こんばんは。
春、桜の宴もたけなわですが、ここらで一本締めにてお開きにして、
今年の日常、地道な積み重ねのループ/ルーチンにトランスしたい
気分になってきました。
とは言うものの、実は私は中年になってから、弥増して春が好きに
なったのであり、開放的と云えば、聞こえが良いですが、春の不埒で
蠢き萌える心情は、恐らく私に限らず、古今東西、遅かれ早かれ
老若男女が享受する所ではないでしょうか?
日常に埋没したいというのも、春と云う季節の一定期間に味わう
媚薬的な非日常の誘惑に溺れてはいられない、これから1年
また凌いで往かなくてはならないのだから…。という、一種の
帰巣本能なのかもしれません。
しかしながら、今でこそ好きな春ですが、
若い頃は、春のときめきや、そぞろ浮足立ったムードを喜んだり楽しんだり
出来ない時期もありました。
何故なのか、今は解る気がします。
前にも書いた『筋と道』の話になりますが、『筋』を知らない無知な私は、
『道』を彷徨う他成す術がなく、
若い頃は、ファッションや流行の奴隷とも気づかずに耽溺していました。
それが、社会に何ら還元性のない自己満足の自己愛であると気づけなかったの
は、、ナルシストのレッテルを貼られることを、自分で自分を冷かすように
恐れていたからだと思います。
その恐れが、さらに自己愛に拍車をかける悪循環で、自意識に傷つきながら
どつぼに嵌まっていく自分が居ました。
そんな、ピント外れな青春時代ですから、教養が醸成されるはずもなく、
徒労と消耗に尽き、疲れていたころに、自己愛の呪縛から解放されたのは、
張子の虎のような自分に白けた30代だったでしょうか?
それまでの利己的な「ガラパゴス的島国根性」から脱却できた心理は、
自分のことを考えるのを辞めて、他人や家族や周りの人の役に立ったり、
期待に応えて喜んで貰いたいと思うようになった事が切っ掛けです。
それほど、他人の気持ちが分からない自分に幻滅もしましたし、
喜怒哀楽もなくしたモノトーンの日常に見切りがついたのだと思います。
自分の言動には、相手の反応がある。
その反応が、ポジティヴなものであってほしいと思うようになってから、
私にも『筋』が見えてきました。
何を思い、どうするか?ということにも、理由と結果を求めるようになりました。
単なる消費者から、費用対効果を意識する消費者に成長したと思います。
すると、どうでしょう?モノトーンの日常が淡く色づき始めました。
自分を少しは客観視出来るようにもなりつつあると。
さて、今回も前置きが長くなりました。
今回のテーマは、『サイエンスフィクションとエログロナンセンス―自己愛をめぐり、
春が教えてくれた『筋と道』―』ということですが、
思春期という言葉と、その時期の特徴は矛盾すると思うんです。
思春期に、私は春を思えなかった。思いはしても、煩わしかったり疎ましかったけれど、
中年になり、思春期を過ぎて春の悦びを享受できている。
何が言いたいかと云えば、ギリシャ神話のナルキッソスとエコーの話です。
エコーの求愛を拒んだ美少年ナルキッソスは、湖面に映る自分の姿をしか
愛せない。愛せないのに、アタマの中では、エコーの「私を愛して!」の声が
こだまして鳴り止まない。それでも、ナルキッソスは自分を愛することを止められない。
ナルキッソスは自分肉眼で自分の背中を顔を見たくなる。
すると、ナルキッソスはエコーの声から自由になって、自分を愛するために、
精神が肉体から乖離する。
斯くして自我を自分の外に持ち出したナルキッソス。
それなのに、あろうことかエコーのこだまは自分の外にあるはずの自我を持つ
ナルキッソスの頭の中に、またしても鳴り響く。
そして、ナルキッソスの自我は、さらに外へ。外へ。
こう考えてみて下さい。「木を見て森を見ず」という言葉があるように。
森を見たければ、森の外へ。祖国を見たければ、世界(地球)へ。
地球を見たければ、宇宙へ。
自分を見たければ自分の外へ。という自己愛のるつぼは、狭い狭い世界へ自分を
追い詰めながら、広い広い世界へと自分を拡散していくパラドックス。
これが、SF(サイエンスフィクション)の構造だと考えています。
その意味で、エログロナンセンスと混同しかねない傾向もあるかと思いますが、
SFは『筋』ですが、エログロナンセンスは『道』なので悪しからず。