今回の都知事選は最初から糞を選ぶ究極の選択となったので、関心の度合いが薄れていたが、立花孝志の掲示板ジャックによって、話題が俄然こちらに集中してしまった。

 

 

その掲示板ジャックも千差万別で全裸あり、犬あり、役所批判あり等々でそれなりに目を引くが、本当は立花孝志は何をしたいのかよくわからない。

 

Total news worldさんの記事より

 

黒いポスターには「国土交通省!」と書いてあるらしい

 

立花本人はビジネスと言っているが、一時期の立花の「NHKをぶっ潰す」はその主張に賛同する者が多かったが、その後の立花は NHKのことはそっちのけで、単に政治を「炎上」させることに熱中して、何のためなのか、目的が分からなくなった。

しかし、世の中には「騒ぎ」「炎上」をこよなく愛するバカ者が多くいるから、今後立花が何を仕掛けてもそれなりの支持を獲得していくだろう。

マイナーなところで騒ぐのは勝手にすればいいだけの話だが、それでは「炎上」しないので、ふつうやらないところで既成秩序の破壊行為(法に触れない範囲で)をしてくる。

 

例えば今回の掲示板ジャックなどは、普通の感覚では「実行」はしない。それを「実行」してしまうから、普通の市民から顰蹙と反感を買うのである。

しかし、立花はその市民の反感を買うことを目的にしている(これが炎上商法だ)から、通常な反論は意味がない。

立花は言う。「非常に大きな問題提起ができた。大成功だと思っている」

そういう意味で立花孝志は「悪党」といってしかるべしだろう。

立花は「ポスター掲示場が無駄だ、無駄だと何回言い続けたことか。秋の臨時国会では掲示場に関する法改正が出てくるだろう」との見解を示した。」とのことだが、そんなことは嘘だろう。立花が「ポスター掲示場が無駄だ」なんて主張は誰も信じない。

 

 NHK党ではなく「悪党」立花孝志

確かに立花の言うように「掲示場に関する法改正が出てくるだろう」。そうしないと、立花は大きな選挙があればこういうバカげたことを何回も繰り返すはずだから。

「法に触れないから何をしてもいい」という言い方はよくされるが、これに対し「法に触れないから何をしてもいいってもんじゃない」という反論がある。

後者の方が絶対に正しいのだが、現実は「法に触れないから何をしてもいい」が勝つのである。そして遅ればせで規制の法律が作られる。

 

この掲示板ジャックに法的規制がないから手が出ない、というのを聞いた時、40年も前の昔の本に「アメリカに、「ライオンを連れて劇場にはいるな」という法律がある」を思い出した。

経済人類学者栗本慎一郎「パンツをはいたサル」である。

栗本氏は脳梗塞を患ってから一線を退いてしまったが、昔は朝までテレビに出たり、自民党議員になったりと活躍していた。私も直接喫茶店で話をしたことがある。

 

その本にこう書かれていた。

法律という名のパンツ

アメリカに、「ライオンを連れて劇場にはいるな」という法律がある

法律は、人間にとってやっかいなパンツである。
上は憲法から、下は○○市条例、広い意味では学校や会社の規則まで、私たちの生活にはクモの巣のように法律や規範(暗黙の了解)、命令の網がかぶせられている。 

小は交通違反、軽犯罪から、大は殺人罪に至るまで、法律は人間のありとあらゆる行動に網を張り、それぞれに「罪」と「罰」を規定している。そして、いわゆる近代国家、先進国になればなるほど、それは煩瑣で膨大な体系を誇っている。

言うまでもなく、タコやエビの国には、軽犯罪やわいせつ罪はない。人間だけが、どうしてこのような網の目のパンツをはくようになってしまったのか。本章では、この「法律という名のパンツ」について考えてみることにしよう。
 まずもっとも具体的で、法律の本質に迫る問題からはいっていきたい。何かと言えば、とても法律とは思えない愚かな法律の話である。笑ってはいけない。愚かさこそ、人間が作った法律の本質なのだから。ここでは、法体系の整った「先進国」の代表としてアメリカの法律の数々をご紹介しよう。

たとえばコネティカット州法では、
「公園のベンチでアベックが座るとき8インチ離れなければならない」
という命令があるという。西部劇で有名なカンサス州のウィチタ市では、 

「ウインドー内でマネキン人形を着かえさせるとき、人形の裸が公衆の視線に触れると風紀紊乱になる」
ことになっているという。また、コネティカット州ハートフォード市条例では、
「なにびとも逆立ちで道路を横断すべからず」
とある。きっとだれかがやったにちがいない。「ただし、スカートをはいた女子学生は除く」とか「ブスはやはりしてはならない」とつけ加えておいてくれるとよかったのに……。
メリーランド州ボルチモア市では、

