来週からの臨時国会は、学術会議任命拒否問題で大荒れしそうだが、ほんの些細なことに狂ったように騒ぎ立てるのはそれなりに理由があるだろう。
表向きの学問の自由を守るとか権力による弾圧に反対するとかの理由は単に取って付けたようなもの。真の理由は、科研費削減への恐怖、学術会議という共産党支配組織の防衛そして桜を見る会のような政局化等であろう。
左翼としては、少し騒げば簡単に落ちると思っていた任命拒否問題に、これまでは意外にも菅首相が頑張りそうなので、左翼総動員で徹底して戦おうと決めたようだ。
ただ、安保法制反対のような国民の支持を得る大義名分があまりにも少ないので、反対理論が、決定までの技術論か権力抑圧で文句をいうことしかなくなったので、反対論がヒトラーやポルポトを持ち出すというトンデモな左翼発狂拡声器を呈している。これじゃ国民は支持しないな。
まずヒトラーを持ち出したのは、最初からバカとみなされていた立命館大教授の松宮だ。
「ナチスドイツのヒトラーでさえも全権を掌握するには、特別の法律を必要としましたが、菅総理大臣は現行憲法を読み替えて自分がヒトラーのような独裁者になろうとしているのか」
といったとか。こんな奴は学術会議任命拒否されて当然だろう。
ネットの声で知ったのだが、気に入らない奴をすぐヒトラーを持ち出すバカのことを「ヒトラーに例える論証」とか「ゴドウィンの法則又はゴドウィンのヒトラー類比の法則」というらしい。
ヒトラーに例える論証
この論証は、ある政策や事柄がアドルフ・ヒトラーや第三帝国が実施や提唱したものと、同じまたは関連していることを持ち出して、元の事柄が望ましくないものであると「証明」するものである。
ゴドウィンの法則
1990年に弁護士のマイク・ゴドウィンによって提唱された。ゴドウィンの法則またはゴドウィンのヒトラー類比の法則は、議論が長引き、相手の意見が受け入れられないときなどに、その必要がないにもかかわらず恣意的にヒトラーやナチス、ファシズムを引き合いに出し、他者を攻撃する行為である。
根拠なく誇張され不適切に貶めた比喩であることがほとんどであり、議論の中で用いるべきでない手法である。
この類比が持ち出された時点で不利な状況を打破しようと悪人を引き合いに出しているだけであるとして、その議論や対話が打ち切られることもしばしばある。
ゴドウィンは2015年12月に、当時の米国の共和党の大統領候補者であったドナルド・トランプをナチスやファシストになぞらえる議論について、こうコメントした。
「もしあなたが十分に思慮を重ねた上で、本当に歴史的観点からの気づきを促せるのなら、トランプであれ他の政治家であれ、ためらうことなくヒトラーに言及すればいい」。
(引用終り)
松宮という男は法学者(刑法)を名乗っているらしいが、本当か。自称ではないのか。知性が全く感じられないんだが。
ゴドウィンの法則の法則によれば、「相手の意見が受け入れられないときなどに、その必要がないにもかかわらず恣意的にヒトラーやナチス、ファシズムを引き合いに出し、他者を攻撃する行為である。
根拠なく誇張され不適切に貶めた比喩であることがほとんどであり、議論の中で用いるべきでない手法である。」と適切に解説がなされており、松宮がやっていることはまさに「その必要がないにもかかわらず恣意的にヒトラーやナチス、ファシズムを引き合いに出し、他者を攻撃する行為」であり、「根拠なく誇張され不適切に貶めた比喩である」だろう。
学術会議会員をたかが6名拒否したことをもって、菅首相を「ヒトラーのような独裁者になろうとしているのか」と貶めるのは法学者としてやることなのか。
いや間違った。この男は学者でもなんでもないからこういうバカなことを言うのであった。学者ならさすがにこんな恥ずかしいことは言わないだろう。
任命拒否されたのは、不徳の致すところ、と反省する方が先だろう。
さて、このゴドウィンの法則を証明する男がもう一人出た。映画監督の森達也だ。この男は、映画監督というより、被害者より加害者(殺人犯)を大事にする死刑廃止論者で有名だ。
森の著書「死刑」へのamazon書評に
