人生の旅は
終わらない。
なんて~、、、カッコつけて、こんな写真を載せたけど、。
今日は、一時間のウォーキングとスクワット60回と軽め。
長年、ドロップニ~タ~ン(DKタ~ン)をやり過ぎて、今はもう出来ないんだよ。
最後にしたのは去年の辻堂の試合で、あれが最後だね!。
だから、左膝と相談しながらの毎日で、スポーツ選手の宿命。
でも、パラレルスタンスのタ~ンは、違和感なく出来るから大丈夫。
さて、九州の地震、きのうの震度5の震源域は、本震より南西に移動した場所。
川内原発に近づいており、直線で80キロの位置。
日本最大の断層、中央構造線は川内原発のすぐ沖まで延びている。
逆の北東方向には伊方原発があり、こちらも中央構造線上。
この2つに何かあれば逃げ道はなく、風向きによっては隣国にも迷惑をかける。
共業の所産という言葉が、かすれるほど、言葉がない。
そして、気象庁も素直に発表したように、もう地震のことはすべてはわからないと…。
やっと素直に認めた、。
昨日
バリ島から帰って来ました。
10日間に及ぶGo proを使ってのCM撮影の成果は思っていたよりとても大変でした。
4メ—トルのウルワツとグリーンボウルでことごとくセットの波をつかんだけど、お目当ての映像はとれず、仕切り直し。
次なるタ—ゲットは国内で、新島、新管アウト、マックス稲村を狙う。
あしたは別のCMが決まり、東京の西へ行く。
九州の地震はバリ島にいる時に知り、熊本と聞いてすぐに脳裏をよぎったのは当然阿蘇山。
直感的に思うのは、3・11以降、太平洋プレートがずれたことによって、地下のマグマが西へよった?
日本列島の地下で、マグマが西に集まりやすくなった?西へ寄った?西に流れやすくなった?どのような表現をしていいか?よくわからないけど、3・11で太平洋プレートが動き、フィリピン海プレートに何らかの圧力か?逆にゆるみ?をあたえ、マグマが地表に出やすくなっていると思う。
だから、当然阿蘇山の大噴火が心配だよ。
地震や火山のことはすべてはわからないし、それを踏まえて人間がどこに住むか?は自由なんだけど、あれだけ大きな地震が川内原発の近くで勃発しているのに、『観測された地震動が自動停止させる基準値を下回っているから停止させる必要はないって』、、、。
地球の歴史から考えると、人間にはわからないことだらけで、基準値を上回る地震動が恐うことだって十分に考えられる時期に突入したと思うよ。
優しく書いているように思えるのは、違くて、僕は常に冷静を保ちたいんだよ。
写真は、バランガンの高速レフト。
今日は
初のGo proテスト。
ヘルメットの上にGo proを装着するため、自分で四角く樹脂を固めて土台を作り、そこに基盤を張り付けて、頑丈に固定したテストも完了。
本番に向けてシュミレーションさ。
ただレンズが曇ることが発覚し、改善策を模索中。
午後は、オ—デションに呼ばれ、急遽、東京の赤坂に行った。
決まるといいなぁ~♪
今は、特急わかしおで帰り道。
Blueの原稿は、1万1000字を超え、やばい!書きすぎた。
ブラシュアップして余計なのを削らないと。
でも書こうと思ったら10万字どころか、本だって書ける。
でも、上には上がもちろんたくさんいて、文章をもっとうまく書きたいという願望が今は前に増して強くなっているよ。
子供のころは、いくら勉強してもビリだった国語が、、、人生わからないね~。
6年前ぐらいに
植えた桜がこんなに大きくなっているよ!
この桜は、部原の海がよく見渡せる丘が裏山にあって、そこに小さな、小さな苗を発見して、自分の家の庭に埋めたんだよ。
桜は成長が早いね~。
波は、もうずっとずっとあって、南風が吹いた翌日の日曜日は肩ぐらいで御宿が良くて、月曜日はまさかのバックスウェルが入り、頭ぐらい、きのうは超形がいい肩ぐらいのいい波だった。
じつは、この月曜日と火曜日のうねりは、遥かかなた、2000キロぐらい旅してきた遠い東うねりなんだよね。
天気図のはじで停滞気味に発達した低気圧のうねりで、波長で分かる。
今週末も停滞気味に低気圧が発達する。
一年に数回しかないんだよ、速度がゆっくりな低気圧って。
季節の変わり目の時かな、僕も結構不思議なんだよ、ゆっくり低気圧って。
高気圧ブロック?それともジェット気流の速度が季節の変わり目で遅くなったとか?
