自分だけが充足していれば、良い。
人のカルマは引き受けないのが、重要だ。

 

そういうと、誤解が生じそうだけれども。

 

でも、真理だ(HPSも持っている私には、特に。)

 

補足すると。
個人が内側で、充足していることこそ、
他の人々に、幸福をもたらす、唯一の道でもあると感じていて。

 

なんせ、発達障害持ち凡人未満の、私に限ってのことかもしれないけど、
自分のものではない、自分以外の人のカルマを引き受けてしまうと、
自分の充足を汚し、汚染するなと。

 

それは、本末転倒だ。

 

カエサルのものは、カエサルに。
人のカルマは、その人に。

 

真に内側の充足を保っている人は、
人のカルマを一切、引き受けないのに、
真に内側で充足している人といると、
カルマが、薄まっていく。

 

内側の充足こそ、基本だあねと。

 

場面に応じてよく使われる英語の常套句、

I'm here for you. 

というのは、お役に立ちまっせという、やることじゃあないなと。

 

いっしょにいる、それだけ。

 

どうであれ、平和(充足)に、いる、それだけ。

 

平和じゃなかったら、
まず、自分だけが、平和であるよう、
真の平和を保てるように、

それが、やること。

 

内側の平和(充足)こそ、基本だから。

 

などという、自分的な洞察の忘備録。

 

 

なのだけれども、キレの良くない忘備録で。

もう一つ、忘備録。

 

久しぶりに見た熟語(?!)。

誰かのストラップにあった、
「吾只足知」という漢字四文字が印象的で、
しばらくしてから、はたと。

 

吾、只、足るを、知る

 

それは、
足りないもので、満足させるとか、
贅沢を戒めるとか、そういうことでは、全然ないなと。

 

吾とは、この私が、ということ。
只とは、今、今、今、ということ。
足るとは、あることが、あるだけ、それで足りている。
知るとは、それに気がつくということ。


神の、スピリットの充分さ故に、今が、今として、現れていて、
人のエゴを付け足す必要がない、と知る。

 

気がつくということ。

 

今、あることが、あるだけ、を認識し、意識しなければ、
人は、真には存在していないということだあね。

 

エゴの幻想に、エゴの誤解に、存在していて、
今、には、存在していない。

 

どこに、いるんや、私、ってわけや。

 

鏡を持って上に向け、
空ばかりを映しているのを見ながら、
足元を見ないて、歩いているようなもの。
(まあ、地面ばかりを見ながらも、どうかと思うけど。)

 

でもね、
そうと知っても、この幻想の世界がなくなるわけじゃあないし。

 

幻想の世界で泥棒すれば、
幻想の牢屋に入れられるという、
非二元と二元の関係の例え話しのように。

 

だから、この二元の幻想の世界でも、ふつうくらいには、
泳ぎ方を知っていた方が、凡人的には良いわけで。


いや、凡人どころか、泳ぎ方もろくにわからない、発達障害の私は、
いつも、この世で溺れそうなわけだから。

 

なので、発達障害の特質への取り組みも、コツコツ、一生だわさ。

 

 

はい、おさだまりの、まとまらなくなったところで、
忘備録の書きおわり。