前回の続きである。
快適だった国道28号線のドライブを終え、淡路島最大の街でもある 洲本市 に到着したのはお昼少し前でしたが、島内最大のショッピングモールでもある イオン洲本店 に、車を停めました。
と言っても、元々が「ジャスコ」であったため規模が小さく、少し拍子抜けの感も否めませんが、ここを基点として、ゆるりと街を散策しようと思います。
ところで、「イオン」に隣接する広大な敷地には、 赤レンガの古い建物 があって、よくよく調べてみますと、元々は 鐘紡 洲本工場 の敷地だったと言うことでした。
古く 淡路紡績 として創業して以降、明治の後半に「鐘紡」に合併されたという歴史があって、傍らに 洲本港 を持つという立地の良さから、戦前までは繁栄を極めたであろうと、容易に想像がつきますね!
写真にある丸く囲った部分は、かつて「鐘紡の工場」があった場所で、今も昔も街の中心部に変わりありませんが、江戸時代の城下町さながらに、企業城下町として発展した洲本の街は、島の基幹産業として多くの雇用を生み出し、島の発展に寄与した功績は、紛れもない過去の事実でありましょう。
そして、前回の記事にも書きましたが、かつて淡路島には
電車 が走っていて、写真の↑部分に 洲本駅 がありました。
同行した子供さんらには内緒なのですが、実は街を散策するという風にして、実はこの駅跡を見たかったと言うのが私の本音でした…(汗)
その証拠に、現在も残る 駅前 の表示!
廃止されてから50年ほど経つのにも関わらず、現存している姿に涙チョチョ切れ!
で、現在はバスの車庫として活用されている場所が、まさしく駅の跡地でした。
そしてそしてだ!
建物の裏へ回りますと、かつての駅舎が今もそのままに近い形で残っていたのでした!
今は決して開くことのないシャッターですが、
かつてはこの向こうには待合室があって…
2階にはレストランがあったそうです。
もちろん、私とて廃止された昭和41年には2歳であって、記憶もへったくれも、訪れたことすら無かった鉄道なのですが、今は何の変哲もないビルであっても、かつては 洲本のランドマークとして君臨していた時代が確かにあったのです。
そして、洲本と福良を結ぶ鉄道線は、5000人/日の輸送人員を誇り、日中は30分毎に運行されていましたので、決してうらぶれたローカル線では無かったのです。
ただ、これほどの輸送人員を誇り、時代背景を考察しますと、鉄道として残す選択肢はあったはずですが、だとしたらどうして廃止の道を辿ったのでしょうか?
現在でもそうですが、 淡路交通 という企業は元々バス会社であって、鉄道は傍らの部門という位置付けだったのでしょうか…?
加えて、晩年は単線電化という設備だったものの、これを自前で維持していくには膨大な資金が必要であるのと、片や国のインフラ(道路)を利用できるバスとでは、コストに大きな開きがありました。
また、南海や阪神などの中古車両を譲り受けていましたが、いずれも小型車だったので、これならバスでも代替できると踏んだのかも知れません…?
他方、「もはや戦後ではない」と言われた時代にあった大手私鉄は、その勢力を自社線を越えて拡大していった時期でもありました。
すなわち、南海を例に採ると、大阪南部から和歌山県下はもちろんのこと、後年には徳島県下のバス会社をグループに入れるほど、勢力を拡大していった時代がありました。
要は、 南海圏の拡大 でした。
ですから、もちろん淡路交通もそのターゲットに入っていたであろうし、よしんば中古車両を譲渡した関係もあって、それを模索していたのは間違いないかと…?
ただ、やはり南海としては、我が庭とも言える和歌山県下の勢力拡大が最大の目標であって、自前の国鉄線乗り入れ車両を用意したのはもちろんのこと…
和歌浦の「萬波」
白浜の「ホテル パシフィック」
勝浦の「中の島」
本宮の「湯の峯荘」
などの宿泊施設の整備にも尽力した歴史がありましたし、それはかつて存在していた汐見橋駅の案内図にもあったように、自社線でもない南紀部分を誇張して描いていましたし…
驚くことに淡路交通鉄道線の部分は、 自社線と同じ赤線 で描かれていました。
と言うことは、間違いなく、「淡路交通 鉄道線」を傘下におさめようとしていた証拠とも言えるのです!
ただ、事が全て順風満帆に進んでいれば、恐らくシナリオ通りに進んでいたでしょうが、南海の「絶対国防圏」 を脅かす外敵が登場したのも、この頃でした!
すなわち、三重県下に路線網を持つ 三重交通は、
その親分が「近鉄」という超大企業であって、南紀方面の甘い匂いを嗅ぎつけて、伊勢方面から食指を伸ばしてきたのでした!
元々、湯浅周辺の中紀を起源として発展した 明光バス は、後に白浜一帯をほぼ独占してしまうのですが、それを当時の南海が傘下に治めるべく動き出したのです!
しかし、これを嫌った「明光バス」が近鉄にSOSを発して傘下に入り、後に「ホテルむさし」を建設するなどして、「南海圏の拡大」に楔(くさび)を打ち込んで押し返しますが…?
ただ、こうなると資金面でも近鉄と互角に戦えない南海は、新宮方面で 「熊野交通バス」 を傘下に、白浜では 「南海白浜急行バス」 を設立して対抗するのですが、ここまで来てしまうと他の地域での勢力拡大に向ける資金が底をつき、結果として淡路島への進出を放棄せざるを得なくなったとも読めるのです…?
歴史にイフは無いけれど、
もしも 淡路交通鉄道線 が南海グループに属していたのなら…?
今も淡路島に電車が走っていたでしょう!
つづく