謎だね~。
震災から5年は、超長文を書いてたら、データが消滅した。
最近、使いすぎて携帯が少しおかしくなっている。
でも、頭の中では覚えているから、今度書くよ。
今は、Blueの原稿を優先します。
鵜原理想郷を散歩
春っぽくなってきて、家の回りは鳥の鳴き声のオンパレード。
うちは崖っぷちの先だから、とにかく鳥が多い。
波は、きのうからなくなり一段落だよ。
今、ボード部屋の土台を修理している。
崖からいろんな落ち葉や土が落ちてきて土台が少し腐ったから取り替えている。
頭にきて、崖っプチの大きな木を申し訳ないけど切ったら、なんと!かぶれの木で超かぶれたよ!
僕としたことがそんなことも知らず、。
でも、なんか嫌な予感がしていたんだよ…あんまり木を切るのは嫌だから。
もう、かぶれの木は覚えたね!
3月中に、角の浜と八甲田山行く予定だったけど、気圧配置があんまりなので止めにしました。
でも、来週の土曜日頃、良さそうな低気圧が房総沖に停滞するかもね。
さてと、Blueの原稿を書かないと、カリフォルニアトリップ。
鵜原は、房総半島で一番綺麗な青い海なんだよ☆
今週は
毎日、波があった。
特に火曜日のマリブは、頭半ぐらいでいい波だった。
水曜日は部原のレフトがよく、これも頭半ぐらい。
木曜日は少し下がり頭ぐらいで、気温は低かったが、ドライス~ツがあれば、中に履いている靴下もインナーも乾いてる。
きのう金曜日は肩ぐらい。
今日はちょっと北東の風が強かったが、夕方になって整いはじめた。
あした日曜日も波があり、月曜日、火曜日は再びサイズアップ。
一週間ノンストップスウェルで、風邪ひいて3キロ痩せて、今週2キロ痩せた。
この一ヶ月で5キロ痩せて、4月の初めのバリ出発まで、あと2、3キロは痩せる予定だよ。
震災から5年は、少し過激に書いたけど、わかって欲しいのは根っこの部分。
ひとたび、原発事故が起きれば取り返しのつかないことになるということを、。
そして、誤解して欲しくないのは、僕は、誰が何を食べようが、どこの海で波乗りしようが、各自が判断して決めればいいということを、。
ただ、僕は僕で体験したことは言うよ。
いつも、もう一人の自分が出てきて、自分に語りかけるだよ…『何!逃げてるんだよ、書けって!』。
本当はただ普通の生活がしたいだけなんだけどね。
震災から5年は、今続きを書いているよ…。
震災から5年
あの日、2011年3月11日、僕は勝浦の自宅にいた。
その大きな揺れの振幅で、瞬時に普通の地震ではないことがわかり家を飛び出した。
長い長い揺れで、東北沖か?小笠原近辺の大陸棚がづれていると思った。
この時、大津波のことがすでに僕の脳裏をよぎっていた。
テレビをつけると震源地は東北沖、深さ10キロと浅く、やはり!と思った。
やがて、写し出される津波の映像を見て、今、自分がいる場所も危険ではないか?と不安がよぎった。
最悪、津波がここまで来たら、まだ家の裏には高い山があるので、そこに避難しようと思った。
でも、ここまでは来ないと思った。
この家を買う時、巨大地震のことを考え、地盤が硬いのを確認したのと、津波のことを考慮して高台にしたのである。
僕は、子供の頃から異常と言っていいほど自然が大好きで、特に激しい自然現象をどう?サバイバルするかと言うことを日頃から考える癖がある。
津波が来ても、家の横には谷があって、大量の海水はそっちに流れることを知っていた。
でも、日頃生きていて、避けられないこともある。
特に東京に行く時は不安で、日頃から東京で大きな地震が起きたらどう生き延びるか?シュミレ—ションしている。
そして、何よりも避けられないのが原発が爆発した時の放射性物質を呼吸によって吸い込むことだ。
あの日、長年恐れていたことが現実になった。
夕方になり、テレビのニュース速報で5キロ避難というのを見た時、僕は最悪の事態を想定した。
車に少しずつ食料や布団を積み込みながら、やがて10キロ避難の字幕を見た時に僕は決断をした。
電源喪失で原子炉を冷やせなくなったことが容易に想像がつく。
これは長年、原発を反対する人達がよく指摘していたことだが、日本政府はじめ、原子力保安員は聞く耳をもたなかった。
僕は、勝浦から8時間かけて東京を突っ切り、西東京で待機していた。
その間、勝浦から一緒に出発した仲間達は、それぞれの事情で気が変わり、僕は別れを告げた。
