最近はめっきり少なくなってしまいましたが、昭和40年代頃には、廃車になったバスを転用して 居酒屋や食堂、ラーメン屋 を営む店が、国道沿いなどに点在していました。

 

 

 

弊社のある松原市で言いますと、中央環状線南行きの「美原ロータリー」手前に一軒ありまして、今でも盛業されているようです?

 

         

 

もとはと言えば、新築で店舗を建てることを考えますと、廃バスをそのまま運転して敷地内に留め置き、内部を改造すれば小さなお店でしたら安価に即開業できますから、それはそれで人気もあったのでしょう。

 

ただ、近年はいわゆる テナントビル などが結構増えたことから、独立開業を目指す方々はそちらを選択することと、バス自体も老朽化したことも相まって、その絶対数は年々激減しているのです!

 

 

 

 

ところが、どっこい…

かなり古い廃バス食堂が、令和の今も残っていましたので、以下にリポートさせていただこうと思います。

 

実は先日、私用で和歌山市内まで出向いたのですが、帰路はバイパスを通らずに 旧国道 を通って、深日ロータリーの手前までやって来ました。

 

         

 

私の記憶が正しければ、恐らく昭和40年代から営業されているお店なのですが、旧国道の傍らに 廃バス食堂 がありまして、今は廃業こそされているものの、車体はそのまま現存していました!

 

 

 

 

約50年も経つんですけどね…

 

         

 

車体は当時のままでして、航空機の 掩体壕(えんたいごう) よろしく、半分が建物に飲み込まれているのが特徴のお店でしたが、車体そのものが崩れているほどの老朽化は見られませんね!

 

 

 

前に回ってみます。

 

         

 

 

バスにはあまり詳しくないのですが、ヘッドライトがひとつ目のバスですから、恐らく昭和30年代のシロモノかと…?

 

 

         

 

換気口のマークがスリーダイヤモンドですから、三菱ふそうでしょうか…?

 

 

 

そして、側面には社章のようなロゴマークがありまして…

 

         

 

一瞬、誰かがオチャラケで ウルトラ警備隊のマーク を貼ったのかと思いましたが…

 

 

         

 

 

南海電車とバスにめっぽう詳しい同級生のY君に問うてみますと、間違いなく通称名「しらきゅう」こと 白浜急行バス の廃車体だと解明してくれました。

 

 

         

※←がマーク部分

 

 

 

 

時代背景から申しますと、この車体でしょうか?

 

         

 

実は、決め手となったもうひとつの理由が、前面の塗分け部分でして、白地に裾が湾曲した紺色箇所が今もはっきりと残っているからでした!

 

         

 

 

 

社名が示す通り、南紀白浜へ向かう 長距離バス が前身でして、南海電鉄の子会社として開業したのが昭和30年ですから、当然高速道路などは存在せず、ひたすら一般道を走り、大阪から白浜まで7時間もかけて結んでいました。

 

         

 

すなわち、当時の 南紀白浜 と言えば、関西からの一大レジャースポットでしたから旅客需要は旺盛で、いわゆる 金の成る木 だったのですが、その流動の大半は国鉄紀勢本線を利用していました。

 

 

 

 

 

 

1972年3月の時刻表からの抜粋ですが、この頃になると大阪からの路線は廃止され、大阪~和歌山間は南海電車の特急で運び、以南を白浜急行バスが連絡する形になっていまして、曲がりなりにも国鉄を使わず、南海系列で大阪と白浜を結んでいたのです。

 

         

 

 

で、当時の白浜急行バスは1時間に1本が運行されていて、例えば和歌山市~田辺が約2時間半で900円也でした。

 

しかし、対する紀勢本線と言えば、特急と急行を合わせると1時間に2~3本で、和歌山~田辺が1時間30~40分、急行の自由席を利用すれば運賃込みで500円でしたから、国鉄の圧勝だったのです!

 

 

加えて、個人的なことを申せば、当時は私の母方が田辺に在住していましたので、夏のお盆と年末年始は私も含め、住んでいた岸和田から紀伊田辺までを何度となく行き来しましたが、その全ては 南海きのくに号 の利用でした。

 

つまり、ここまで運賃差があって鈍足となりますと、白浜や田辺や御坊在住の方の移動手段として、白浜急行バスの選択肢はほぼ皆無でしたし、バスをPRする広告や看板なども一切目にしたことはありませんでした。

 

 

      

 

※昭和40年白浜ロータリークラブ10周年記念映像(YouTube)より…  切目崎辺りで、国鉄特急に一瞬で抜かれる白浜急行バス。

 

 

 

 

では、なぜそこまでしてバスを死守する必要があったのでしょうか?

 

実は、以前のブログにも記しているのですが、当時は南紀白浜の利権を巡る争いのようなものがありまして、元々は和歌山市までが自身の庭である 南海電鉄 からしますと、同県の白浜温泉も 絶対国防圏 でありましたから、食指が動くのも当然の成り行きだったのです!

 

※こちらの後半で詳細を記しております。

 

 

 

 

 

 

ですから、大阪と白浜を結ぶ列車を戦前から走らせていて、戦後は自前で気動車まで作って国鉄線に乗り入れていましたし、白浜温泉にも自前でホテルの建設やロープウエイの運営などを行うことで大量の資本を投下し、南海陣地をより強固なものとしていました。

 

         

 

しかし、紀伊半島の反対側の三重県から、泣く子も黙る巨大資本を持つ 近鉄 が三重交通を介して南下しはじめ、現在も白浜の雄である 明光バス と資本提携を結んだのが昭和35年でした。

 

         

 

 

 

一説によりますと、元々は南海が明光バスを傘下におさめようと画策していたのですが、明光が南海を嫌ったため、あえて近鉄にSOSを出したとも言われています…?

 

 

 

 

ただ、こうなりますと白浜でのバスやタクシーなどの移動手段は、近鉄系の明光バスが独占した形になりましたし、白良浜の傍らにも ホテルむさし という大型ホテルを近鉄系が開業させましたから、下手すりゃ観光バスを持ってきて大阪の阿部野橋や上本町まで路線を延ばされると元も子も無いと考えたのでしょう?

 

 

ですから、この路線バスが儲かるとか儲からない以前に、南海側の防波堤の役割として運行されていたのが、 白浜急行バス では無かったかと推理できるのです。

※後に南海白浜急行バスに改名されます。

 

 

 

 

と言うことで、全く旅客に振り向きさえされず、ほぼ空気を運ぶだけの運命にあって、今は多くの人達に忘れられてしまった「白浜急行バス」でしたが、令和の今もひっそりとその車体だけが、彼の地で眠っているのでした…。