ゆるっと和水町チャリマップ史跡探訪版 前編 | 自転車とか歴史とか

自転車とか歴史とか

熊本在住

文章力皆無なので備忘録的意味合いが強い。
地元の図書館とwikiや野良サイトで調べてるだけなので間違いが多いと思われる。
想像・妄想で書いてることも多いので話半分程度に読んでほしい。

先日ゆるっとナゴミ。チャリマップなるものが配布されているのを見つけた

 

要は和水町のチャリ観光マップ

折角なので(?)、和水町の史跡ハントおじさんが史跡を巡りながら坂も堪能できるコースを作ってみた

 

 

https://ridewithgps.com/routes/32189999

距離60km 獲得標高750m前後

と初心者でも十分いけるコースになっている(多分)

 

高度表はこんな感じ 平坦メインでたまに坂がある感じ

 

 

 

上級2のスタート地点である内田橋を起点とする

 

南下する

 

出発してすぐに丸美屋の本社があり

 

小さいながら直売所もある

100円位の納豆が70円なので安い

 

色々種類はあるが

 

オススメはひきわりの極小

※赤のひきわりは粗いので黄色のパッケージのが良い

 

大粒だと

 

小粒は他社だが

糸の力 超極小粒がオススメ ※辛子は使わない

 

行きに買うとかさばるので帰りの購入をオススメする

 

 

いきなり脱線(?)したが元の道を進む

 

途中古びた階段(登り口)があるが

 

登っていくと

 

和仁石神社 & 和仁石山城跡がある

 

蘊蓄

 

 

川沿いを気持ちよく進む

 

対岸には縄文~古墳時代の遺跡がある

 

縄文時代にはこの場所まで海水がきていたと考えられている

↓地図の1がこの地点

 

 

また、周囲の古墳は↓のような変遷を辿っている

この地域から取れる阿蘇凝灰岩は八女辺りまで運ばれ八女の古墳にも用いられているそうだ

今回は古墳はルートにないが興味ある人は行ってみてほしい

 

 

川沿いを進むと少し横道に入るが青木熊野座神社がある

 

ここの岩壁には梵字(サンスクリット文字)が彫られており

カッコいいのでオススメ

 

解読表も置いてあるので意味も分かるようになっている

 

 

元の道に戻り進み横道に入ると玉名大神宮がある

 

この地域は元玉名と言ってかつての玉名の中心地であったとされる場所

ヤマトタケルの父親である景行天皇がこの地に来たという記録が日本書紀に残っているとても由緒ある場所でもある

 

詳しく知りたい人は↓を読んで欲しい ※あくまで私感です

https://www.google.com/maps/place/%E7%8E%89%E5%90%8D%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E5%AE%AE/@32.955134,130.5844214,15.75z/data=!4m8!1m2!3m1!2z546J5ZCN5aSn56We5a6u!3m4!1s0x35405765d1be88fd:0x64e75156d67fba51!8m2!3d32.9522225!4d130.579344

景行天皇や土蜘蛛の関連施設。
日本書紀によると、天皇に従わない勢力(土蜘蛛と呼ばれた)である津頰(つづら)がこの地におり、景行天皇に討たれたそうだ。

以前はこの辺が玉名(日本書紀では玉杵名)の中心地だったようだ。
ここより南の菊池川沿いの平地は大半が海で江田船山古墳辺りまでは海水が来ていた。
この周辺の古墳も当時は海沿いに作られたのではないだろうか?

景行天皇に討たれたとされる土蜘蛛の津頰(つづら)は津々浦氏としてこの地に残ったとする資料もあるが定かではない。たしかに津々浦姓は日本でも玉名周辺が半数を占めているようだ。
別名が筒ガ岳である小岱山とも関係があると思われる。
余談だが、津頰と景行天皇は山鹿の震岳付近で戦ったという伝承も残っているそうだ。

景行天皇はこの時 疋野神社を鎮祭したとされるが、疋野神社は平安時代辺りまでこの地を支配した日置氏の氏神である。
津頰の後この地の支配者として日置氏が派遣され江田船山古墳を初めとする玉名一帯の古墳が作られた、と考えることもできるのかもしれない。

 