じつは、はじめから、仲間がそうなることを予想していたけど、一人で黙って行くわけにはいかなかった。
僕は、福島や東北や関東に住む大切な仲間達30人ほどに連絡を取り、もうすぐ爆発するぞ!とりあえずいったん遠くに離れるように告げた。
遠くに避難した者、しなかった者、まちまちだが、それはそれでその人の自由であって、僕は、特に気にしなかった。
あれだけ反対運動を何年もしていると、原発が爆発した時のシュミレ—ションは当然何度もしていて、フライングスタートじゃないけど、道が混むことや、モトクロスやス—パ—カブが一番いいとか、人々がパニックになることや、避難した人達に浴びせる言葉や本心は避難したかったんだけど、できなかったので、ひがむことや、はたまた、まったく原発の危険性を知らなかった者、まちまちだが、特に気にしなかった。
それはなんだろう?トッププロの道を捨て、あれだけ4年間、人生のすべてを注いで再処理や原発の危険性を訴え、実費で100回以上自ら講演したり、国会議員に直談判したり、日本を代表する水口教授や小出教授からマンツーマンの勉強を長時間受けて、知りたいことを質問したり、世界中を旅した知恵と経験を総合すると、パニック時の人々の感情や動きは、だいたい予測は出来た。
3月12日の夕方、僕は、東名高速に乗り、明け方まで運転を続け、岡山で軽く睡眠をとった。
その間、いろんな仲間達から連絡があり、僕は知っている知識を説明したりしながら、冷静さを保っていた。
次の日、宮崎まで走り、最悪の場合は、車をおいてフェリーで南西諸島まで行き、どうにかして中国大陸まで行くことを少し考えていた。
宮崎でウィクリーマンションを借り、僕は小出裕章教授に電話した。
教授がこれから忙くなることはわかっていたので、単刀直入に二つだけ質問をした。
『小出さん、もう被曝している人はいますか?』
『はい、もういます!』
『それで将来、健康被害が出た時、因果関係は証明できますか?』と僕は聞いた。
『それがデヴィッドさん、出来ないんですよ…』。
『僕は、分かりました』と一言だけ言った。
小出さんは、『それでデヴィッドさん、今どこにいるの?』と聞いて来た。
『宮崎です』。
小出さんは、『ほぉ~』と言って、やっぱりね、みたいな感じだった。
そして、ではまたとお互い電話を切った。
小出さんは、僕のブログを何年も見てくれて、僕に期待をしていた。
時には怒られた。
怒られた内容は、デヴィッドさんほどの人がなぜ!?ブログで名前を明かさない人達と話をしているんだね!
ほどほどにしなさい!と。
僕の中では、僕はファンの人達を大切にする性格なのと、あともう一つは、原発を推進する人達と話をしてみたかったというのがある。
原発を推進する回し者と話をしていく中、彼らにはマニュアルがあって、そのちんけなマニュアルを見破ることも簡単だった。
話を戻して、僕がなぜ!?行きたくもない日本の西のはじまで行ったのか?
僕の見解はこうである。
政府と原子力保安院は、外部被曝と内部被曝を混合して説明していて、嘘をついているからである。
粒子となって降ってきた放射性物質を、呼吸によって体内に取り込むことを阻止できる人間なんていない。
呼吸によって、その放射性物質は体のどこの部分に行き?、どこにたまるのか?という説明を僕は受けなかった。
受けなかったと言う意味は、震災前(07年~10年)にあれだけ署名を集めて、国会に何度も足を運び、原子力保安員との質疑応答で何度もいろいろ質問しても、彼らは答えることができなかった。
僕は海に入るのが仕事で、放射性物質を飲んだらどうなるんですか?とか、波に巻かれて鼻から放射性物質が入った時、どうなるんですか?とか、いろいろ質問した。
すると、決まって下を向いて黙りこんでしまう。
原子力保安員は外部被曝の説明は延々とするが、内部被曝の説明は、その時、一度もなかった。
その後、僕が質問をすると議員会館の大きな部屋の中は、反対提案派の人達100人ぐらいが大騒ぎになって、『そうだぁ!答えてみろ!』とヤジで収まりがつかなくなって閉幕することが何度もあった。
反対提案派と言う意味は、電気を作る方法はいくらでもあり、原発ではなく、自然エネルギーの普及を訴えていた。
保安員や推進派は、海に入るサ~ファ~なんて震災前も震災後も眼中にないんだよ。
原子力保安員の得意の説明の、ニュ~ヨ~ク往復で浴びる放射線がこれぐらいだからとか、レントゲンを一回撮るほうが被曝するだの、まったくの論外だね!!!
