秋も入り口。朝晩は、肌寒いです。
こんばんは。

唐突ですが、皆さんは、リテラシーって何かわかりますか?
デリカシーにも近い親戚のような気もしますが、
以下、私見でリテラシーについて定義することにします。

私見では、リテラシーとは感じたことを言語化する。
モノの本には、「識字」と訳されています。
言語化といっても、熱いものに触れて、熱いとか、
そういうことも、或いは広義にリテラシーに含まれるかも
しれませんが、私はリテラシーとは、現象を帰納的に本質として
言語化することだと思っています。

例えば、貴方が音楽や映画鑑賞をするとします。
音楽には、音楽理論があり、映画には映画文法があります。
あいにく、私は理論も文法も、どちらにも疎いのですが、
音楽や映画は聴視して、個々人で感想を持ちます。
個々人で感想を抱くことに、罪はありませんが、誤解や誤謬が
紛れ込み、作者の意図とはまるで違った感想を持つことも
よくあることで、だからといって悪いことをしているという事がない
のもまた真実です。

ですが、誤解や誤謬で終わることは、聴視していないことよりも

残念なことであると思うのです。
何故なら、作者の思想が咀嚼できぬまま、云わば勘違いで
終わるからです。

それでは、誤解や誤謬はなぜ起こるのか?
それは、鑑賞の主体である個々人の判断基準が、個々人の
固定観念や先入観、語弊がある事を恐れずに言えば、
もっと悪く言うと、主体の独断と偏見が、感想の判断基準に
なっているのだと思います。
無論、それにしたところで、悪いことではないと思いますが、
勝手な解釈で片付けるのは、勿体ないと思いませんか?

判断基準が、客観的であればあるほど、作者の意図は
比較的正確に受け手に伝わり、そのこと自体が、
作り手と受け手にとって、より健全なコミュニケーションだと

思います。

作品を、誤解や誤謬を恐れずに、情熱で鑑賞して楽しむか、
作品を、理論や文法で理解して、作者の意図を咀嚼するか。
ここで、出てくるのが、「無意識」です。
前者は、無意識に気付きさえ出来ずにに無意識に終始するあまり、
リテラシーに成長はなく、エゴの墓穴をさらに深めるのに対し、
後者は、無意識を意識化するという発見により、リテラシーが
成長し、その副産物として、より自分のことも知ることが出来、
客観性が培われて、作品を通して、精神的にも鍛えられる。
若しくは、自分を肯定出来たり、反省したりする過程で、

作品を咀嚼して、自分の資質の肥やしにで出来る。

平たく言えば、役に立つと思うのです。

リテラシーを高める事は、無意識を意識させてくれる。
そして、その前提には、理論や文法といった客観的な価値基準が
必要不可欠という事が、何故、それほど重要だとおもうかと云えば…。

実は、仮に同じ教育、同じ経験を経てきた、仮にA氏とB氏が各々、
生産者になるのか?消費者になるのか?
それは、つまり、「得ること」と「失うこと」の二項対立に
直結すると思うからです。

主観的、客観的にも各々に一長一短がありますが、
リテラシーは高ければ高いほど、成長もあれば、得るものも
多いと思いますが、いかがでしょうか?