるが、家康にしてみれば信長に尽忠している身だ。
迷惑極まりない。
 
そんな背景もあって、斬りたくもない我が伯父を斬らないわけにはいかなくなった。
悲嘆に暮れる母於大の顔が思い出される。
1576(天正3)年、信元は子の信政とともに家康の家臣の手によって斬られた。
水野信元の領地は佐久間信盛に与えられた。
戦国の世とはいえ、あまりに悲惨だ。
 
しかし、信元には弟がいて忠重といい、このときは家康の配下になっていた。水野家の家督は忠重が継ぎ、のちに備後国福山で10万石の大名になっている。
 
信元は生きていれば、おそらく家康の最大の庇護者になっていただろう。
信元は家康に殺されたが、家康の後の人生にに多くの福をもたらした。
 
縁福というべきか、人福というべきか。
 
信元の跡を継いだ水野勝成(忠重の子)は、武田討滅戦、天正壬午の乱、関ヶ原の戦い、大坂の陣と徳川家臣として尽忠した。
信元の差配で於大が再嫁した久松俊勝との子どもたち、康元、康俊、定勝は異父兄・家康から松平姓を賜り、いずれも大名として徳川の社稷を守った。
 
まだある。
信元は死の3年前、子をなした。
甚三郎という。
家康は、この従兄弟の英明なことに気づいたか、伯父信元への贖罪のつもりか、我が子秀忠が生まれると、甚三郎を召し出して、7歳にして傅役にした。
甚三郎は、生涯秀忠に随従した。
のちの大老・土井利勝である。
 
信元の精霊たちは、随所々々で徳川の世に泰平をもたらしている。