近くに古墳がいくつかあるが見出すとキリがないので今回はスルーし

少し引き返して新玉名橋を渡る

 

直進して道なりにいくと急な坂があるので手前で右折し金栗四三の住家・墓へ

 

生家

コロナの影響で閉館していた 残念

 

以前来た時の画像

 

お墓の方は入れた

 

後は細い道を登る

途中に公園があるが閑散としていた

 

しばらく進むと大きい道に出るので道なりに登る

すぐに下り坂になるのでぐんぐん下る

 

 

 

川の手前の牧野の三叉路を右折

 

100mほど進んだら左折し後は道なりに進む

 

橋を渡り更に直進すると登りに入る

 

50mくらい登ると米渡尾地区に出るので突き当りを右折し道なりに進む

若干アップダウンがあるがすぐに終わる

 

高野天満宮の楠はなかなか立派

 

少し進むと交差点に出る 横切って直進

 

 

最初に少し登るが後は下り基調

 

車通りの少ない道を軽快に下る

 

突き当りを左折  結構車通り多いので右からの車に注意

 

眼鏡橋があるらしいが

 

近くから見ても遠くから見ても石橋部分は確認できず

(草の中入れば見れるだろうけど)

 

300mほど直進して右折し橋を渡る

 

川の右手奥には

 

菰田船継所跡

 

 

橋を渡ったら左折し道になりに進む

交差点で右折し50m程進んでから左折

 

 

この先はあまり休憩所がないので

三加和温泉ふるさと交流センター緑彩館で補給した方がいいかも

 

緑彩館の少し先には

小屋敷の六地蔵 がある

六地蔵とは・・・

輪廻の六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)があるが

死後どの世界に行っても地蔵様が守ってくれる、という信仰から作られている

村の守護や旅の安全を願い、村の入口や交通の要衝、墓地の入口などに置かれたと思われる

 

形状としては地蔵が六体並んでいるものもあるが

熊本で多いのは石塔の傘の下(龕部)が六角形になっており

六面にそれぞれ地蔵が彫られているタイプである

 
別の場所の六地蔵が分かりやすい↓
 
この後何ヵ所か立ち寄るが和水町に残る六地蔵は13箇所
ザックリした地図を貼るので気になる人は回ってみると良いかも
 
菊池川から北(三加和地区)
 
菊池川から南(菊水地区)
 
 

 

六地蔵から右折し50m程進むと
高畑の六地蔵

熊本では珍しい六体タイプの六地蔵 (奥のも入れると六体以上ありそうだが)

 

奥にある山は神尾城(太田黒城)と呼ばれ

南北朝時代には名和氏が戦国時代には南関の大津山氏が拠っていたようだ

加藤・細川の治世には吉弘統幸の子がこの地の知行を得て代々残ったとされる

神尾城には吉弘氏の子孫の墓が残っているらしいので

推測だがこの六地蔵は墓地の入口に置かれたものかもしれない

 

神社もある

 

 

高畑の六地蔵をすぎたら川の手前で左折し小道を進む

 

しばらく進むと↓の道に左折

 

すると↑写真左の家の庭に

苧生田の六地蔵 がある

 

元の道に戻り川を渡って北上

 

信号のある(比較的)大きい交差点があるので左折

 

300mほど進むと

スーパー菊屋三加和店があるので

 

裏手に進む

 

菊屋の裏の土手?の所に

岡の六地蔵

 

上の地図の通りに進むと畑の中に

上東の六地蔵 が見える

 

因みに六地蔵から南西の上板楠神社には眼鏡橋もあるので

石橋ハンターの人はどうぞ

 

この後は小道に入るので地図見るかナビ通りに行って(丸投げ)

 

途中

江戸時代の儒学者 草野潜渓の墓や

 

 

庚申塔や

 

横穴?や

 

神社なんかもある

 

少し進むと川に出る

この後は今回のメイン坂コースに入るので

橋の手前にある自販機があるので最後の補給を

 

 

補給が終わったら少し引き返して北上

 

 

長すぎて文字数規制になったので前後編に分ける

後編へ↓

ゆるっと和水町チャリマップ史跡探訪版 後編

https://ameblo.jp/dnishikawa/entry-12596928353.html