「犯罪の時点では加害者=強者であり、被害者=弱者である。ところが加害者が死刑囚になった途端、死刑囚=弱者、執行者(国)=強者という逆転が起る。朝日的な価値観でいくと弱者=正義、善であり強者=悪である。どうも作者のベースにこういう臭いがしみついているせいか内容的には大変充実しているのに読後感が非常に胸くそ悪いものになっている。このむなくそ悪さの直接の原因のひとつが作者のバランス感覚の欠如。やはり遺族の言葉をもっと聞くべきだろう。死刑囚に感情移入できるのだったら、なぜ遺族にも感情移入しないのか。あれだけ凶悪犯たる死刑囚に愛情を注ぐのだったら、どうして殺された人たちにも愛情を注がないのか。」
と書かれていたが、まさに全てを反権力でものを見る、つまり左翼理論では殺人者は反権力者と位置づけられているからだ。森達也とはそんな左翼のひねくれ者監督である。
そんなひねくれ監督が任命拒否問題でカンボジアでの虐殺者ポル・ポトを持ち出す。野党合同ヒアリングにて。
「…ここまで露骨にやるのか。あけすけなのか。何ら抑制もない。隠そうともしない。理由を聞かれても答えない。誤魔化せよ、と思うが、それすらもない。胸を張ってやっている」と怒りを顕にする森氏。
アカデミズムに対する政権の介入は安倍政権以降、露骨になってきて、菅義偉首相はそれを踏襲していると批判した。森氏は、大学や研究への補助金が削減され、政府の意向をくんだ研究に予算をちらつかされ惹かれてしまう中、大学人は踏ん張っていると評価。その象徴的な日本学術会議は重要であるにも関わらず、そこが標的にされたので危機意識を持ったという。」(取材・文/及川健二 以下同じ)
「大学や研究への補助金が削減され」というのは確かにその通りだろう。緊縮財政の犠牲だ。しかし、そんななかで、学術会議という権威を活用して科研費をふんだくってくる山口二郎のような左翼学者については知らん顔だ。それを鋭く追及する杉田水脈議員が必要以上にバッシングされる所以だ。
「…映画人たちが声をあげた理由として、森氏は「弾圧の歴史があるからです」と述べ、まず、アメリカで60年代に吹き荒れたレッドパージ(赤狩り)をあげた。
「共産主義的なもの、共産主義に親和性の高いものがどんどんパージされていった。そして、マッカーシズムに行き着いた。学者などがやり玉に挙げられた。とくに標的にされたのは影響力のあるハリウッドです」と述べた森氏。たくさんの映画監督、脚本家、プロデューサーが証人として議会に呼ばれ、共産主義と関わりのないことを宣誓させられ、拒否したものは職を追われたという事例を紹介。
「日本にも赤狩りがあった。たくさんの映画人が職を追われた」と述べ、それらの負の歴史があるからこそ、映画人は立ち上がったのだと説明した。」
森は「弾圧の歴史があるからです」と簡単に述べるが、その背景については全く言及しない。まあ仲間の悪口は言えないだろうが、それならば森の言い分は半分は嘘と言うことになる。
つまり、米国のマッカーシズムにも理由があり、コミンテルンの指示の元、アメリカ共産党員が国家組織に大量に入り込み、スパイし、ハリウッド映画界はスターリンのソ連の共産主義礼讃の映画を作った。共産主義者がプロパガンダの手段として映画を大切にして利用してきたことは周知の事実である。
そしてソ連が崩壊して共産主義が否定されてもまだシンパシイを持つ森達也のほうがおかしい。
「「日本にも赤狩りがあった。たくさんの映画人が職を追われた」と述べ、それらの負の歴史があるからこそ…」と森は言うが、これも日本のレッドパージがなぜ起きたのかについて全く説明しない。
1950年当時の日本共産党は、コミンテルンの指示のもと、日本で暴力革命を起こすべく行動を起こしていたのである。それを取り締まるのは当然のことであろう。
森のいう「負の歴史」とは、日本映画界が権力によって弾圧されたことを言いたいようだが、本当は、映画界が共産党の暴力革命に加担していたということこそ「負の歴史」というべきだろう。
「ポル・ポト派の愚民化政策にも酷似
次に6人の任命拒否と重なったのは、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)によるカンボジア大虐殺だと森氏は語る。
