JR上越線の八木原駅。

渋川市南部にあり、駅から西側に榛名山が見え、東側には赤城山が見える。

 

 

 


八木原駅の駅舎。古い木造駅舎が今も健在。緑色の屋根瓦が目を引く。

入口の駅名板は写真では昔ながらの琺瑯引きだが、現在は社名入りのプラスチック製になっている。

2011年10月撮影。

 

 

 

 


八木原駅の改札と窓口。2013年12月撮影。
この当時はみどりの窓口が営業していたが、2017年に閉鎖された。
Suicaに対応する簡易型改札機が設置されている。

 

 

 

 


駅舎につながる1番線ホーム。下り渋川方面が発着する。

2013年12月撮影。

 

 

 

 


駅構内配線は2面3線。画像右から駅舎、下り1番線、退避用の2番線(現在は休止)、上り3番線。
上越新幹線開業前、上越線には特急や急行が多数運行されていた。八木原のような小さい駅には、特急が普通を追い抜く「2番線」を備えた駅があちこちに見られた。

2013年12月撮影。

 

 

 

 


上りホームから渋川方面を見る。画像右にはかつて使用していた貨物用の線路が残っている。

画像奥に見える白い構造物はセメント関連の工場。昔は貨物が出入りしていた。

2013年12月撮影。

 

 

 

 


旧貨物線エリアに残る車止め。雑草に埋もれていた。

2012年9月撮影。
 

 

JR上越線の群馬総社駅。
前橋市郊外にある小さな駅。

国鉄時代からの古い木造駅舎が今でも健在。

2013年4月撮影。

 

 

 

 


改修前の群馬総社駅の駅舎
赤い屋根瓦と社名のない駅名板
現在は屋根が改修され、正面入り口の駅名板は社名入りに新調された

 

 

 

 


地元の人たちの通勤通学に利用されている
駅への出入りは東側のみで駅前も手狭なため、西側にも出入口を設置する構想がある
将来は橋上駅となり東西通路で結ばれる日が来るかもしれない

 

 

 

 


跨線橋から駅構内を見下ろす
左側が駅舎と上り高崎方面のホーム
右側が下り水上方面のホーム
真ん中の空白はかつて追い越し退避用の2番線の跡

 

 

 

 


下り3番線ホーム
まだ115系が現役だった頃
 

 

夜明けの早い時期になると思い出す写真がある。
かつて早朝のJR高崎線には、夜行急行「能登」、寝台特急「北陸」、「あけぼの」の順に通過するゴールデンタイムがあった。1年のうちで撮影できるのは日の出の早い季節に限られているため、高崎線の神保原-新町間の撮影ポイントに午前3時に着き、暗闇の中で場所取りをして、夜明けを待つ。そんなことを毎年繰り返した。
なかでも思いがけない収穫だったのは、2007年6月に撮影した583系臨時列車である。いつものように一番手の「能登」を待っていると、予定通過時刻より前に近くの踏切が鳴り出した。たぶん貨物列車だろうとファインダーをのぞくと、なんと583系が迫ってくるではないか! 早くから三脚にカメラを乗せて構図を決めていたので、貴重なチャンスを逃すことなく撮影できた。

 

 

 



日の出直後、4時30分頃。柔らかな朝日を浴びて快走する583系。後で知ったことだが、この列車は東京ディズニーランド最寄りの京葉線舞浜駅に向かう「わくわくドリーム号」という団体列車であった。


583系の写真はもう1枚ある。

 

 

 


これも偶然遭遇して慌てて撮影した。
2008年1月、上越線上越国際スキー場前駅で特急「はくたか」を撮影していた時、突然583系の臨時列車が通過した。まったく予期していなかったので、正面から撮ることが出来ず、やむを得ず後追い撮影となった。構図もいい加減なので1:1にトリミングした。


583系の撮影は満足できるものではなく、むしろ583系が定期列車として活躍していた時代が懐かしく思い出される。1990年代前半、上野-青森間の寝台特急「ゆうづる」と「はくつる」に乗車した。中段、上段寝台の狭さにうんざりする一方、下段寝台の広さに納得したり、車両のデザインに貫禄を感じたり、何かと癖の強い車両として記憶に残る。
晩年の583系は寝台車としての役目は終え、編成も短くなったが、ともあれ国鉄時代と変わらない姿を記録に残すことができたのは幸いだった。
 

 

