10年前の「私の看護観」  | MaMaUsakoの妊活カルテ(治療終了)

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ベビ待ち10年。
2015年11月12回目の移植で人生初の妊娠、不妊クリニック卒業後9W流産。
赤ちゃんは15トリソミーの男の子でした。

調べものをしていて、10年前に、私が「糖尿病オタクナース養成所」に通っていた時のレポートが出てきた。

自分の文章ながら、読みこんでしまった。

看護師経験6年、当時のUsakoの「看護観」

読みにくくてすみません。


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「私の看護観」   2003/6


Ⅰ.序論



看護師になった頃の私の看護観は、「患者様からあなたがいると心が落ち着くと言われる様な安心感を与えられる看護を行なうこと」というものであった。看護師として患者や家族のつらさを追体験し、家族の様に患者の事を考えケアが出来ればと考えていた。しかし6年間の看護の経験から看護師は患者と同一化してはいけないと感じた。そこで患者を理解するとは何か、家族の看護と看護職の看護の違いについて考えた。その中から新しい看護観が浮かび上がってきた。看護の目標は患者のニードの充足である。「患者のニードの充足という目標に向かって患者との人間関係や共感により患者を理解し、科学的根拠に基づいたアセスメントを行ない、専門的知識と技術を用いて看護を提供すること。」これが今の私の看護観である。



Ⅱ.本論

今まで私は数多くの人の死を見てきた。看護師になりたての頃の私は、患者が亡くなる数日前から、その人が元気であった頃を思い出し、亡くなれば、家族の様に悲しんでいた。その感受性が看護師には必要なのだと思っていた。いつの頃からか患者が亡くなっても、それほど感情的にならない自分がいた。死に麻痺してしまったのかと、そんな自分の感性を残念にも思った。しかし、感情的にならない分、今、この患者にとって何が必要なのか、あとどれぐらいで死を迎えるのかを患者の状態から読み取り、ならば家族にはどの様な声かけが必要かを判断し冷静に行動に移せる様になっていた。



私は看護学生の時、観念的追体験というものを習った。この時の私の解釈は「健康な人は、患者のつらさがわからないから、患者の気持ちに少しでも近づく為に、話を聞いたり考えたりして追体験し、自分の身になって何をしてほしいのか何がつらいのかを知るのだ」と解釈した。一見同じ意味の様だが、その時の私は患者が泣けば一緒に泣き、患者が苦しめば一緒に苦しむというのが追体験だと思っていた。ミルトン・メイヤロフはケアの本質において「彼が困惑していることを認識するには私が困惑しなければならないという事ではなくて、私が内面的に彼の困惑を“感じる”がゆえに、私は彼をその状態からたすけ出す事ができる位置にいるのである。2)

と言っている。また、トラベルビーはこれを「同一化」と「共感」という言葉で区別している。同一化とは他人と同じになる事であり、共感は対象となっている人の行動を予測する能力である。共感の方が他人の考えや感情が正確に知覚されると言っている。患者が亡くなっても家族と一緒に泣く事を忘れた私は、経験の中からその事を理解していたのではないかと考える。看護の仕事は、死と生が隣り合わせで、隣の患者が亡くなっていても、その隣の患者は生きようと必死になっている。様々な患者を同時に看護していくために、感情に振り回されず冷静に客観的にその場を判断し行動できなくてはならない。



患者の気持ちを理解するだけでも看護は出来る。しかし、それは家族がする看護と何ら変わりはない。資格を持つ看護師が行なう看護と、家族が行なう看護の違いを考えた。アンセルム・ストラウスは、家族が患者のために行なう最も重要な仕事は「心理的仕事」である1)と言っている。しかし、精神的ケアにかかわるのは看護師も同じである。看護とは「さまざまな健康の水準にあるすべての人々に対して-その人々が身体的、心理的、社会的な統一体として社会に存在し、環境と相互作用しながら生活しているという認識にたって-その人々がみずからの健康水準を保持・増進,回復できるように(あるいはその人らしく人生をまっとうできるように)ニードの充足を援助する過程」である。トラベルビーは「人間対人間の看護」の本の中で友人対友人の関係と比べ、「友人というのは、彼の友人の援助のプロセスを意図的に始めるという義務を負っていないが、他方看護師は、看護上のニードをみたすべき義務を負っているのである3)」と述べている。家族と患者の関係を述べている訳ではないが、私は義務を負っているかどうかというところに違いがあるのではないかと考える。また、トラベルビーは、家族対患者の人間関係と看護師対患者の人間関係の違いは、看護師対患者での人間関係においては「人間対人間の関係作りが患者のニードを充たすための手段として用いられている3)と述べている。患者との人間関係は看護の最大の目標である患者のニードの充足に向けての手段として用いられている看護技術だったのだ。



糖尿病治療の目標は「健康な人とかわらない日常生活の質(QOL)の維持、健康な人と変わらない寿命の確保4)である。その目標達成のために、患者が糖尿病を自己管理していける様看護師は援助している。しかし、「食事療法」「運動療法」など理解していても出来ない患者は多い。これらに対しても私は患者と家族の様な人間関係を築き、私自身の誠意が伝われば患者は前向きになってくれるはずだと思った。しかし患者の家族や友達の立場になって真剣に考えても問題解決にはならなかった。それは、患者のニードの充足を目的として行なった人間関係作りではあったが、患者と同一化し、共感できていなかったという事が原因であったと考える。最近、「糖尿病患者の心のケア」や「行動理論」など患者の気持ちや行動を科学的に分析し、指導に結びつけていく動きがある。人間は「酸素+水素=水」の様にすっきりとした科学にはならない。そこを看護者の人間的柔軟性を持って対応し患者のニードの充足に結びつけていく事が大切であると考える。



家族の人間関係が、看護師が行なう「患者のニードの充足」を目的とした人間関係には出来ない威力を発揮する事もある。家族のいない患者や家族が治療に熱心でない患者にコントロール不良患者が多い様に思う。これは、専門的知識を有さない家族が、患者に寄せる愛・情により患者が治療に前向きに取り組めるようになった結果であると考える。人の気持ちは人の気持ちを動かす。このことを忘れず、より専門的な知識と技術を身につけ、科学的根拠に基づいた看護を行なっていきたいと考える。



Ⅲ.結論
1. 患者を理解するという事は、患者と同一化して患者と共に苦しむという意味ではなく、共感により人の行動を予測する事である。
2. 看護師独自の看護をするために、「患者のニードの充足」を常に目標とし、専門的知識と技術を駆使して看護を行なう。
3. 「患者のニードの充足」を目標にした人間関係作りは大切であるが非人間的になってしまわないよう人間としての心を忘れず看護を行なう。



参考文献・引用文献
1) 慢性疾患を生きる 南裕子監修 医学書院 2001.11
2) ケアの本質 ミルトン・メイヤロフ/田村真・向野宣之訳 ゆみる出版 2002.3
3) 人間対人間の看護 トラベルビー/長谷川浩・藤枝知子訳 医学書院 2001.12
4) 糖尿病治療ガイド2002-2003日本糖尿病学会編 文光堂
5) 系統的看護学講座 専門1 基礎看護学 看護学概論 波多野梗子 医学書院 1994


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