時は昭和20年7月9日の真夜中のこと…

 

生死の間をさまよった、かの 和歌山大空襲 を体験した母からすると、あの空襲警報のサイレンを聞くだけで身の毛がよだつようである。

 

 

 

 

これは、現在でも甲子園球場の試合開始などでも聞くことが出来るあのサイレンとほぽ同じ音色であるんだけれど、戦後はこの技術を応用して ミュージックサイレン というものが登場していました。

 

     

 

すなわち、サイレンを平和の象徴として位置づけ、その初期に製造されたものの一台が岸和田市役所の屋上に設置されたのは1954年のことであって、どうやらこんな感じで動いていたようです?

 

(※wifiのある環境でご覧ください)

 

 

 

幼少期から30歳くらいまでを過ごした当時の岸和田では、朝の6時とお昼12時、そして夕方の18時と22時にミュージックサイレンが流れていまして、市役所から1kmほどの距離に住んでいた私の家でも、その音色はハッキリと聞こえましたね!

 

ただ、昭和50年頃の私は鼻垂れの小学生だったため、さすがに朝6時には起床出来ず、図らずも朝サイレンの記憶はほぼ無いんだけれど、今こうして聞いてみると名曲でなんですね!

※小田進吾氏作曲の「朝」

 

 

 

 

そして、こちらはハッキリと覚えている夕方のミュージックサイレンは名曲「荒城の月」で、これが鳴ると必ず帰宅しないと母からの雷が落ちるのが日常茶飯事でした。

 

 

 

 

ただ、こうして聞いてみると、あたかも素人の吹くハーモニカのようでぎこちない感は否めませんが、当時は大阪府下では岸和田市と池田市のみにあったようで、後に 騒音問題 やらで現存はしていないようですが…?

 

昭和30~50年頃に岸和田に住んでいた者であるのなら、ほぼ誰もが記憶に残っているのが、この ミュージックサイレン でもあるのです。

 

 

 

 

他方、昭和50年代の岸和田市民を悩ませていたのがありまして、これが 光化学スモッグ というものでした。

 

かつての泉州沿線の各都市は、風光明媚な砂浜が特徴だったのですが、昭和40年代に入りますと岸和田市も埋立地を造成し、そこで新たに工場などが乱立したことから、その煙突から出る 排気ガス が太陽光線と交わって化学変化することで、大気が淀む現象が頻繁に起こってしまいました。

 

     

 

まあ、わかりやすく言いますと、 辺りが霞んで目がチカチカする 現象が現れるのですが、当時の岸和田市内にあった小学校では、この光化学スモッグの濃度を、予報、注意報、警報、緊急警報と四段階に分けていました。

 

で、これがだいたいお昼前後に発令するんですが、当時の岸和田市立朝陽小学校では、校舎の3階に各々の色が付いた大きな旗を掲げまして、基本は屋外に出ないようにと一斉放送がありました。

 

     

 

 

 

ただ、給食後から五時間目までのひとときは、当時の児童にとっては格好の 遊びタイム でしたが、これが発令されると運動場には出られませんでしたので、この時は憎きスモッグでもあったのです。

 

     

 

 

 

加えて、今はどうか知らないんだけれど、当時の岸和田では週に一回五時間~六時間目に合同体育 というものがあって、その学年全員で通し二時間運動場での授業がありました。

 

 

 

 

でも、これが嫌で嫌でね…💦

 

組体操とか器械体操なんかも嫌でしたが、 一番嫌だったのが1000m走 で、3分以内にゴールしなければ失格という厳しいルールがありました。

 

     

 

おまけに、給食食ってからの炎天下の運動場でっせ!

 

ですから、もうこんなん 途中で嘔吐する者が続出  したりと阿鼻叫喚の授業でしたが、子供心であってもなぜこんなことをさせるの?と思いましたが、時には救世主が現れることもありました!

 

     

 

それが、くだんの光化学スモッグであって、注意報が出ますと合同体育が中止になりますから、時には児童を苦しめたヤツでしたけれど、時には児童の味方をしてくれる正義の味方が光化学スモッグだったのです。