「喉もと過ぎれば熱さ忘れる…」ということわざのごとく、毎年8月15日の 終戦記念日 を境にして、戦争関連のテレビ番組や体験談などを語った記事なども、一気にその姿を消してしまった。

 

そして、いわゆる先の戦争体験者が高齢化するにつれて、その伝承が危ぶまれて久しいが、それまで重く口を閉ざしていた母の口から、先日 和歌山大空襲 の話を聞くことが出来たので、少し書いてみようと思う。

 

 

 

 

我が国は、昭和20年に入ると制空権も制海権も奪われてしまったことから、その3月に東京や大阪の主要都市が壊滅的な大空襲をうけてほぼ焼き尽くされてしまったため、連合軍は6月を過ぎると 地方の中小都市 を次のターゲットに定め、そのひとつに和歌山市の中心部の空襲も含まれていました。

 

 

 

 

 

さて、時は昭和20年7月9日の真夜中のこと…、

 

私の母は当時7歳で、和歌山城に近い繁華街の 小松原通 というところに祖母とふたりで住んでいました。

 

 

 

 

そして、夜中は 灯火管制 を守って電球の灯りが外へ漏れないように、それにカバーを被せていたのですが、夜の10時半を過ぎた頃に 空襲警報のサイレン が鳴り出したと言います…。

 

 

そこで、防空頭巾 を被って親子が手をつないで外に出てみると、ほどなく爆弾が大量に降ってきたそうであるが、これが一般市民を無差別で殺傷する和歌山大空襲のはじまりでもあったのです。

 

 

 

真っ暗な闇夜に、次々と赤い閃光を放ちながら落下する爆弾は、ある意味美しくも見えたそうだが、我が国の木造家屋を焼き払うため、中にゼリー状のガソリンが入った厄介な爆弾だったので、みるみる火の手が広がったと言います…。

 

 

ただ、当時は「隣組」という風紀があって、火災が発生した場合は近隣で助け合い、いわゆる バケツリレー なども何度か練習したらしいが、とても人力で消火できるレベルでは無かったので、皆がとにかく炎から逃げようと、散り散りバラバラに走りだしたのでした!

 

 

 

 

と、祖母と母が無我夢中で逃げている途中に、運良く防空壕があったのでふたりで入ろうとしましたが、その全てが満員で入れてもらえなかったのでした。

 

 

 

 

これが運の尽きだったのか、どうなのか?

 

 

しかし、防空壕に入ることが出来なかったため、更にふたり逃げ回ったのですが、どんどん勢いを増す炎と熱気を少しでも和らげるため、祖母は途中にあった 防火水槽に溜めてあった水を頭からかぶり 、母にもそれを掛けて更に走って走って走って逃げたそうである。

 

 

 

しかし、結論から言えば不幸中の幸いとはこのことで、後に防空壕に逃げ延びた大半が、いわゆる爆風によって 蒸し焼き になったことと、あまりの熱さから水を求めて 和歌山城の堀 に飛び込んだ多数も命を落とした現実があったのです。

 

 

 

さて、どこをどう通ったという記憶は無いらしい…?

 

ただ、住まいが市の中心部で爆弾を投下する目標だったため、その外側へ上手く逃れたのが運命の分かれ道だったようで、ほどなく走ると水田があったので、そこへふたりで飛び込んで身を丸くしていたと言う…。

 

 

しかし、爆弾は容赦なく投下され続けたものの、水田のために発火することが少なかったらしいが、祖母や母の真横で ズブ! ズブ!… と音をたてて落下してきたので、あと数cmずれた場所で丸くなっていたのなら、確実に命中して命が無かったと言う…。

 

 

 

 

 

この世に生きとし生けるもの全てに運命があり、その道から逃れられないのかも知れないけれど、奇しくもこの 和歌山大空襲 の日だけは、ふたりが生き延びるという運命を背負っていたのであろうか…?

 

 

         

 

 

実は、私が30歳を過ぎたあたりから、母に何度もこの大空襲のことについて尋ねていたものの、目の前で次々と人間の命が無くなるという惨い瞬間の記憶がよみがえるようで、永らく口を閉ざしていたが、先日ようやく話してくれた…。

 

ただ、私とてあくまで聞いただけで、どう空想しようが妄想しようが、この大空襲を体験した者ではないけれど、間違いなく言えることは その生き延びた母から私に命がつながった という事実であろう!

 

と言うか、我が国に今生きる全ての人達は、先祖が先の大戦をくぐりぬけてきたために つながった命 であって、そう考えると、私たちは今を生かされているということではないだろうか…?

 

遅ればせながら、この歳になってようやく命の重さがわかってきたような気がした…。