大阪の繁華街でもある「ミナミ」に属する 天王寺 の魅力と謎を調査するシリーズで、今回は後編になります。

 

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前述のように、天王寺付近に風俗店はもちろん、公営ギャンブルの発券所なども無いため、いわゆるそれらの層の方々が圧倒的に少ないこと。

 

そして、若年層の女性の意見として多かったのが、いわゆる ナンパや風俗店のスカウト などから声を掛けられる確率は、ミナミを10とした場合、天王寺はほぼ0と言うことなのです。

 

     

 

あと、インバウンドで賑わうミナミと比較しても、天王寺はその絶対数が少ないため、それがひいては女性陣やファミリー層らがショッピングを楽しみやすいと言わしめる環境が整っている証拠ではないでしょうか?

 

 

 

 

加えて、 街そのものがコンパクトなので買いやすい という意見も大半を占めました。

 

     

 

 

 

例えばなんだけれど、日々の買い物であっても イオンモール のような大きな売り場面積を誇る施設よりも、近所のスーパーの方が買い良いのと同じように、皆さんがそれぞれ目的を持ってピンポイントで買い物されているということでしょう。

 

     

 

すなわち、近鉄百貨店のスイーツだけ買おう!とか、

はたまた、ついでにキューズモールで化粧品を見て、MIOでランチして…という場面であっても、キタやミナミと比較して選択肢は少ないものの、 コンパクトな街並みゆえに移動距離が圧倒的に短く 、それがひいては買いやす(歩き疲れない)いという印象を与えているように思うのだが、如何だろうか…?

 

 

 

 

そして、もうひとつは 謎の部分 である!

 

これはお題にもあるように、なぜ一帯を 天王寺 という呼称を使用するのかという疑問である?

 

例えば、こちらは御堂筋線の路線図で駅名は 天王寺 なので呼称は「天王寺」でも良かろう!

 

     

 

あと、阪堺電車も実際の立地は阿倍野区なんだけれど、同じく駅名が「天王寺駅前」なので良かろう!

 

     

 

しかし、近鉄南大阪線の場合は「天王寺」では無く、 阿部野橋 が正式名称なはずなのに、沿線に住む何人かに問うたところ、 「阿倍野橋へ行くとは誰も言わず、天王寺に行く」 と皆が答えたのである???

 

 

 

 

実際のところ、JR天王寺駅は天王寺区に入っているものの、道路を挟んで近鉄百貨店やキューズモール、はたまたアポロビルなどの 商業施設のほとんどが阿倍野区に属している のにのに、なぜ皆が皆「天王寺」と呼ぶのだろうか?

 

     


「あべの」と発音しづらいのだろうか…?

 

 

 

日本人は古来より「三文字」の呼称の方が呼びやすく、覚えやすかったりするので、例えば「太郎に花子」、はたまた「トヨタにアサヒにイオン」…とい名称のようなものが多いんです。

 

つまり、 て・ん・の・う・じ という濁点の入った五文字よりも、 あ・べ・の の方が絶対言いやすいし覚えやすいのであるが…?

 

例えば あべのハルカス に上ったとしても、「今日あべのに行ってきてん!」とは言わず、「天王寺に行ってきてん!」と言うのである!

 

なぜだろうか???

 

     

 

 

 

 

ただ、これは同じ大阪府でも高槻や豊中の方にとっては全く違っていて、「あべのに行ってきた!」と言うのかも知れないけれど、どうやらこれは大阪南部に住む者特有の表現と言いますか、アルアルのようなものかも知れないのです?

 

まあ、少し蛇足にはなるんだけれど、菊池桃子の桃子は モ↑ モ↑ コ→ と発音するのに…

 

     

 

ハイヒールのモモコは、 モ↓ モ↓ コ→ と発音するように、その土地土地特有の言い回しが古くからあって、仮に親を含めた祖先が一帯を天王寺と呼称していた地域特有の遺伝があって、それが今も脈々と続いているのかも知れないんです?

 

      

 

 

さて、何ともまとまりの無い内容になってしまいお恥ずかしい限りなのですが、天王寺界隈は今でこそ地元の方々、特に女性陣にとって 買い物のしやすい安全な街 という認識が強いのですが、私が学生だった昭和50年頃は近づくのも嫌で、失礼ながらキタやウメダよりも数段格下の街という印象が強かったのです。

 

 

 

 

すなわち、今は綺麗になった 阿倍野歩道橋 ですが、当時は屋根すら無い無機質な歩道橋だっただけでなく…

 

     

 

特に昭和50年代中頃以前はは、いわゆる先の大戦で負傷された 傷痍軍人(しょういぐんじん)の方々 がいらっしゃって、物乞いしていたり、楽器を演奏していたり…

 

     

 

※グリーマックマス日本橋店長(阿倍野区在住)に聞きますと、傷痍軍人の方は歩道橋より一心寺前の方が多く居たそうです。

 

はたまた、 「私は三日間何も食べていません」 と書いた紙を置いて倒れている方もいらっしゃったりと、キタやミナミでは絶対目にすることの無い強烈な光景はトラウマのごとく今でも焼き付いているので、今でもあまり天王寺は好きになれないのです。

 

ですから、ここ数十年で大きく変貌した天王寺の街を見ていますと、往時の面影は微塵も無くて綺麗になったのですが、よくよく考えてみますとそれだけ私自身が年齢を重ねてジジイになったという証拠なんでしょうね…(笑)