昔も今も、社会に出ると思い通りにならないことが多い。

 

例えば、会社は売上げを上げよと言うけれど、経費を節約するためにあれこれ注文される始末…

 

つまり、ドライバーさんなら燃料をカットされたものの、今まで通りのスピードで走れと指示されるので、その不文律が常にプレッャーとなり、それが引き金となってヒューマンエラーを起すのである。




 

さて、前回の続きである。

 

前回のブログは、こちら→ http://ameblo.jp/dmh17c/entry-11993234433.html

 

我が国が、大陸での戦火を拡大させていった昭和初期の頃に、それを支えるために大阪の臨海部分に軍需工場が林立しはじめたが、その工員さんの輸送を担っていたのが 西成線 であって、今は「JRゆめ咲き線」と言われている。

 

 

そして、昭和15年1月29日の朝のラッシュ時に 大事故 が発生してしまったのだ!

 

 

 

 

 

 

つまり、遅れていた3両編成の列車がポイント(分岐機)を通過した後に、 手動でポイントを切り換える手 であったが…。

 

 

 

 

 


 

 

しかし、すぐ後ろに後続列車が迫っているため、早く道を開けなければならないことと、これが遅れると反対列車も連鎖的に遅れてしまうので、よけいに燃料を食うと考えた「信号係員」は、あろうことか 3両目の車両が通過中にポイントを切り換え てしまったのだ!

 

 

 

 

だったら、どうなる?

 

 

 

 

 

 

前の車輪は左へ、そして後ろは右へ…

 

バランスを崩した列車は、ほどなく横転してしまったのだ!

 



 

 

 

 

 

 

ただ、超満員の車内であったけれど、この瞬間にはまだ多くの生存者が居たようなのです…?

 

しかし、床下に燃料を抱いている ガソリンカー だったので、すぐさま燃料に引火したことに加え、おりからの乾いた西風に煽られてしまい、またたくまに炎に包まれてしまったのです!

 

 

 


 

 

見えないプレッシャーから来る 焦り に加え、列車が通過中でも 簡単にポイントを切換えシステムが招いたヒューマンエラーであるのは間違いないんだけれど、逃げ遅れた方を含めて死傷者は250人を超す 未曾有の大事故 となってしまいました。

 

しかし、近年に発生した脱線事故とは、少しだけ違っていました…。




 

つまり、福知山…では同乗している社員も車掌も救護すら放棄していたけれど、この列車の車掌だけは違っていました。

 

大味彦太郎車掌 は、横転した車内から車掌室の窓ガラスを叩き割り、自らが 下半身が火だるま になりながらも、自らの肩を踏み台にして、可能な限りの乗客を救うことに尽力されたのでした。

 



 

おまけに、病院に運ばれてから痛い痛いとうめきながらも、「気の毒なことをしてしまった… 乗客の皆さんはどうですか?」と、気づかいなが絶命されたと言います…。  (妻と2歳の子供が居た)


 


 

そして、この事故をきっかけに、列車の通過中には ポイントが換わらないシステム に変更されたことと、やはり「ガソリンカー」は危ないと言うことで、急ピッチで電化工事が開始され、翌年には完成しました。




 

さて、事故から75年が経過した現在の事故現場です。

 



 

USJが近いこともあり、車窓からは笑顔がたくさん見えたけれど、実は過去にあった出来事をきっかけにして、今の安全があることを改めて感謝しなければならない!

 

ただ、かつてはこの踏切の脇(JR貨物詰所の駐車場)に慰霊碑があったのだけれど、今は無い…

 

はて???




 

そこで、隣接する貨物駅の係員に問うてみると、反対側のホームのはずれに移設されたと言う。

 



 

 

訪ねてみますと、長い年月を経て今なお花が絶えることは無いようで、私も合掌してきました…

 

そして、慰霊碑の裏面には、この事故で犠牲になられた方々の名が刻まれているが、かつて私も車掌として乗務していた線区でもあり、その意味では大先輩でもある くだんの車掌 の名も、その中にありました…。

 

この稿、終わり