自分はやってないけど、
家庭菜園がらみで繋がった動画があって、
ここ数年、楽しみにボチボチ見ていて。

 

電気もガスも水道も、
あんまり普及していないところで、
夏は野菜を作りながら暮らすことが、
ふつうな文化の国に住んでいる、
個人(日本人の人々)がアップしている、
生活動画をボチボチ見ていて。

 

そういう文化になった背景も含めて、
結局、大地としっかり繋がって生きている人々は、
生活自体が、

 

うまく言葉にできないけど、

 

神によって土から作られた人として、(とか書いても私は無宗教)
神による恵みを土から得ながら生きていて、
それは、結局、日々自体が、自然というか、大地という神に、
繋がっている生き方だなあと。

 

不思議と、見ているこっちの内奥にある何かが、
澄んでくるような気がする。

 

地球の大地の自然環境は一定ではないから、
その地域に即した生活があって、
それが民族性でもあって。

 

この辺から私の妄想。

 

一方、民族として、その民族の大地がない人々がいて。

 

その人々の民族性は、大地とは繋がっていない、
パンを得る方法の秀逸さが、その人々の民族性で。

 

約束の土地が見つからないから、
パンを得る方法の秀逸さで、
自分たちの土地と決めた土地はできたけど、
いつまでもしっくりいかなくて。

 

神が創った大地と繋がろうとしなければ、
結局大地の土から人間をも創った神と繋がっていない不安を、
意識の内奥から払拭できるものでもない。


だから、いっそ、
地球全部を約束の土地としてしまおうという、

 

発達障害のゼロ百思考みたいな。。。

 

上がってくるメインのメンツを、
持っている冨も、高教育も、ファッションも、

おいておいて、

 

ある種の同じ性質を持った人々の、
集まりのようなものとして見てみると、 

 

発達障害からくる取り込まれやすさだとか、
発達障害からくる自身へのなんらかの強いネガさとか、
発達障害のゼロ百からくる恨みや復讐心の徹底さとか、

 

そんな特質のいろいろが、チラチラしている気がして。
 

ああ、話しがすぐ、発達障害の観点にいってしまう。。。

 

話しを戻して。


でも、どの土地にしたって、
その土地との繋がりを構築していかなければ、
人を創った神と繋がらない不安はそのままだから、
安寧をもたらしてくれるはずの約束の地というものにも、
なってはいかない。

 

同様に、長年その土地との関係を構築してきたゆえの、
民族性というものを否定しては、
その民族を丸ごと支配できたとしても、
その土地と繋がらずに得る神の恵みというものは、
神の恵みの形をしたエセのものになっていき、
なおさら、地球丸ごと、約束の地ではなくなっていくだけで。
 

良いか悪いかはおいておいて、

どんな秀逸な手法を開発したとしても、
得るものは大地からの恵みの代替であり、


つまりは、大地からの恵みから逃れては、
生きられないようになっている私たち人間。

 

話しは飛ぶけど、

私がかの国のトップはブレないなと感じるのは、
その人には、生まれ落ちて繋がっている大地が、
断固としてあるからだ。


それは、つまり、人を創った神と、
しっかり繋がっているということだ。

 

カソリックのトップたちが、
かの国のトップを、肯定してるのも、
神との繋がりの周波数を、
その人から感じるからではないかと、妄想する。
 

私は、いわゆる既存の宗教という観点では、無宗教であっても、
日本という自然を神とする国に生まれ落ちているからか、
神が人を大地の土から創ったという宗教感だって、違和感なくスッと入ってくるし、


大地と繋がっているのを感じ取れば、
神との繋がりの周波数を、やっぱり感じるわけでさ。

 

でも、大地とは直接繋がっていない、
身を助く系の能力が、超人的になっている人々は、

 

大地と直接繋がっていなくても、
大地と直接繋がっている人々(民族)を尊重することで、
大地と繋がることは、できるよ、


などと大地との繋がりを説く者々に対しては、

 

無自覚発達障害の特質的に、
否定されたとか、抵抗されたとしか、聞こえないから、
 

これまた、発達障害ゆえに超人的になった身を助く系の能力を持ってして、
そういう聞けないことを言う人々を駆逐してきたし、
 

これからも、無自覚であればゼロ百の特質も全開で突っ走るだけだから、
物申す人々を駆逐することは止まないでしょう。

 

イエスは、神よ、人々を許してください、

人々は何をしているか、知らないのですと、
言葉されたそうだけど・・・。

 

そう言えば、どこかの新しい政党のリーダーは、

大地との繋がりを説きながら、
最後の一人まで駆逐されようじゃないかと、言っていて。

 

いや、こんなフレーズではないけれど、
私の胸には、そう響いていて。

 

家系的にも、発達障害のあらゆる特質が全開の中で育ち、
私自身に発達障害の自覚が入るまで、
発達障害からの生存のためのエゴだけが肥大していって、
健全な精神が稼働していなかった私に見えるのは、

 

無自覚なゆえに発達障害の特質全開で、
何をしているか、わからないまま、
発達障害の特質である、単一の視点を、

発達障害の頑固さで、断固貫徹してしまうだろう人々に、

 

物申す最後の一人が駆逐されたら、
大地との繋がりが完璧切れるから、

人類は、また、ミジンコから、やり直しだ。

 

そ・れ・で・も

 

どっちにしろ、
人の肉体の命は有限だし、

 

どっちにしろ、
私は発達障害だし、

 

だから、人生のだいぶ後半に、
0.01ミリでも自覚の入った、

発達障害の自分への責任としても、

 

だいぶ大袈裟に聞こえるかもだけど、

人間全体の共存を模索する意識を、

諦めるわけにはいかないよね。

 

それに、

夏は大地と繋がって、野菜を育てて生き延びている文化の人々に、
既存の発達障害の視点の転換が起きるよう促していくときの、


辛さ、重さを、

 

いくら、何があっても生き延びられる所だからといって、
押し付けっぱなしでいては、

 

気づけば早々に、
そこの所以外で、土から創られた人間全体が、
立ち行かなくなっているだろう予感もいっぱい感じていて。

 

共存を模索するには、

今更であっても、
まず、共存を望まない人々が、
どうして共存を望めないのか、
よく知ることからだろうし、
(偉そうだけど、ホントにそうだと思ってる。)

 

何より、私個人として、
大きな勢力が共存を望めない理由を、
発達障害の私が、発達障害の観点で、
自分なりにわかろうとすることは、
自分の意識により光を入れることでもあるしね。
 

ミジンコからやり直す結果になったとしても、
できるだけ、意識には光を入れておきたいよね。