<質問>
自分の力ではとても解決できないような大きな悩みをかかえて困っています。
信心していけば解決の方法がみつかでしょうか。
<回答>
信心していても現実に大きな悩みにぶつかると悩みにうちひしがれてしまい
唱題する気力もなくなりただ「どうしたらいいだろう」と方法論ばかり考えたり
「どうにもならない」とあきらめに支配され、
悲観的になって落ち込んでしまいがちなものです。
しかし、もうどうにもならないからこそ、「信心しかない」と決めて立ち上がるしかないのです。
戸田先生はよく言われました。「人間だれしも絶望的になる時もある。
しかし、それに耐えて乗り切ってしまえば、後になればなんでもないものだ。
いわんや妙法を唱えている人は、長い人生のうえからみれば、
すべてが変毒為薬される。
ゆえに何も心配しないで、信心強盛に生き抜いていくべきだ」と。
「どうしたらいいのだろうか」と考えて、解決する方法があればやればいいのですが
方法が無いから困っているのでしょう。
「困った、どうしよう」方法論ばかり考えているのは、悩んでいるのではなく、
「困って迷っている」のです。
努力や方法で解決しないのなら、もう信心で解決するしかないと
決めて祈っていることが信心で「悩んでいる」ことになるのです。
池田先生は「全部、自分自身で決まるのです。もしも心のどこかに、
『自分だけは幸福になれない』、『自分だけは人材になれない』、
『この悩みだけは解決できない』と決めつける一念があれば、
その一念の分だけ功徳を塞ぎ止めてしまうのです」と話しています。
信心していながら「この悩みだけは解決できないだろう」と自分が決めつけると、
御本尊不信になるので、功徳が出なくなり、悩みは解決できないのです。
また「長い間不幸になれた人には、あきらめが身についてしまっている場合がある。
しかし、妙法だけはあきらめる必要のない法です。
自分なんかと卑下するのは、自分の仏界への冒涜であり、ひいては御本尊への冒涜に通じる。
この悩みだけはどうにもならないと決めつけるのも同様です。
また、この人はだめだ、この地域だけは、だめだと初めから決めつけてはならない。
そういう場合こそ祈ることです。
結果が出るまで具体的に祈り、そして動くことです」と指導しています。
妙法とは不可思議の法であり私たちの考えの及ばない無料の功徳力があるのです。
ですから、たとえ、どのような大きな悩みであっても、解決しないだろうなどと
あきらめる必要はないのです。
そう決めつけることは御本尊不信になるので、どんなに唱題し、活動に励んでいても
悩みは解決しません。
御本尊の大功徳を確信して、必ず悩みを解決して幸せになれる、との
ゆるぎない希望を持ち続けることが信心なのです。
日蓮大聖人は「いかなる世の乱れにも各々をば法華経・十羅刹助け給えと、
湿れる木より火を出だし、乾ける土より水を儲けんがごとく、強盛に申すなり。
--どのように社会が乱れても、あなた方のことを、法華経(御本尊)と十羅刹
(諸天善神)に助けてくださいと、湿った木から火を出すように、
乾ける土(砂漠)から水を湧き出させるように、強盛に祈っています。
(呵責謗法滅罪抄)1539 と仰せになっています。
この御文は御自身が佐渡流罪中という厳しい状況の中で、四条金吾等の信徒を
思いやる大聖人の大慈悲を示していますが、御本尊に対する祈りというものは、
困難な状況の時には、このような一念でなければならない、と教えてくださっている
とも拝されます。
つまり常識では湿った木は燃やそうとしても燃えませんし、
乾いた砂漠はいくら掘っても水は出ません。ぐっしょりぬれた木を燃やしてみせる
乾ききった砂漠のような大地から水を出してみせるという強い一念で
御本尊に祈っていくことが大切で祈りが強ければ必ず叶う、ということを示されているのです。
つまり「不可能と思えることも、可能にしていこう」というのが「強い祈り」であり、
その祈りは必ず叶うのです。
池田先生は「世間の人々の常識では、とうてい不可能と思いこんでいることを
可能にする力が、御本尊にはあるのです。
ただ、あきらめて不可能と思っている人は、妙法の力を知らない人たちです。
すべてを可能にする人は、その妙法の力を引き出すことのできる人です。
「無量の力を御本尊は秘めていることを大聖人は明確に教えていらっしゃる。
これを信ずるか信じないかは私たちの問題です。」
「まずは強情な祈りによって不可能を可能にする実践が、勇んででてこなければなりません」と
話しています。
また、「心からの願いは必ず叶えられます。不可能だと思えば、そう思う一念によって
可能なものまでも不可能になってしまう。
必ずできると確信すれば、すでに実現に一歩近づいているのです」とも。
大きな悩みにぶつかったり、困難な状況になった時こそ、
絶対に信心で解決しようと決めて、「無理だからこそ」「無理を承知で」------
御本尊に「もう他に方法はないので解決してください」と強く祈ることです。
その一念が強ければ「不可能と思えたことも可能に」なって、願いは叶うのです。
「どうせ無理だろうな」と思いながら祈ったのでは「御本尊不信」になるので、
