立冬が過ぎて、街路樹が色づき始めるも、吐く息は未だ白くない模様。

中り障りのない束の間の季節を、いかがお過ごしでしょうか?


今宵は、酒も切らして、タバコとコーヒーで、野暮ったいテーマで一席。


唐突ですが、アジテーターって、戦後は特に時代の寵児でしたよね?

何ででしょうか?

私が思うに、大衆が唯々諾々と、或いは特に違和感なく構成員として

帰属し、機能してしる社会のシステムに、柔らかく言えば、問題提起する。

そして、戦後の平和な治世の大衆の覚醒を煽情する…。

それが、戦後のアジテーターでした。


私は、“戦後は”と云いましたが、義務教育で受けた授業で取り上げられた

歴史上の人物は、どれもアジテーターのオンパレードでもあったでしょう。

平和ボケした戦後と違って、戦前は、革命的に、突如、大衆に向けて

アンチテーゼを唱えるアジテーターの大衆への受け容れられ方は、

時代時代で英雄にもなれば、罪人にもなる。

アジるフィールドも様々ですが、政治・宗教・思想・芸術などの分野で

顕著に取り沙汰されるように思いますが、アジテーションの目的は、

決して、法螺を吹くこととも、オオカミ少年でもない筈。

人類の歴史が始まって以来、アジテーターに値する人物は枚挙に

暇がなく、時代に埋もれた者もあれば、時代に名を遺したものもある。


戦前の話は出来ませんが、身近な所で戦後のアジテーターであり、

かつ寵児となった勝ち組。戦後に顕著な平時のアジテーターには、

存在価値、謂わばシンパシーをさえ感じます。

何しろ、私はそんな平時の戦後しか知らない青二才ですから…。

いつの世も平時には、社会に秩序があり、公序良俗や倫理も成熟しています。

平時が平時然としていられる大きな理由は、政治の安定が第一義的にある。

平時には、教育も社会保障もある程度は満足され、国内情勢が危機的状況

にない。が、ここで、登場するのが、メディアです。

大衆の一員として社会の構成員を健全に営めているうちは、アジなんて、

馬耳東風です。ですが、一度、福を食い違えると、つまり、社会から

ドロップアウトすると、情報という情報、つまり、メディアに裏切られた感を

禁じ得ない。しかし、メディアは、勤勉に、勤労者としての育成を牛耳る教育の

箸休めにあるのであり、畢竟、メディア自体が、国民の勤勉勤労の士気向上

をサブリミナル、今風に言えば、“ステマ”として大衆の覚醒を抑止するための

機能として存在しているのだと思います。

健全とされる大衆は、外套に集る夜光虫のように、メディア中毒・依存症に

なっていることにすら気付かず、メディアという海水を飲んでは、さらにメディアの

るつぼに嵌まり、自我を放棄している喜劇にも見受けられます。

しかしながら、マスコミの催眠からはみ出して、世迷いごと陥った者にとっては、

社会全体が“敵”という、これはこれで悲劇なのです。

ここで、アジテーターが参上すると、はみ出し者たちは共感する。

それでも、平時のアジテーターも、そのシンパもやはり、マイノリティです。

仮に、時代の先便を切って、時代の舵を取ったとしても、やはり、コミュニティ

でしかないことでしょう。

しかし、面白いもので、こうしたコミュニティが近似したコンセプトを標榜して、

違ったフィールドで点在し始めると、アジは市民運動へ、市民運動は時代変革へと

拡大していき、やがて、旧態然とした政治を糾弾するまでの勢力に成長する。

この流れを、“世相”、“風潮”というのかと思います。


能書きが長くなりましたが、メディアの何を見ても、“独自のひらめき”を

感じなくなる、“感性の不能”を感じる時が訪れたら、ピンチでありチャンスだと

思います。


ウィークデイにはなかなか出来ない、情緒の整理を週末金曜の宵の口に、

“独自のひらめき”を絶えず自分の中で更新し、“感性の代謝活性化”を渇望する

中年が、気分一新の意を込めた与太にて、あしからず。