文明の利器と申しましょうか、スマートホンから YouTube にアクセスさえすれば、例えそれが寝間の中だったとしても、色んな動画が楽しめたりする便利な時代になりましたね!

 

で、先日寝落ちする直前に何気に観ていて気になったのが、1961年 英映画社制作 「スラム」 という動画です…。

 

         

 

「NPO法人科学映像館」というチャンネルで、当時の大阪市、京都市、神戸市に残る低所得者層住宅を撮影したドキュメントでしたが、若干時代が前後するものの、当時の街の様子や習慣などを動画の内容と絡めながら回想してまいりたいと思います。

 

 

 

私が生まれたのは昭和39年…

この映画は昭和36年の製作ですが、私の幼少期の記憶と照らし合わせますと、さほど大きな違いは無いばかりか、私の住んでいた近所には動画と同じく細い路地が多くあって、場所によっては迷路のようにもなっていました。

 

        

 

おまけに、水道が通っていない家もままありましたし、集落の中心には共用の井戸と炊事場とトイレなんかもあったのですが、失礼ながらこの地区の友人らは、なぜか至って全員が 健康優良児 で、陽気で活発な子が多かったですね!

 

 

 

 

私の時代は風前の灯でしたが、まだ近くの公園には 紙芝居屋 さんが来ていて、今から思えば不衛生極まりないのですが、手すら洗わないおいちゃんから、1本10円の水飴やタコ煎なんかも買い求めていましたし…

 

         

 

道で勝手に営業する ポン菓子屋 もありましたし…

 

               

 

子供相手の駄菓子屋 兼 お好み焼き屋なんかも各町内に2~3軒はありましたが、これまた極めて不衛生だったものの、一度も腹痛を起こしたことがありませんでした。

 

         

 

         

 

参考↓

 

 

 

 

あと、友達んちも今みたいに冷暖房なんかは全く無くて、大半が木造の古い家屋で、歩くと床がギシギシと鳴っていましたし、雨漏りなんぞは定番中の定番でしたし…

 

         

 

食事もね…

電子レンジなんぞは当然あるわけが無くって、夜ご飯であっても冷たいご飯にオカズが1品が定番でしたし、それも硬いクジラの赤肉炊いたんとか、魚の煮つけが丸々出て来たりしたものの、年齢的に綺麗に食べることが出来ないはずなのに、それに立腹した親にいつもシバかれていましたから、食事中は終始ピリピリとした空気が流れていました。

 

         

 

おまけに、ちゃぶ台+畳ですから 正座で無言で早く食べる ことが食事のルールと教えられていましたので、痺れた足を崩そうものなら、これまた躾と称してシバき倒されていました…(汗)

 

ただ、給食で余ったパンを家族の夕食にと持ち帰る子も何人か居た時代でしたし、ブラジルへ移民した同級生も居ましたから、まだまだ庶民の暮らしが一向に良くならなかった頃だったと回想できるのです…?

 

 

 

 

さて、この スラム という動画に興味がおありでしたらご覧いただくとして、お次は劇中に登場する場所はいったいどこなのかを推理するのに加え、 定点観測 した場合に今はどうなっているのかも調査してみました。

 

 

 

ます、冒頭3:00~の空撮シーンですが…

 

         

 

流石にいくら何でも、このワンカットだけでは判断できませんが、手掛かりとなるのは左隅にかすかに映る高架の線路に加え、空撮が右旋回した先の場所3:20で、ほぼほぼ場所が確定ですね!

 

         

 

中央に映る電車は、我らが 阪堺線モ205 でして、ポイントの渡り具合から判断して、左手には 恵美須町駅 があるはずですが…?

 

 

 

 

後の8:10~の動画も含めて、改めて考察してみますと…

 

         

 

これは間違いなく、南海高野線「今宮戎駅」から南を撮った動画でして、右奥に見えるビルのような建物は、恐らく今宮工科高校の校舎ですから、その左下眼下(南海の高架よりも東側)に映るのが、この映画に登場する街ということなのです!

 

 

                 

 

 

 

と言うことから、改めて1963年頃の航空写真で観ますと、この赤い区画がスポットが当たった街であることは間違いありません。

 

         

 

で…

冒頭の空撮シーンの現在の様子がコチラです。

 

         

 

 

 

 

お次は前後して6:40~の木賃宿の風景で、これは当地西成の一部分で今も残っている光景なのですが、1961年には黄色い 新富旅館 という看板と、背景に通天閣が映っていますね!

 

         

 

と言うことは、通天閣の南側1kmと想定されますから、この場所の現在の様子と言いますと…?

 

※Googleの少し前の画像 ↓

         

 

 

※実際の2022年2月/現在の様子 ↓

         

 

 

惜しくも火災にあって旅館自体が全焼してしまい、今は取り壊されてしまいましたが、新富という看板が往時を偲ばせてくれています。

 

 

 

 

お次は、住民らが仕事に汗する17:37~のシーンです。

 

         

 

数人で重い鎖のようなものを運んでいますが、 なんば行き と表示された大阪市バスに追い越され、道路には路面電車の線路が見て取れます。

 

と言うことは、そこそこ広い道路で難波方面の北行きに歩いている訳なのですが、17:42では背後に大阪市電が横切っていますし…

 

         

 

加えて、17:45~の背景に映るのは 古書店 ですから…

 

         

 

 

 

 

これら全てに合致する場所と言えば、恐らく今の堺筋 でんでんタウン の南端、阪神高速 えびす町入口 辺りで間違いは無いと思います。

 

         

※Googleより借用

 

※現在の「でんでんタウン」は半ばアダルト店を含めた オタロード の様相なのですが、戦前~昭和30年頃までは全国有数の 古書店街 といて名を馳せていました。 

ただ、家電店の勢力が拡大したあおりを受けて、後に大阪球場の一角に店舗を集積して古書店街として再起を図りましたが、今は球場自体も無くなって消滅してしまいました。

   

 

 

 

最期に29:00~のシーンでは、無造作に建てられた住宅を一掃し、住民らを一旦 仮設住宅 に移住してもらい、区画整理をして新たに団地を建てようという流れになっています。

 

         

 

背景に映るのは、これまた南海電車の今宮戎~萩之茶屋(当時新今宮駅は未開業)ですので、今はこんな感じに変貌しています。

 

            

 

左のグランド付近に仮設が建てられ、元々の街は右一帯に広がっていたと思われますが、定点観測を今の地図に照らし合わせてみますと、だいたいこんな感じかと思われます…?

 

         

 

 

 

時代背景から考察しますと、まだまだ終戦から10~15年ほどしか経過しておらず、復員兵やベビーラッシュを含めて人口が急激に増えたのもこの時代でした。

 

ですから、とにもかくにも 住宅難が深刻化 していた時期でしたので、行政も復興事業や団地の建設と並行して雇用を生み、これが彼らの収入源となり 高度経済成長 へと繋がっていくのです。

 

         

 

 

がしかし…

あれだけ各々が各々の特徴や趣を持っていてた街々が、再開発という美名の元に一掃され、どれもこれも 金太郎飴 のような街ばかりになってしまった今から回想しますと、あの頃の大阪の街は活気にみなぎっていたことが劇中からも伝わってくるのです!

 

 

都市部はどこの駅前で降りてもマンションとコンビニだらけ…

すなわち、東京も大阪も福岡も宮城も、どこも同じ街にしか映らない令和の時代は、あの時代を生きた者からしますと、どことなく味気無いと感じてしまうのです…。