叶うわけがありません。
日蓮大聖人は「経王御前には、わざわいも転じて幸いとなるべし。
あいかまえて御信心を出だし、この御本尊に祈念せしめ給え。何事か成就せざるべき
---経王御前には災いも転じて幸いとなるでありましょう。
いよいよ信心を奮い起こして、この御本尊に祈念していきなさい。
何事であれ叶わないことはありません。(経王殿御返事1633)と仰せです。
信心するということは「悩みがなくなる」ことではなく、
「悩みに負けなくなる」ことであり、
「どんな悩みも乗り越えられて、幸せになっていける」ということなのです。
「災い—災難や不幸」を転じて、「幸い--幸福」になっていくための信心なのです。
ですから、悩みが起きたら「宿命転換」をするチャンスであり、二度と同じことで
悩まなくなるチャンスであり大功徳を受けるチャンスだ—と受け止めて、
勇んで信心に励むことが大切なのです。
池田先生は「競い起こってくる苦難はすべて私どもを成仏へと導いてくれる
宿命を転換し、幸福の人生を開いていく『縁』ともなる。
そうしていってこそ、強情な『信心』である。仏法では『変毒為薬』と説く。
苦しみの『毒』を喜びの『薬』に変える力が生命には本来ある。
その生命の力をかぎりなく引き出し、証明していくのが信仰者の人生の
ドラマなのである」と話しています。
苦しみや悩みが起きたらチャンス—ピンチがチャンス--なのです。
また、日蓮大聖人は「妙とは蘇生の義なり蘇生と申すは、よみがえる義なり。
--妙とは蘇生という意味である。蘇生というのはよみがえる<生きかえる、
失っていた活力を取り戻す>という意味である。」(法華経題目抄)541 と仰せです。
弱った生命を蘇生させ失われた生命力を取り戻させ、どんな困難でも乗り超えて
幸せになっていく力を奮い起こさせるのが「妙法」の偉大な力です。
悩みに負けている時というのは、生命が弱くなっているのですから、
信心によって生命を蘇生させ強くするしかないのであり、
それには「信心で生命を強くして、この悩みを解決しよう」と強く決意して
祈ることなのです。
池田先生は「妙とは蘇生の義と説かれる。つねにみずみずしき生命の息吹で
あらゆる行き詰まりや限界を超えて、新しき創造の道を開く。勝利の道を開いていく。
--それらの力はすべて『信心』に含まれている。
ゆえに『信心』だけは強く、また強くあれと重ねて申し上げておきたい」と話しています。
「信心していればなんとかなる」のではなく、信心が弱ければ悩みに負け
宿命に負け、環境に負けてしまうのです。
信心が強いとは「信心を根本にこの悩みを解決しよう」という決意が強く固いことであり
「この悩みをいつまでにどう解決しよう」と具体的な目標を決めて祈ったうえで
智慧と生命力を発揮して最大の工夫と努力を続け、結果が出るまで
挑戦していくことだといえるでしょう。
池田先生は「信心によって偉大な智慧と生命力を発揮して、見事に苦境を
乗り切ってこそ正しく仏法を実践する人、すなわち「世法を識る人」といえるのである。
信心していればなんとかなる、という安易な考え方は誤りである。
信心しているからこそ、当面する課題をどう解決していこうかと真剣に祈り努力していく。
その『真剣』『挑戦』の一念から最高の知恵が生まれる」と話しています。
また、「信心していても病気で悩む人もいる。商売や仕事で苦しむ人もいる。
折伏や公布の活動に苦労する人もいる。いろんな苦しみ、悩みの姿がある。
しかし、その時こそ宿業を転換し、功徳を開いていく一番よいときなのである。
苦難があればあるほどそれを喜んでいける深い心境をもてることが
どれほど幸せなことか。それは妙法への信が深まれば深まるほど分かってくる。
また、そういう人は必ずといってよいほど学会への感謝の心をもっている」とも述べています。
信心していても信心が弱く臆病であれば宿命に負け悩みに負けてしまいます。
ですから、信心だけは強盛でなければならず、
強い一念のみが御本尊に感応して祈りが叶うのです。
「人間革命」の中の昭和二十九年ごろの記述に、
「八方ふさがりでどうにもならないところまで追い詰められ処置のしようがなくなった
困窮状態のなかにあっても絶体絶命であればあるほど真剣な唱題によって
彼らはなんらかの血路をみいだすことが多かった」とあります。
追い詰められて前が断崖絶壁で道が無いように見える場合でも、
向こう側に橋が架かるように必ず前途を開いていけるのが信心の力なのです。
「苦しみは苦しみの人生のまま、悲しみは悲しみの人生のまま、
題目を唱え抜き妙法に照らされていけば、福徳に満ちた自由自在の境涯を開いていける
仏の生命の軌道へと入っていけるのである。
悩みは悩みのまま、苦しみは苦しみのままに自在の幸福の境涯を築いていけるのが
大聖人の仏法であり私どもの信心である」と指導されているように、
ありのままで、ひたすら題目を唱え祈りぬくことです。
何があっても「負けないこと」が信心であり、勇気ある信心がある限り
どんな悩みにも絶対に負けることがなく
最後には必ず勝利の人生を開くことができるのです。