マクロンは精神に異常をきたしているのでは?

最低・最悪、グロテスクな五輪開会式パフォーマンスはマクロンの政治思想そのもの、まさにマクロンが企画させたようです。

 

 

マクロンはThis is France!とXにポストしたわけですが、This is France!とは開会式でのLGBTQによるキリスト教冒涜と血まみれのフランス革命礼賛のこと、つまりマクロンの政治思想を表しているわけです。

 

 

ウクライナ戦争ではバカになるありんくりん氏ですが、それ以外は素晴らしい見識の持ち主です。

今回のパリ五輪開会式の腐った政治的主張について分析・批判したありんくりん氏のブログ記事は秀逸です。

 

ありんくりん氏の記事の、まずは結論部分を先に紹介します。

なぜフランス政府は五輪開会式のキリスト教冒涜を許可したのか?

…もうひとつのキリスト教冒涜は、蒼ざめた馬に乗った騎士を最後に登場させたこと。

これはヨハネ黙示録第6章第8節に出てくる第4の封印が解けて登場する蒼ざめた馬の騎士そのものです。

この蒼ざめた馬にまたがる騎士とは、戦争と死、そして飢饉の象徴という禍々しいものです。

 

到底「平和の祭典」の末尾に出してよいものではありません。

もはやフランスは、「人類の平和」に呪いをかけたいのかと疑いたくなるほどです。

ここで疑問なのは、なぜここまで執拗に繰り返される反キリスト教行為を、フランス政府は認めたかということです。

(中略)

「言論の自由」とはフランス人の理解によれば、「一切の宗教に対する非難・冒涜まで含む自由」のことということになります。

一切の公の場から宗教性を排除するだけでは止まらず、宗教に対してなにを言ってもよい、侮辱しようと貶めようと揶揄しようと自由だ、これがフランスの考える<自由>です。

そしてこの<自由> 原理主義の先に現れた最新の思想こそがLGBTQである以上、それの欲するままに祝祭を支配させ、公然とキリスト教を冒涜して見せたのです。

まことに人間の本質に反した非合理な原理主義、あるいは急進主義です。

殺害した王妃の死体に歌わせ、最後の晩餐をLGBTQに侮辱させ、蒼ざめた馬を疾駆させる、これがフランスだとマクロンは言っているのですから。

世界の愚民の諸君、これがLGBTQこそが民主主義の最新モードなのだ、トレビアンだろ。

文明の遅れている国々よ、早くこの最新モードを取り入れたまえ、そして共に宗教と性別の壁を嘲ってやろうではないか、と。

これがフランスの開会式に込めたメッセージです。

(引用終わり)

 

よくもまあマクロンはこんな狂気を世界に発信したものです。まさに精神に異常をきたしている!

This is France!とはフランス人に対しても無礼だし、そもそもマクロンはフランスなど代表していない。

前回の大統領選挙はマクロンジャンプで選挙を盗んだものだし、直近の総選挙ではマクロン率いる党「再生(RE)」はぼろ負けしているのです。そんなフランス人から全否定されたマクロンが狂ったメッセージを世界に発したことは許されないことでしょう。 

特にヨハネ黙示録に出てくる蒼ざめた馬の騎士、これはフランスの象徴、馬にまたがるのはマクロンでしょう。戦争と死そして飢饉をフランスが世界にもたらす。つまり人類はこれから死に向かって進んでいくんだ覚悟しろ、フランスが先導するんだというマクロンのメッセージ!

もう総選挙に負けてやけくそになっていたのかもしれません。いや、この企画は総選挙前から出来上がっていたから、ワクチンやウクライナ戦争から核戦争に至って人類の破滅をマクロンは望んだのかもしれません。

 

(追伸)8.01

今ネットのTⅤerで開会式ダイジェストを見ていたら、 NHKか何かの女子アナが、蒼い馬が出てきたのを見て「おしゃれですねー」とのたまわった。こりゃダメだ!

