♪ババンバ バンバンバン~~~♪ でははじまる歌詞は、ご同輩であれば百も承知の いい湯だな という名曲であります。
ただ、この曲がドリフターズ版で世に出た1969年と言いますと、先の大阪万博が開催される一年前であって、確かに生活スタイルは向上してきたものの、まだ自宅に風呂がある家庭も多くなかった時代でしたので、街中には 銭湯 が至る所にありました。
と言うことで、毎度誠に狭義の話しにはなるのだけれど、昭和50年頃に住んでいた岸和田市の自宅近所にあった銭湯などを紹介していこうと思います。
◆ 並松町 松湯 ◆
小学校一年から六年まで同じクラスで同じ並松町に住んでいたK君のご実家は、 松湯 という銭湯を営んでおりました。
紀州街道沿いの三叉路の角にあるスタンダードな銭湯で、かつ自宅から最も近い銭湯でしたが、奇しくも当時住んでいた家には小さなお風呂が備わっていましたので、ついぞや客として訪問することはありませんでした。
ただ、夏にK君の家へ遊びに行きますと、ご両親が気をつかったのかどうなのか? まだ温める前の銭湯で水遊びをよくさせてもらいましたね!
◆ 下野町5丁目 潮乃湯 ◆
こちらの正式名称は「潮湯」だったのか「潮の湯」だったのか忘れましたが、これまた同じクラスのK君のご実家でして、ご多分に漏れず夏はプール代わりによく遊ばせてもらいました。
◆ 並松町 ??の湯 ◆
上記ふたつの銭湯は、いずれも同級生のご実家ですので客として入りづらかったのですが、その事情を知っていた父に連れられて行ったのは、同じ並松町にあったもうひとつの銭湯でした。
ただ、屋号は失念したものの、少し自宅から距離のある ???の湯 へ父とよく出掛けたものです。
どちらかと言いますと小さな建物で相当老朽化した銭湯でしたが、脱衣所には当時私が大好きだった一回10円の お菓子のクレーンゲーム があったので、本当はこのゲームがしたいがために、よく父ににせがんだものでした。
※イメージ
◆ 春木の銭湯 ◆
父方の祖母が春木戎町に住んでいたので、小学生になると週末を利用してよく泊まりに行きました。
ただ、祖母宅には簡易で小さな 鉄砲風呂 があったのですが、温度調整が難しいことからよく銭湯へ連れて行ってもらいました。
※イメージ
祖母宅から10分ほど歩きますと、地域一番の商店街のようなところがあって、ここに昔ながらの銭湯がありよく訪問させてもらいましが、一年生だった私が頼りないのか気遣ったのか、一度だけ祖母が私を連れて 女湯 へと入ったのですが、さすがに居心地が悪くて二回目以降は一人で男湯に浸かったものでした。
※赤印がよく訪問した銭湯
ただ、それより更に5分ほど歩いたところに大きくて新しい銭湯が出来たらしく、その報を聞いて祖母と意気揚々と出向きましたが、こちらは浴室の壁面が水槽になっていて、当時としてはたいへん斬新で珍しい作りでした。
※青印のところ
※イメージ
さて、ここまで読んで頂いても何の感動も気づきも無いのは百も承知ですが、これは後世に伝える岸和田市の記録のようなものですから、しばしご辛抱頂きたいと思います。
◆ 並松町 スパ・リゾート リバティー ◆
当時の自宅があった裏側の工場敷地から天然温泉が湧き出たことで、ここを リバー産業 という会社が開発して昭和63年4月にOPENしたのが、当時のブームであった健康ランドの「スパ・リゾート リバティー」でした。
この内容でしたら40歳代の方でもご記憶にあると思うのですが、大阪臨海線に面した入口には大きなゴリラが鎮座していまして、1階にはレストランも併設されている大きな施設で、浴槽も街中の銭湯とは一線を画す広さでした。
当時は、尼崎の「尼湯ハウス」に松原の「ゆ~ゆ~ランド」、はたまた狭山の「はいから村」に奈良の「奈良健康ランド」など、一日をたっぷり館内で過ごせる施設が目白押しにOPENしたものの、 入浴料が2000円前後と高額 であったため、後に台頭する「スーバー銭湯」などにことごとく駆逐されてしまいました。
かく言う私もここへは一度だけ訪問しましたが、ここで紹介した全ての銭湯やこのリバティーを含め、今はその痕跡すら無くなり人々の記憶から消え去ろうとしているのです。
思い返せば祖母や父と手を繋ぎ、シャンプーにタオルに着替えを詰めた桶をぶら下げて、暗い夜道をテクテクと歩いて通った銭湯の道中は、今からしてみますと確かに面倒くさいことだったけれど…。
何でも効率化を叫ぶ令和の今からすると、もう味うことすら難しくなった体験なのかも知れませんね…?






