「劇場にライオンを連れてはいることを禁ず」
という条例があるらしい。もちろん、だれかが実際に連れてはいったから、禁じなくてはならなくなったのだ。

(トラ注:日本ではこれから選挙ポスター規制法に「全裸ポスターを掲示してはならない」とか「犬の写真だけを掲示してはならない」と書かれるだろう。)

このことは、法律の本質をよく表現している。あとでくわしく述べるが、法律(成文法)はある集団(国家、共同体、学校、会社、党派、暴力団、暴走族等々)が、内部に自然に持っている規範から外れる奴を抑えるためにできるものだ、ということである。逆に言うと、外れる奴がいないと法律はできない。ここではそれだけを確認して、おもしろいからもっと引用してしまおう。
・ケンタッキー州法―妻の祖母と結婚することは許されない(母ではない。祖母なんですよ。なんというおぞましいことか)。

・ネブラスカ州オマハ市―理髪師は、客の要求によろうとも、胸毛を剃ることを禁ず。

(中略)

ここまでは、人間様のことだから、まだよいのだ。法律は、ついにその権限を動物の世界にまで及ぼす。

・オクラホマ州ショーニー市―私有地においても、イヌは三匹以上で会合してはならない。
・ミネソタ州インターナショナルフォールス市 ―ネコはイヌを電柱に追い上げてはならない(イヌがネコを、ではない。ネコに対して禁じているのだ。ネコの学校で教えねばならないが、そもそもネコはイヌを電柱に追い上げられるのだろうか?)。

そして、ついに出ました。法律の本質をある意味で徹底的に明らかにするものが。

・カリフォルニア州ソーサリート市―市の風紀指導委員会の許可なくして、酔っぱらうことを禁ず(酒がまわっていい気分になりかけたら、いったん理性でストップしたうえで、委員会まで許可証をとりにいかねばならないらしい)。
いかがですか。言ってみればの話だが、かなりアメリカも遅れていますな。ちなみに、なぜアメリカにこんなアホな法律が多いかというと、アメリカが異文化混淆社会だからである。異なる価値体系(文化)を持つ集団が集まって社会を作っているから、奇妙な法律が多くなるのだ。異文化のあいだでは、暗黙の了解など成り立たない。その結果として、愚かな法律が大量生産されるのである。

 

(トラ注:多様化社会を理想として推奨する者よ。この数行を熟読玩味してほしいものだ。

また、日本がハイコンテクストで遅れていると言いなす者も世界を見わたすべきだ。日本だけでなく、異文化混淆社会でなければどこもアホな法律など作っていないことが想定されることを。)

(中略)

異文化が重なるところに「法」はできる
さて、それではさきのアメリカの法律を思い出していただきながら、法律の本質について考えてみよう。
 まえにもふれたように、法とは社会の集団的規範が崩れ、その社会の構成員が思いがけない行為をやるから、それを抑えるために生まれるものである。もともと、ヒトの社会には暗黙の了解としての規範だけが存在した。
それは、上は「人間の肉を食べてはいけない」から、下は「人のものを盗ってはならない」に至るまで、それぞれの特定の文化状況と特定の社会関係のなかで、言わなくても暗黙に了解されてきたものだ。いまでも近親相姦や食人の禁止は、暗黙の了解としてはっきり残っており、これは通常は言わなくても了解されている。

つまり、あまりに当たり前だから、日本国憲法には「父親の肉を食ってはならない」とは書かれていない。

(トラ注:だから選挙ポスター掲示版に全裸の写真を貼ってはいけないことは皆承知している。当たり前だが。言わなくても暗黙に了解されてきたものだ。法とは社会の集団的規範が崩れ、その社会の構成員が思いがけない行為をやるから、それを抑えるために生まれるものである、ということは、悪党である立花孝志という男とその仲間(賛同する者たち)に日本社会の集団的規範が崩れたことを示しているのだ。法以上の問題を犯しているということだ、立花って悪党は!)