 

谷本真由美氏のXより。

 

 

以下ありんくりん氏の批評記事です。

 

最大の謎は、どうしてフランス政府があのような公然たるキリスト教に対する冒涜を許したかです。
あの太ったオープン・レスビアンの女性が演じたキリストがムハンマドだったとしたら、おそらくただでは済まなかったはずで、キリスト教にしたのは報復を受けることが少ないという理由にすぎません。

ではなぜ、あんな公然たる宗教冒涜が可能かといえば、それはフランスの「国教」が無宗教、「ラシイテ」だからです。
今日は今回のパリ五輪開会式のグロテスクさが、実はフランス国家の本質であるラシイテとからんでいることについて見ていきます。
ライシテには一定の和訳はありませんが、「政教分離」と訳すと、ただの公権力への宗教の介入を許さないとなって、我が国と同じになってしまいます。
もちろんライシテは、そんな甘チョロイもんじゃありません。むしろ「非宗教性」あるいは「宗教からの自由」くらいの強い意味なので、ここでは原語のまま記すことにしました。
 

例の開会式はふたつの「毒」が隠されていました。
ひとつはフランス革命の全面的肯定です。これは血まみれのマリーの首で表現して見せました。
もうひとつはLGBTQにやらせたキリスト教冒涜です。
こちらは最後の晩餐にペニスを露出させた男まで使徒として登場させました。
当然、キリスト教界隈からは非難の嵐で、組織委員会は謝罪に追い込まれています。

「英紙ガーディアン(電子版)によると、このパフォーマンスについて「世界中のカトリック教徒、キリスト教団体、保守派政治家の間で激しい怒りを引き起こしたため、大会組織委員会は謝罪を余儀なくされた」と報道。「いかなる宗教団体に対して敬意を欠く意図はなかった。(開会式は)コミュニティーの寛容さを称えることを試みた。不快な思いをされたとしたら、申し訳ない」とする組織委広報担当者のコメントを紹介した。
また、米放送局のFOXニュース(電子版)は「『最後の晩餐』を大げさに演出したことを受け、米国や世界の議員が開会式を非難している」と報じた」
(産経7月27日)
 

そしてもうひとつのキリスト教冒涜は、蒼ざめた馬に乗った騎士を最後に登場させたことです。

これはヨハネ黙示録第6章第8節に出てくる第4の封印が解けて登場する蒼ざめた馬の騎士そのものです。

そこで見ていると、見よ、青白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者の名は「死」と言い、それに黄泉が従っていた。彼らには、地の四分の一を支配する権威、および、つるぎと、ききんと、死と、地の獣らとによって人を殺す権威とが、与えられた。

 

この青ざめた馬にまたがる騎士とは、戦争と死、そして飢饉の象徴という禍々しいものです。
到底「平和の祭典」の末尾に出してよいものではありません。
もはやフランスは、「人類の平和」に呪いをかけたいのかと疑いたくなるほどです。

ここで疑問なのは、なぜここまで執拗に繰り返される反キリスト教行為を、フランス政府は認めたかということです。
とうぜん、政府のチェックが隅々まで入ってしかるべきで、なぜここまで大胆、かつ執拗に反キリスト教行為を祝祭の場でやらせたのか。
しかも世界同時中継という逃げ場のない場で、フランスの国家としての威信をかけて。
それを理解する補助線が前述したラシイテです。

このラシイテこそフランス革命の「成果」でした。
フランス人が手にしたのは何だったのかといえば、近代世俗国家でした。なぁ~んだ、と言わない。大変な犠牲の上に勝ち取ったものなんですから。 
フランス革命の犠牲者数が約200万人。革命当時のフランスの人口が約2500万~2600万人といったところですから、実に1割を殺したことになります。
大量処刑と虐殺が横行し、ヴァンデ、リヨンのように王党派に属したために、街ごとすり潰されてしまった地域すらあります。
フランス革命は「自由・平等・友愛」という標語を掲げましたが、この<自由>とは、あくまでも「宗教からの自由」のことなのです。

ここにパリ五輪開会式になぜキリスト教冒涜が登場したかの意味があります。
この「宗教からの自由」こそがフランス国家の本質であって、後に来るふたつの「平等・友愛」は、これを理解した者に対してのみ平等と友愛を保証します、という意味です。
フランスに移民を希望する人間は、この「宗教からの自由」を理解したことを宣誓してのみ帰化が認められます。 
ですから、シャリルの編集者を殺戮したテロリスト兄弟の両親もアルジェリアから帰化する際に、「宗教からの自由」を国に対して宣誓して入国したはずです。