若い時に読んで感動した本を、歳を取ってから久しぶりに再読すると若い時とは違う感想が湧いてくる。以前理解できなかった部分がすらすら読めたり、かつて気が付かなかった魅力を発見したり、逆になぜこんな本に夢中になったのかと冷めてしまったり、同じ本の評価がころころ変わる。そのような本の一つに宮脇俊三の「時刻表2万キロ」がある。





「時刻表2万キロ」は、宮脇俊三が会社勤めの傍ら、こつこつと積み上げてきた国鉄全線完乗の記録を綴った名著である。私もご多分に漏れず青年時代に深い影響を受け、全線完乗を目指したこともあった。以来数十年経過し、刻々と変わる鉄道や自分の意識の変化もあり、少し冷めた目で見るようになった。彼の著作への評価が低くなったという意味ではなく、別の角度から再評価し、自分の鉄道趣味の変遷も考えてみたい。



「時刻表2万キロ」との出会い
 

「時刻表2万キロ」を初めて読んだのは高校生の時(1980年代後半)だった。「時刻表2万キロ」で宮脇俊三の名前が鉄道ファンの間に広く知られるようになったのは1970年代後半だから、彼の著作を読みはじめたのは遅い方である。初めの印象は、世の中にはすごい人がいるものだ、壮大な旅行記録だ、いつかは自分も達成してみたいといったところだ。宮脇俊三が羨望の的のように映ったのは、おそらく大方の読者と同じであろう。
「時刻表2万キロ」に感化され、私が本格的に全線完乗を目指したのは1980年代後半で、既に国鉄からJRに移行していた。年齢で言えば、10代後半から20代前半に最も熱心に乗りつぶしをしていた。とはいえ、全線完乗を達成するには相当な旅費と十分な休暇が不可欠である。宮脇俊三以外にも全線完乗を達成した人の体験談を聞くと、旅費の工面や休暇の確保に四苦八苦する様子が伝わってくる。飛びつく人も多いが途中で挫折する人も多い。私もあきらめた部類に入り、全線の90%を超えたあたりで止まってしまった。


何に惹かれるのか
 

宮脇俊三が全線完乗し「時刻表2万キロ」を書いたのは50歳を過ぎてからである。私も50代になり、彼が一躍脚光を浴びた年齢とほぼ同じになった。若い時は宮脇俊三が雲の上のような存在に見え、「時刻表2万キロ」は名著であると固く信じていたが、同年代になってみると、いささか冷めた視点を持つようになり、何もそこまで乗らなくてもいいのにと思うこともある。一方で、やはり「時刻表2万キロ」には捨てがたい魅力が今でも感じられる。つまり年齢を積み重ねて「時刻表2万キロ」の魅力が変化したといえる。
若い時は全線完乗という記録そのものが眼中にあり、何々線に乗った、乗車キロが何キロ増えた、残りはあといくつとか、数字ばかり気にしていた。50代になると、数字を気にするより、「時刻表2万キロ」の文章(行間)に漂う情感や当時の時代背景などが手に取るように浮かび上がり、彼の真似をしなくても著作を読んでいるだけで満足するようになった。また、記録を重視する旅行記でありながら、乗車した証明写真は一切なく、文章と簡単な地図のみであることにも魅力を感じる。現代は誰でも簡単に写真も動画も撮れる。旅先の風景などをSNSに投稿するのは普通だが、「時刻表2万キロ」には視覚に訴えるものは何もない。実録であると同時に想像の産物のように読むこともできる。


全線完乗の意味
 

宮脇俊三の影響を受けていながら、100%にこだわるのをやめてから久しい。震災や水害で廃止になったり、新幹線開業にともない廃止または第3セクター化されたり、鉄道の状況は年々変化しており、何を基準に100%とするか定義が難しい。そもそもJR以外に私鉄も含めなければ全線完乗とは言えない。さらに路線によっては下りと上りで別のルートの区間もある。あれもこれもと条件を付け加えれば際限のない話になる。100%にどれほどの意味があるのかという根本的な疑問もある。要するに自分のルールで満足すればいいのかもしれない。

 


以下は、宮脇俊三が全線完乗を果たした旧足尾線(現在のわたらせ渓谷鉄道)の終点、間藤駅の写真。

 

 

 


間藤駅の駅舎。わたらせ渓谷鉄道開業後に改築された建物で、広場も整備された。国鉄時代の間藤駅は簡素な駅舎だった
 

 

 

 

待合室には「時刻表2万キロ」が紹介されている

 

 

 

 


「時刻表2万キロ」第13章の全文が掲示されている

 

 

 

 


間藤駅で「時刻表2万キロ」を読んでみるといっそう味わい深いものがある。
 

 

 