それでは、書かれていなければやっていいのかというと、これはもちろんいけないのである。

それが、いわゆる「タブー」であって、いわば全人類に共通のものだが、その下のレベルにある各文化に固有の内部的了解は、近代社会に至る過程で崩れてきた。

ひとつの社会に、別の社会の価値体系が重なり合えば、ある人間には当然許されるものが、他の人間には鬼畜のごとき行為と映るからである。
(トラ注:おそらく立花孝志は今後エスカレートして法に触れなければいいとばかりに、「タブー」破りに果敢に挑戦していくのではないか。まさに鬼畜のごとき行為を。)
 

メリーランド州ボルチモアの例で言えば、まちがいなくだれかが当然許されると思って、ライオンを連れて劇場にはいったのだ。本人は平気だったし、ライオンもちゃんと座席でおとなしく画面を見入っていたのに、後ろの座席の男が前が見えないからと怒ったのにちがいない。

「このバーロー、少し頭を引っ込めろッ!それから、床屋に行ってこいッ!」

と怒鳴ったところ、オスのライオンが「ン?」と振りむいたのだ。男はきっと「ア、すいません」と言ったにちがいない。そして、くやし涙にくれながら、これは個人の力でなく、絶対に法で禁止すべきだと思ったから、条例となったのである。たぶん反論もあって、メスライオンなら画面が見えるから許してやってほしいとの嘆願書も出たかもしれない。

もちろん私たち日本人は、ライオンを連れて劇場にはいることは許されないと思っているが、どこか違う文化園には、許されると思う人もいると仮定できるかもしれないのだ。 趣味だからといって、密集した住宅地の真ん中でライオンを飼う人もいるのだから(そのために各県でペット条例ができた)。
(トラ注:ライオンを連れて劇場にはいることは許されると違う文化園から来た人間がいたのだろう、と同様に、選挙ポスター枠を金で売って全裸ポスターを貼らせるという、日本人とは思えない文化圏出身の悪党が立花孝志なのである。)


異なった文化というのは、実にまったく違うものだ。

暗黙の了解が崩れるところに、法はできる。逆に言えば、異質の文化が重なり合わなければ、法はできない。だから当然のことながら刑罰をともなう法は、文化と文化が重なって、それがひとつの社会のなかに持ちこまれたときに発生するものなのである。

そして、抑えこんでいるほうの文化が、抑えこまれているほうの文化の、自由な発露を処罰する。だからこれは、教条的左翼が言うような、抑えこまれているほうに形式的に同情すれば“解決”する性質のものではない。
(中略)

法は「人間の本性」がはいたパンツである
 さて、最後に、ヒトの社会にとっての国家、国家にとっての法の意味を考えて、この章のまとめとしよう。
最近は社会科学でも「権力論」はずいぶん変わってきた。たとえば、フランスの社会学者ロジェ・カイヨワあたりの権力論は、階級だの、差別だのと口走ればよい、と知的怠惰をきめこんでいる輩を痛撃する。

彼の権力論は「権力形態は、社会全体が持っている共同体深層の無意識によって決められている」というものである。私も賛成だ。
たしかに、よく言われるように、国家は強制と反動の道具だが、たんにそれだけではない。国家は、その構成員の共同幻想のかたまりととらえるべきだ。国家は、自らの幻想を維持するために、内部でそれを破ろうとするものがあれば、それを抑えるために法を作り、文字で補強したりするということだ。逆に言えば、内部によそ者(例外者)がいなければ、成文法もいらず、文字もいらない。だから法とは、つきつめて言えば、共同体成員大多数の敵意の表現である。このことは、第二章でふれたエントロピーの理論からも説明できる。

(中略)

法はヒトの本性までは、裁けない。法は遅れ遅れて、ヒト社会の哀しき秩序を求めるのである。
だから、法とは<裁く>ものではなく、<処する>ものだ。ジル(トラ注:少年を大量に殺した青髭ジル・ド・レ侯爵のこと。バイデン夫人のことではない。)は大向こうの受けを狙う裁判批判などやらなかった。サドもである。
ヒトの自然の本性とは、それをそのまま、まったくフリーに発露させたら、ヒト社会全体の死にもつながるような恐ろしいものである。だからヒトは、法律というパンツをはいているのだ。 涙を流したジルは、きっとそれに気がついたのである。
私は、泣いているジルの肩を抱いて、「よくよく気持ちはわかるぜ」と言ってやりたかった。「よし、よし、今度は日本に生まれなよ」とも言ってやればよかった。え?? 困る? そうか。」

(引用終わり)

 

「ヒトの自然の本性とは、それをそのまま、まったくフリーに発露させたら、ヒト社会全体の死にもつながるような恐ろしいものである。だからヒトは、法律というパンツをはいているのだ。」

これを書き換えると

「立花孝志の自然の本性とは、それをそのまま、まったくフリーに発露させたら、ヒト社会全体の死にもつながるような恐ろしいものである。だからヒトは、法律というパンツをはいているのだ。」

となる。

立花孝志には、早急に<裁く>のではなく、<処す>ことをしないといけない。日本社会全体の死につながる前に。

東京都知事選で掲示板ジャックは、法の本質を考えさせる出来事であった。