ところで、そう言えば思い出したのですが、かつてテロを受けたシャルリ・エブドの社屋は、あの革命の聖地・バスティーユの裏にあります。 
今はオベラ・バスティーユ(新オペラ座)になっていますが、シャルリにとっては、あながち偶然ではなく、ひょっとしたら革命の聖地に自分たちの城を作りたかったのかも知れません。 


さてフランスが「フランス共和国」を名乗り、革命国家であることをレジティマシィ(正統性)にしているのは、宗教との分離があったからです。 
革命以前まで聖職者は、貴族と並ぶ特権階級に属していました。そのために共和派にとって、教会は敵そのものであり、聖職者の殺害・追放、教会の国有化と破壊が進みました。

以後、国王、王妃、貴族、僧侶、反革命と目された一般人までもが大量に処刑されていきます。
今回改めて注目された王と王妃の処刑などまったく不要で、ルイ16世は立憲君主制を提唱する開明君主であり王妃にいたっては無関係でした。
しかし王と王妃を無意味に処刑したために、暴力マシーンと化してしまい、最後は急進派内部での殺し合いとなって、穏健派まで処刑しまくりました。
最終的には、テロル政治の親玉であるロベスピエールが、ギロチンで首をハネられて終了しました。
結局、革命指導部ですら最後まで生き残った者がほとんどいないほどの殺戮ぶりでした。

 

 

この絵のキリスト像の上は、「旦那、お休み」と書き換えられて、首を吊られているのは、裁判官、大司教、修道士などです。
三色旗の上に「自由万才」とあり、聖母昇天教会は炎上中です。ガス灯によじのぼってニカニカして僧侶の死体の頭を踏んでいるのはサン・キュロット(平民)です。  
今は観光地として名高いモン・サン・ミッシェル修道院は牢獄となり、ヨーロッパ最大だったクリュニー修道院は他の建造物の石材供給源にされてしまいました。

1801年に、ナポレオンが革命の終了を宣して教皇との和解(コンコルダート)に至るまで宗教への徹底した迫害が続けられました。
それまで僧侶は殺されるか、国外に亡命していたのです。 
ナポレオンがコンコルダートを宣言したのは、国民から宗教を取り上げることが不可能と知ったからです。それにしても宗教を公権力の場から排除するために、いかに巨大な犠牲が必要だったのかわかると、憂鬱になります。
このフランス革命の暗部があまりに大きかったために、フランス共和国は、今に至るも革命戦争の詳しい実態を公表せず、臭いものに蓋を決め込んでいます。
フランス革命とは後に来るロシア共産革命の原型であり、いまにいたるテロル思想の源泉なのですから。
それにしても、革命記念日を巴里祭と言い換え、すべての人類は皆平等だから友愛の心で手をつなぎ合おうというような日本のインテリの解釈のなんと浅いことよ。

「言論の自由」とはフランス人の理解によれば、「一切の宗教に対する非難・冒涜まで含む自由」のことということになります。
一切の公の場から宗教性を排除するだけでは止まらず、宗教に対してなにを言ってもよい、侮辱しようと貶めようと揶揄しようと自由だ、これがフランスの考える<自由>です。
そしてこの<自由> 原理主義の先に現れた最新の思想こそがLGBTQである以上、それの欲するままに祝祭を支配させ、公然とキリスト教を冒涜して見せたのです。
まことに人間の本質に反した非合理な原理主義、あるいは急進主義です。
殺害した王妃の死体に歌わせ、最後の晩餐をLGBTQに侮辱させ、蒼ざめた馬を疾駆させる、これがフランスだとマクロンは言っているのですから。

 


世界の愚民の諸君、これがLGBTQこそが民主主義の最新モードなのだ、トレビアンだろ。
文明の遅れている国々よ、早くこの最新モードを取り入れたまえ、そして共に宗教と性別の壁を嘲ってやろうではないか、と。
これがフランスの開会式に込めたメッセージです。」

(引用終わり)

 

素晴らしい批評ですね。

ありんくりん氏、こんなにも素晴らしい分析ができるのに、ウクライナ戦争については西側のプロパガンダを鵜呑みにして全く真実を知ろうとしない、いやできないのは何故なんでしょうか。不思議です。