「一説では、国民の3分の1が虐殺されたと言われている。クメール・ルージュがまず標的にしたのが、アカデミズムの人たち。大学の教員、大学生、高校の教師…。範囲はどんどん広がり、最後には文字を書ける人、眼鏡をしている人までが殺された」と述べ、知識層の虐殺は政府にとって都合の悪い知識はいらないという愚民化にあったと解説。「今考えると馬鹿じゃないかということが、ほんの40年前に行われた」と批判した。
最後に森監督は「人間は馴致能力がある。つまり適応能力が強い。今はゆでガエルの温度が5℃上がった状況。それに慣れてはいけない」と警告を発し、報道が少なくなってきた学術会議の問題を今後も粘り強く取り上げていくことの必要性を語った。」
(引用終り)
森達也は最後にポル・ポトの虐殺の例を出している。たかが6人の任命拒否に対して、当時のカンボジアの人口の約20%である約200万人が犠牲になったと言われているカンボジア大虐殺と同じだとトンデモない比較を持ち出している。こういうところが左翼の異常さが如実に表れているところなのだが、これもゴドウィンの法則の例だろう。
「その必要がないにもかかわらず恣意的にヒトラーやナチス、ファシズムを引き合いに出し、他者を攻撃する行為」であり、「根拠なく誇張され不適切に貶めた比喩である」
森はヒトラーでなく、ポル・ポトを持ち出した。全く「根拠なく誇張され不適切に貶めた比喩である」のだが、端なくも森は共産主義の残虐性を思わず皆に訴えてしまった。
「菅首相のやったことは、ポルポトの大虐殺のようなものだ」と。しかし、よく考えれば、ポル・ポトは森が信奉する(していると思うけどね)共産主義者だ。つまり「共産主義者は、こういう大虐殺を平気でやってしまうんですよ、恐ろしいですよ、共産主義者は。」と言っているも同然なのだ。
しかし、菅首相が大虐殺をやったというなら、ポルポトでなくてもいいのに、なぜポルポトを選んだのか。共産主義国家の大虐殺で有名なのは、スターリンの大粛清、毛沢東の大躍進と文化大革命による大粛清、そして北朝鮮の金正日・正恩親子の粛清だ。
なぜスターリンや毛沢東を持ち出さなかったのか。
森は「クメール・ルージュがまず標的にしたのが、アカデミズムの人たち。大学の教員、大学生、高校の教師…。範囲はどんどん広がり、最後には文字を書ける人、眼鏡をしている人までが殺された」
ということが言いたいらしい。学術会議という学者団体の弾圧はクメール・ルージュに通ずると。しかし、共産主義者はポル・ポトだけでなく、ソ連も毛沢東も学者や知識人を弾圧したではないか。それなのにポルポト?それは、日本国民はポルポトのことを余り知らないはずだと高をくくったのではないか。
スターリンや毛沢東の虐殺と比べるには生々しくてモロ共産主義の残虐性が浮き彫りにされてしまいそうなのでポル・ポトにしたのではないか。
もう一つ言っておけば、森の言う反体制運動つまり日本で革命が成功して共産主義国家になれば、当然ソ連、中国、カンボジアのように知識人・学生の大弾圧・大粛清は躊躇なく行うであろうことである。共産主義国家の歴史が証明する。
「最後に森監督は「人間は馴致能力がある。つまり適応能力が強い。今はゆでガエルの温度が5℃上がった状況。それに慣れてはいけない」と警告を発し…」
と言ったそうだが、それは世界はプロパガンダ戦争であるという宣言をしているのに等しい。つまり、左翼の宣伝をいくらしても、人間は馴致能力がある、政府の言い分に騙される。たとえそれが真実であるにしても。政府の言うことは聞いてはいけない。ネットに流布される反左翼の言い分を聞くな。これからも左翼の宣伝活動は徹底的にするからな、という宣言である。
いやはや、たかが6人の学術会議任命拒否問題が大げさになったものである。これを許すと独裁政治となり、ポルポトの大虐殺が再来すると。妄想もここまでくると、その左翼の異常性に嗤うしかないが、左翼というものが如何に恐ろしい存在かということはいやでも示してくれたことに礼を言わねばならない。
果たして来週からの臨時国会は?大荒れで審議拒否が目に見えている。左翼の異常性を国会でぜひ明らかにしてもらいたいものだ。