2025年4月、月刊誌「鉄道ジャーナル」が休刊した。あらゆる分野で雑誌の部数が減り続ける中、「鉄道ジャーナル」も例外ではないようだ。休刊に至るまでの詳しい事情は知らないが、かつて愛読していた雑誌がなくなるのは名残惜しい。
いくつもある鉄道趣味雑誌のうち、私は「鉄道ジャーナル」が自分の好みに合っていた。1980年代から90年代にかけてほぼ毎号購入していた。2000年以降は興味のある特集号のみ購入し、ここ7~8年はほとんど手にすることがなかった。
読まなくなった理由は、鉄道の情報をインターネットで収集できるようになったことと、長い歳月の間に自分の興味が鉄道以外に向いたことも大きい。
休刊という残念な事態を機に、自分が「鉄道ジャーナル」を初めて手にした時から、毎号愛読し、やがて離れていった過程を振り返ってみたい。

「鉄道ジャーナル」との出会い

私が初めて「鉄道ジャーナル」を購入したのは1984年。当時私は小学6年生だった。



1984年5月号。特集「581・583系電車の旅路」。購入してから40年も経過したので表紙がボロボロになってしまった。
小学生には難解な用語も多く、読んだというより写真を眺めていたのが実態に近いが、「鉄道ジャーナル」の売り物「列車追跡シリーズ」は子供にもなじみやすかった。寝台特急「はくつる」、昼間の特急「はつかり」「雷鳥」のルポを見ながら、専門的なことは理解できなくても、いつかは自分も乗ってみたいと思わせるには十分であった。

永久保存の価値

雑誌や本を長年読み続けると本棚がいっぱいになり、いつかは整理する時が来る。例外なく「鉄道ジャーナル」も処分したものが多いが、捨てる前によく吟味し、資料的価値があると判断したものや、個人的に思い入れのある号は永久保存することにした。
例えば、1987年の国鉄民営化や、翌88年3月から4月にかけて青函トンネルと瀬戸大橋が開業した頃の特集号である。日本の鉄道が大きな節目を迎えた時期だった。

 

 

(1987年5月号表紙)


1997年、長野新幹線開業に伴い廃止された信越線横川ー軽井沢間の碓氷峠および専用機関車EF63は個人的な思い入れが強い。何度も乗り、思い出深い「横軽」の特集号は捨てるわけにはいかない。
ちなみに「鉄道ジャーナル」には読者の投稿欄があり、私の投書も掲載されたことがある。「横軽」廃止に反対する意見を書いた。今読み返すと稚拙な文章だが、これも保存しておくことにした。

イメージとしての鉄道写真


鉄道雑誌には必然的に鉄道車両の写真がたくさん掲載されている。「鉄道ジャーナル」が他誌と違うのは、車両の写真だけではなく、都市、四季の風景、鉄道を利用する人々など、意図的に車両のない写真も掲載されていたことだ。説明の道具としての写真から一歩進んで、鉄道の魅力を連想させたり、解釈に幅を持たせる余裕が感じられた。
そこで特筆されるのは真島満秀氏である。彼の作品は「鉄道ジャーナル」の表紙や巻頭グラビアを飾り、鉄道への郷愁や社会と鉄道の関係性を想起させた。彼の作品によって「鉄道ジャーナル」には一種の「サロン」のような雰囲気が感じられた時期もあった。


独自の視点

鉄道雑誌といえば、車両形式の詳細情報やダイヤ改正に伴う列車の廃止などマニアックな記事を連想する。「鉄道ジャーナル」はそのような情報だけでなく、「ジャーナル」という名称が象徴するように、社会的な視点や文化的な観点から鉄道を考察するところに特徴があった。
具体的には、鉄道と競合する高速バスや飛行機のルポを掲載したり、鉄道趣味自体を考察したり、他誌では見かけない特集が目を引いた。

 

 

(1988年1月号)


ただ、独自の視点といっても、基本的には鉄道びいきである。「鉄道ジャーナル」を読み続けても鉄道を擁護するとは限らず、別の分野に関心を寄せて広い視野を持つと、いつしか鉄道びいきの熱は冷め、鉄道への懐疑的な視点も加わり、やがて「鉄道ジャーナル」を読まなくなるというパラドックスに至ったと言えるかもしれない。

この記事を書くにあたり、久しぶりに「鉄道ジャーナル」のバックナンバーを読み返した。懐かしさとともに、「鉄道ジャーナル」を愛読していた若い頃の自分の姿が重なった。私にとって「鉄道ジャーナル」は存在価値が二転三転しながらも、いつまでも記憶に残る書物である。