毒の放射線を肌に短い間当てるのと、放射性物質の粒子を吸ったり、飲んだり、食べたりして、体の中に溜め込んで、一生至近距離で放射線を受けるのとでは別物だということが少し考えれば誰だってわかる。
僕があの爆発で、半年間、宮崎で暮らしていた理由は、そうゆうことで、それはそれは毎日辛かった。
宮崎が嫌とかじゃなくて、ある日、突然、行きたくもないところへ行って、バカらしい家賃を払ったり、作り途中の家を置き去りにしたり、避難生活をおくることがどれほど苦痛だったか。
まぁ、福島の人達に比べれば、と思うけど、僕は僕なりに辛かった。
そして、勝浦に戻ってきた理由は、当たって砕けろ的な考えで、少しの被曝覚悟で自分の家に住みたかったのと、4号機の大爆発が起きなかったからである。
もし、4号機の大爆発が起きたら、日本は半分住めなくなっていた。
内部被曝は、人類がまだまだ知らないことが多くて、僕含めて、みんなの体に放射性物質は取り込まれていて、それが人によって、どこにたまって、どのような健康被害を引き起こすか?わかることと、わからないことがあるんだよ。
だって、放射性物質入りの空気を何年も吸わせる人体実験をしたことないし、放射性物質入りの食事を人間に何年も食べさせるわけにはいかないし、特に細胞分裂が盛んな子供たちの体は、大人と比べて影響が出やすいことはチェルノブイリのことでわかっている。
僕が、推進派、反対提案派、たくさんの議員、たくさんの教授{推進する教授も}のいろいろな話を総合して一つだけ確かなのは、『放射性物質が体に悪いのは間違いない』。
その証拠に、防護服を来て作業するし、わざわざ沖合い3キロの水深47メ—トルの海底にトリチウムを捨てる再処理工場があったり、食品の基準値をもうけたり、除染をする。
そして、世界中で放射性物質が体に悪いのは常識である。
多いから危険で、少ないから大丈夫なんて、人間の都合のいい解釈であって、『ちょっとの毒も毒である』。
体には悪いけど、莫大な熱量で発電できるメリットの部分をとって、原発を推進してきた人々がいる。
そして、僕は、何度も保安員に巨大地震の危険性を訴えてきたけど、こう言われたことがある…『デイヴィッドさんが考えているような巨大地震は起きませんから、』と。
僕は、『起きないではなく、起きたらどうするんだぁ~』と返すと、『いやいや、起きませんから』の一点張り。
海外では万が一事故が起きてメルトダウンした時、デブリを受け止めるコアキャッチャーというものが存在するし、日本のように事故は起きませんからなんて言わない。
まして、未来永久、ご時世に核のゴミや廃炉の作業を押し付け、それによって、天文学的に膨れ上がるコストや核のゴミを一ヶ所に集めて、何らかの自然の猛威で拡散する放射性物質をくい止めることなんて、できやしない。
廃炉の作業中には、原子力の時代は終わっているんだよ。
原発と言うものものは、最初の50年だけ発電して、残りの100万年間はご時世に負の遺産を押し付ける政策。
長い時間軸で考えると、メリットよりデメリットのほうが遥かに多く、推進した者はじきに死んでいく。
僕は、子供の頃から世界中を旅してきて、特にサ—フィンでいろいろ旅すると、何でも疑ってかからないと自分がやられてしまう環境にいた。
異文化の運転や食事、海の中の危険、岩や得体の知れない生物やサメや喧嘩早い地元のロ—カルや盗難や誘拐だってわからない。
そうゆう環境にいたからこそ、あの外部被曝と内部被曝が一緒だという説明を受けた時には、もう、怒りをとおり越して、冷静に全体像を憶測したよ。
政府や談合やその仕組みを分析した。
正義のはずの国が平気で嘘をつくことに憤りを感じたとゆうか、心が許せなかった。
津波が来るぞ!と警報がなって、10メ—トルの高台に避難する者もいれば、余裕を持って50メ—トルの高台に避難する者もいる。
内部被曝を避けるため大阪に避難した者、沖縄に避難した者、はたまた地球の裏側に避難しようがそれぞれその人の自由である。
震災から5年が経ち、指摘していた甲状腺がんが170人を越え、これは氷山の一角であり、福島以外で計ったらと思うと、想像を絶する。
根っこの問題は原発であって、あんなもの作るから迷惑をこうむる人達がたくさんいる。
仮に、もし、北海道の泊原発で事故が起きれば、福島の人みんなではないけど、北海道産は食べないわけであって、もっと言えば、何十年後に、また同じように爆発があったら、今度は、みんな風向きを考慮して、道は大渋滞になるだろう。
そのころには、放射性物質が体に及ぼす影響が今よりもっともっと明るみになっている。
因果関係が証明できれば、すべてがひっくり返ると言っても過言ではないが、統計学的に調べるしか今は道がない。
しかし、少なくとも、日本政府が外部被曝と内部被曝が同じなんて説明を繰り返していたら、いつまでも、信用を得れない。
続く…
写真は、津波で潮が引いた時の勝浦、漁船が深いところで津波をかわそうとしている。









