置いてた洗面器に自らIN。
先日の記事、『子供から教わること』のコメント内で展開していった方向があったので、続編として。
前を向いてさえいれば、誰もが好ましい存在として受け入れられ、問題やハードル または自分に向き合いさえすれば、その内何かしらの進歩は訪れるということを、子供たちとの関わりを通じて気づかされたというのが、前回の内容。
今回は、前回あまり触れなかった背を向ける人、牙をむく人について。
大人を対象とする講師と、子供を対象とする講師との もうひとつの違い。
それは、後者の場合、『少しだけ』相手の人生に踏み込む部分まで仕事に含まれているということ。『少しだけ』、将来社会に出ていく子供を育成する役割を担う。
けれど それは、あくまで『少し』。
その先は、私には踏み込めない問題。自立していない子供たちにとって、家庭の中での人間関係や問題は、よっぽどな場合を除き、ほとんど閉鎖された中において、人生の第一関門として、経験して挑んで行くこと。そう理解してる。
子供の身の上であっても、のっぴきならない問題を抱えている子も中にはいる。
かつて、自分が子供であった時、そういう踏み越えられない壁の向こうから、その壁をちゃんとわきまえた上で手を差し伸べてくれた大人たちの存在が、私にもあった。
幼い時から、なんとなくその存在やその人物たちの気持ちに気付いていた。
ある時は『少し』身をゆだね、ある時は背を向けるほかなかった。
差し伸べられる他人の手を、理解できなかったり、背を向けるしかない場合、心を開かない その子が悪いわけではない。
それは、その子が今、そういうタイミングではないというだけ。
意味のない出来事などなく、終わってみれば、辛いことだって先々姿を変える何かの種。
自分ではどうしようもない子供の身の上で、ある時は流れてくる藁にすがったり、死にもの狂いで泳いだりして、一部 堕ちてとんでもないことになったりする子もいれば、乗り越えて ちゃんと糧にして強くなる子もいる。
試練や苦難を持たない人などいないのではないかと思う。
けれど、その種類やタイミングは人それぞれ千差万別。
子供時代にそれが来て、格闘している問題が大きすぎて、外からの手をヘタに受け取れない場合だってある。
子供が抱えている問題が私の及ぶ範囲でない場合は、見守ることしかできない。野良猫みたいに、呻ったり、引っ掻いたり、臭い息を吐きかけたりする子は、傷ついているのだなと思い、様子を見つつタイミングをうかがう。
今は受け取れないものも、後になって気づく場合もあると思うので、とにかく投げかけ続けるようにはしている。
私は本当に、文化や教養面で、豊かな刺激をくれる大人たちに恵まれた。それが今も有難く、心から感謝している。
好奇心が強い子供だった私に、いつも良い負荷が与えられていた。
今のところ、我が子を育てるという機会はないけれど、次世代を育てるお手伝いができるのが光栄だ。
手抜かりも多く、申し訳ない部分も多々あるけれど、受け取ったものを今度は次世代にお返ししたくて、持っているもの全て差し出すような気持ちで奮闘しているので、あたたかい目で見てもらえたらうれしいなと思う( ˊᵕˋ )





