一雨ごとに秋の気配が忍び寄り、朝晩めっきり涼しいですね。
昼間の気温も30度を下回るかと思えば、日没も30分早まりました。
こんばんは。
今年の秋は、何故かお酒が美味しいです。
お気に入りのCDを仕込んで、ソーダ割りやらロックやら…。
専ら家呑みですから、タクシーの心配もなく、
酔いに任せて、宵っ張り…。
思索を巡らせたい気分ですが、シラフでもすっかり鈍った思考回路は、
気の利いたアイディアも編み出せず、お酒が無責任さを煽って、
何にという訳もなく、グラスを傾けています。
思ひ出を肴に…。なんて、湿っぽいコトはこの歳になると、面倒臭くて、
将来なんてものにも青臭くて、自分自身に期待が持てない。
憂鬱ではないんです。
ひたすら、陽気な秋の夜長です。
オーディオから流れる音楽と、一杯のグラスがあれば、
無理繰り、野心とか革命とか?そんなコトも、われ関せず。
謂わば、今の気分は、「亡命」でしょうか?
日常からの亡命であり、人生からの亡命の時間が過ぎていきます。
一通り、与太った所で、本日のテーマを思いつきました。
亡命?いやいや、そうではありません。
本日のテーマは、「予定説と諦め」とします。
私は、予定説、平たく言えば結果主義に30歳くらいから諦めがつきました。
要するに、いつの時点の自分も過去からの結果であり、自己受容できなくては、
朝は来ても、明日は来ない。つまり、追われながらのお粗末な日常さえ、
予定された現在という今日、今を受け容れられない事には、全うできないと
知りました。
孔子は『論語』の中で、三十歳を「而立」と云い、意味は「心身ともに
独立すること」というらしいです。
今年が、30代最後の1年になる私は、40の「不惑」を目前に、
30代に修め残した「而立」を39にして実感しつつあるように思います。
「而立」は自分を知らなくては成し得ません。
自分を知ることは、同時に、或いはその前提として、
「諦念」、「諦観」といった、「諦め」が必要ではないでしょうか?
私は、過去に縛られて、理想と乖離した現実を、理想をある程度、
「諦める」ことによって、次なるステップの現実に踏み出し、
取り組めるのではないか?
だとすれば、この「諦め」は決してネガティヴな心理ではなく、
むしろ、逆に前向きなポジティヴな心理作用に思えます。
「意志ある所に道は開ける」と、」仕官を志すばかりが人生でもないような気がします。
「諦めるところから開けてくる道」を見出して下野すことも、満更ではないと。
「適材適所」は予定説に逆らう考え方でもないように思います。
現状に不満で、八方ふさがりな方がこのブログを読んで下さっていたら、
「諦める」ことから、足元を見直してみてください。
きっと、意外な状況なり、展開が拓けて、足踏み状態から、もしかしたら
一歩、明日に踏み出せるかもしれませんよ!
なんてな、与太にお付き合いいただき、ありがとうございました。
明日のアナタに乾杯!
良い、秋の夜長を…。