砂漠で水が欲しい時、神にすがって水をたのむのか?
それとも井戸の掘り方を学んで自力で穴を掘るのか?
結局は自分の宿業は自分で乗り越えるしかないのです。
では、周りはどうするのか?旗を振って応援する。
これしかない。そしてこれが最善。
しかし、その旗の振り方がわからない。
僭越ではありますが御書、とくに御消息文は、
鎌倉時代当時、社会の底辺に属する名もなき門下が、
その宿業に泣き苦しむ姿に対してどこまでも相手に寄り添い
大聖人が渾身の激励指導を重ねた記録だとも言えます。
また、新・人間革命、聖教新聞に掲載された体験もまた現代において、
宿業、宿命を乗り越えた記録とも言えるのではないでしょうか。
しかし、励ますと言っても何をどう言えばいいのか?
迷うところだと思いますが、とにかく聞いてあげることが大事。
撰時抄には(だったか?)倒れて大地に伏しても、
その大地に手をついて立ち上がるとあります。
私達、学会員は大聖人や三代会長の指導から、いろいろと周りの人々を
応援するエールを送るすべを学んできました。
それをどうか困っている友人に、悩んでいる眼の前の一人に、
手を差し伸べるべきではないだろうか?
願いとして叶わざることなしの御本尊であります。
どうか自分一人の功徳を願うのではなく、目の前の一人に対して、
渾身の激励として心に届くよう祈ることも大切ではないでしょうか?