こんばんは。

ご無沙汰ですが、いかがお過ごしでしょうか?

春過ぎて、夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山。とは、持統天皇の百人

一首の一句です。

ネット上やアパレルのセレクトショップなどでは、夏服もチラホラ見かけます。

私も流行の奴隷からは解放されるコトが、加齢とともに漸く出来始めて数年

ですが、私の場合、最近は、「リアルタイムで手に出来なかった復刻版の

スニーカー」やら、若いときには、照れもあってか及び腰で、今さらトライして

みようと、「ギターやスケボー、原付のコレクション」など、中高時代の置き忘れた

青春を取り戻すべく、薄給をはたいて、毎月赤字でろくに貯金もままなりません。

とまれ、青春を買い戻せるならそれも良しと、潔くジリ貧の生活に慢性的に

浸かっています。

先の句の、白妙の衣は、新しい季節、テコ入れの象徴ではないかと引用しました

が、とにかく、資本主義で飽食、モノにあふれた時代にあって、

おカネさえ払えば、スキルを身に付ける、生きがいを見出す、

そんなスタートラインに立てる良い時代です。

しかしながら、コレクション、いわゆる蒐集とは、考えてみれば、いかにも不経済

で、且つ滑稽な気もします。

私の場合に限って言えば、スニーカー、ギター、スケボー、スノボー、サーフィン、

原付。どれをとっても、一つでは気が済まず、デザインでホタルや蝶々のように、

あっちの水、こっちの水、花から花へ…。

おそらく、どこかの時点で、見限らなくては、そうでなくとも、道楽に挫折することの

方が目に見えていますが、いずれにしても、薄給でホタルや蝶々もないもので、

人生の通過儀礼も疎かにして、うつつを抜かすのはいかがなものか?

それでは、何故、私が浪費の眩惑から目が覚めないのか?

それは、パッケージに気移りするからだと思っています。

例えば、私は自家用車を持ちませんが、クルマ好きなら、ボディーのデザイン

やら、スペックやら、何だかんだ理由を付けては、うつつを抜かすものでしょう。


さて、そこで、今回のテーマは『資本主義による性善説と社会主義による性悪説

をめぐる、パッケージのトポロジーから見えてくる地平線』ということですが、

資本主義には市場原理が働き、各社、商品の差別化を図る分、商品も多様化

します。そうなると、消費者には選択の自由が与えられ、一見、景気のいい話に

聞こえますが、円安傾向で、インフレになれば、物価は上昇、消費税や金利も

上昇と、いたちごっこで、購買力平価は欧米の先進国並み、BRICSに見る新興国

ともそのうち格差は縮小しないでしょうか?

アメリカ中心の世界経済で資本主義のイメージは、自由さとか豊かさと云った

性善説のプラスのアプローチがあるのに対して、旧ソ連のペレストロイカから、

中国の計画経済に至るまで、「贅沢は敵だ!」と国民を抑圧してきた社会主義は

元は、経済に対して性悪説的なマイナスのアプローチがあったと思います。
それが、昨今、アメリカ主導ではありますが、グローバルスタンダードを標榜して

世界中が物理的に飽食の時代を迎えた時、差別化さえもが陳腐化してくると、

私は思います。
つまり、デザインなどのパッケージと云う現象に翻弄されるのではなく、

機能やコストパフォーマンスと云った本質にトポロジー的な消費者の目覚めを

経て、費用対効果を吟味する国民が、世界中に成長すれば、短期的に景気は

冷え込むかも知れませんが、長期的には人間としての人格形成や情操の陶冶

にも大きく貢献する画期的な経済・文化の世界規模のルネッサンスから、人類

のリテラシーの成熟も期待できるという、価値観の地平線が世界標準で見えて

は来ないでしょうか?

色々、云いましたが、浪費の自戒を込めて徒然に思いをしたためましたまでの

コト。薄給のサラリーマンの、ボヤキにて悪しからず。