私が幼少から成人まで住んでいたのは、岸和田市の旧街道に近い下町である。

 

で、小学生当時は土曜日が昼までであったので給食は無く、当然昼食は家で食べるか、どこかで食べなければならなかった。

 

 

 

 

さて、それを当て込んでか知らないけれど、当時は町内に何軒かの 駄菓子屋 があった。

 

 

 

 

ただ、だからと言って駄菓子を昼食とするのでは無くて、その片隅を利用して子供相手に お好み焼き を焼いていた。

 

 


 

 

 

ただ、これは岸和田のごく一部の地域かも知れないけれど、正式には大阪風のお好み焼きでは無くて、広島焼きを簡素化したようなもので、 洋食 と呼んでいた。(メニューにも洋食とあった。)

 

 

 

つまり、現在で例えるならば キャベツ焼き に近いものであったが、一斉にやってくる子供達を上手くサバくために、水に溶いたしゃぶしゃぶのメリケン粉と少量のキャベツだけが具材であって、10枚近くを短時間で焼くことが可能であった。

 

 

 

 

 

(キャベツ焼きのイメージ) 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、その洋食の昭和47年当時の価格である。(洋食焼きとは言わない)

 

 

 

洋食 30円

 

 

玉子入り洋食 60円

豚入り洋食 60円

 

そば洋食 60円(そば半玉入り)

 

(たまご持ち込みは、焼き代10円)

 

 

だったと思う…?

 

 

 

それと、家で残った冷やごはんを持ち込めば、少量のキャベツと炒める ソース焼きめし にしてくれて、これだと焼き代が50円程度であった。

 

※イメージ

 

 

      

 

 

で、30円の洋食を、先日我が家で再現してみた!

 

 

 

 

こちらである。

 

 



 

 

ところで、低学年は30円が定番であったけれど、10円刻みで大きくすることが出来たし、高学年となると高給ランクである そば洋食 を注文出来ると言う不文律も確かにあった。

 

 

 

 

ただ、その「そば洋食」と言うのは、現在の広島焼きを貧弱にしたような感じであったが、これに豚や玉子を更にトッピング出来るのは6年生になってからだったと思う…?

 

 

 

 



 

さて、私が行きつけの店は、並松町の 丸一 という屋号で、現在も骨董品屋として盛業されているけれど、店主(おばちゃん)が体調不良の場合などは、いきなり休業することもままあった。

 

 

なので、そのな時は隣の下野町まで遠征し、同じような駄菓子屋に入るのだけれど、店が変われば当然メニューも価格も変わっていた。

 

 

 

 

 

 

で、下野町の旧街道沿いに住んでいた 奥出君 の家の前にあったお店は、屋号は忘れたけれど洋食が40円からで、その下に から焼き と言うのがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時の価格は20円!

 

 

 

 

 

 

禿げちらかした爺さんとその妻が切り盛りしていて、ベニヤ板のあちこちにチョークで数字が書かれていた店内であり、前述の「丸一」より不衛生な感じがした…?

 

 

しかし、安い分具材は無いに等しく、メリケン粉の上にナルトのようなカマボコが2~3枚乗っているだけで、これを再現したのがこちらである。

 

 


 

 

ひっくり返すのに見事に失敗したものの、今で言うクレープのような感じである。

 

 


 

 

しかし、この店の洋食は40円~高かったのと、母にそれ以上のお金(30円以上)を貰えなかったことから、丸一のおばちゃんが元気になることを、どれだけ祈ったことか知れない…?

 

 

 

 

 

さて、当時はごく狭義の話しであって、当時はそれを拡散する術は無かったけれど、今は細々した情報まで瞬時に伝わる時代になってしまったので、みんなの頭(知識)だけは大きくなっている。

 

 

 

 

 

そして、この岸和田でも「かしみん焼き」などの記述もあるけれど、私が通っていた 朝陽小学校区域 の、少なくとも並松町と下野町界隈では、そのような食べ物は存在していなかったと断言する!

 

 

なので、この地の駄菓子屋の片隅で焼いていた そば洋食&から焼き は、確実に後世に伝えようと思うのだ!

 

 

 

 

 

 

ちなみに、その駄菓子屋は今はほとんど存在していないけれど、50円を持って行って30円の洋食を食べると、必ずおばちゃんが 20万円のお返し… と言ってくれる時代であった。