今や大阪を代表する観光スポットになってしまった USJ ですが、先頃に植え込みから人骨が発見されたとの報道がありました。
ただ、場所的に言いますと、一般客が入るところでは無い外周道路に沿った植え込みなのですが、気味悪い事件と言えばそうかも知れませんね?
さて、そのUSJがある一帯は、平成の初め頃までは工場地帯でして、造船や金属などの重化学工場が林立していた場所でしたが、反面住んでいる人がほとんど居ない地域でもありました。
ですから、それらに通う通勤客らはもっぱら西九条から 国鉄桜島線 に乗るルートしか無いので、朝夕だけが半端なく混雑する路線でしたが、この区間の車掌として私が乗務していたのは昭和の末頃からでした。
当時の桜島駅のホームで、折り返しの間に同僚に撮ってもらった1枚です!
※桜島→西九条→京橋(森ノ宮)に帰る運用の時
今の航空写真を照らし合わせてみますと、当時の国鉄桜島駅は今で言うところの USJロンバーズ・テラス の辺りにありまして、古ぼけた駅舎がありました。
※←は現在のJR桜島駅/□が当時の国鉄桜島駅
若かりし当時に配属されたのは 京橋車掌区 というところでして、大阪環状線と片町線に加え、こちらの桜島線を主に乗務していましたが、入りたての新米車掌の頃は、この桜島線がよく割り当てられていました。
さて、新米車掌には 桜島線封じ込め行路 というものがありまして、要は夕方のラッシュ時から同線に乗務し、ピークの終わった22時頃に仕事を終えて一旦 仮眠 し、翌日は始発から再び朝のラッシュ時まで乗務して、そのまま電車を森ノ宮区まで送り込む(車掌は京橋駅まで)ものでした。
※車掌が携帯する行路表イメージ
それと、前述のように朝夕以外は閑散としていた路線でしたから、私が仮眠している間は、もうひとりの車掌が終電まで乗務し、翌朝は6時頃からしばらくは 二人の車掌だけで で回していたのです。
で…
当時の車掌の仮眠室は、桜島駅のちょうど2番線の車止めの先にあった小さな小屋の2階に2室ありまして、その日も乗務を終えた私は床に就くことにしたのです!
ところが、夏のとある暑い日に就寝していますと、突然 ものすごく強い金縛り に襲われてしまったのです!
もうこんなん…
身動きでけへんし、声なんか絶対に出ないし、それよりも何よりも怖くて怖くてオチッコちょっとだけ出てしまいましてん!
すると、しばらくして兵隊さんだったかな?
日本陸軍のような軍服を着た男性が一人枕元に立っていて、言葉にならない言葉で私に語り掛けてくるではありませんか!
もう、ごめんて~~~!
助けてパパ~~ヤ~~!
ぶっちゃけた話し…
今だからこうしてブログとして書けるんだけれど、その瞬間は心臓止まるちゃうかと思うほど怖かったのです。
でも、何とかかんとか翌朝の乗務を終えて本区へ帰りまして、当日乗務していた もう一人の車掌 も帰って来たので問うてみますと、私と同じ体験をしたとのことでした。
車掌というのは、乗務が終わってから本区に帰り、 帰着点呼 というのを受けるのですが、昨夜仮眠中に起こった出来事を二人の車掌が口を揃えて語ったため、瞬く間にその噂が車掌区内で拡散し、翌日から皆が 桜島駅に泊るのを放棄 したのです!
そうなりますと、桜島線そのものが運行できなくなりますから、車掌区長をはじめ当時の 大阪鉄道管理局 も事態を重く受け止めたようで、そっさく現地へ出向いて原因を探ったようです…?
先に述べましたように、国鉄桜島駅周辺は工場が林立していることから、戦時中はほぼ全てが 軍事工場 として稼働していました。
※イメージ
ですから、当然アメリカ軍の 格好の空襲目標 となりまして、終戦間近の 昭和20年7月24日の大空襲 では、一帯全てが焼き尽くされたのです。
以下、「大阪市内で戦争と平和を考える」より転載します。
1945(昭和20)年7月24日
10時44分約1時間半
大阪上空高度6000~7000メートルに飛来したB29は119機 。
早朝からB29の目標は6月26日同じく此花区の 住友金属桜島工場 と大阪陸軍造兵廠(砲兵工廠)と2つの軍需工場への精密爆撃であった。
住友金属に対しては82機が爆撃し、この攻撃で住友金属は壊滅した。
そして、この空襲を受けた住友金属の南側に隣接していた桜島駅でも、職員16名の殉職者を出していたのです!
戦後すぐの1947年の航空写真を見てみますと、辺り一面が見事に粉砕されていますから、職員以外に亡くなられた方々も相当数いらっしゃったと想像できるのです。
※←桜島駅/〇は現在のUSJ
ですから、桜島駅で殉職された方々を含め、無念の最期を遂げられた周辺の方々を鎮魂するため、どうやら仮眠室の裏側に 慰霊碑 が建てられたのですが、それが誰にも手入れされず草ぼうぼうの状態で、長期にわたって放置されていたことが判明したのです!
実は、この桜島線は全長4kmほどの短い路線ですが、先に述べましたように工場が多かったため、そこに通う通勤客らで戦前からたいそう混雑する路線でした。
そして、悲しくも昭和15年の1月に、隣の 安治川口駅 で通勤列車が脱線して189名の死者を出す大惨事があり、それは事故があまりに大きかったゆえに、 慰霊碑 が現在のJR貨物駅詰所の駐車場に建てられました。
※西成線列車脱線火災事故という
ご参考まで→
そして、現在は慰霊碑そのものが移動していますが、今でも献花が絶えないことと比較しますと、事の大小は別としてもその落差は激しく、現生に生きる私達が鎮魂しなくてはならない事なのです!
ですから、誰にも見向きすらされなかったこの慰霊碑の周りを綺麗に除草し、献花を捧げてお坊さんにお経をあげて頂いたところ、そのような現象は以降ピタリと一切起こらなくなってしまいました。
そう考えますと、私達が仮眠した当日は奇しくも 7月24日 だったかも知れず、無念の最期を迎えざるを得なかった先人たちが、それに気付いてほしいとメッセージを私達に託すため、枕元に現れたのかも知れませんね…?
もちろん、今はUSJの敷地内にのみ込まれてしまいましたが、もしも移設されているとしたのなら、今でも 献花が絶えない慰霊碑 であってほしいと願うばかりなのです。