浄三業 | Varahi のブログ

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チベット、ブータン等に伝わる瑜伽行者必携の如意宝珠、甘露、聖物等の説明、行法雑記など

 


浄三業は日本でもなじみの深いものの一つで、行の前や支度、準備、法衣や法具など身に付ける前など
必ず前提として印と咒、観想を以て護身法の印契の初め、または単独でも行われるものです。

しかし、日本に於いては瑜伽そのもの、つまりヨーガ的、瑜伽医学的概念がないためにそれのみで終わってしまいますが、
昭和のころの一人の阿闍梨さんは、それのみで24時間行い続けた方が居り、非常に優れた方であったとされています。

どの行でもそうですが、ただ一つのものでもそこまで没入し行に限らず、世間の仕事に打ち込める方は、
利益やプライド無くして行っている方は今ではほぼ皆無に近いでしょう。
そうして終わったことにはとらわれずに、すでに次の遠い先を見て歩み探究し続けたわけです。
この精神が人由縁の原点です。
聖俗問わずこの部分が質として見られ、興味や欲、愛着や憧れなど気に留めることなく
人や世の中の幸せや安全、大いに役に立つように弛むことなく追い続けたわけですが、

いつしかユーザーの興味や欲、欲求や要求が勝り、資源の制限が強くなるにつれて、規制のものを名称を変えただけや
形状を変えただけや、要求に見合った謳い文句や有効性を書き足して、何も変わっていないものをそのまま送り出して
新しいもののように見せているわけです。
これは医薬品でも同様で、期限の切れたものの名称を変えて出しているものや、少しプラスアルファし
新薬のようにしているものが多くなっているわけです。
いくらものや技術が優れて行っても、表面だけで結局は進化とは程遠くなるばかりなんですね。

肝心な人間そのものの内面が劣化して行っているのなら、本能や煩悩穢れに従うようになるのは当たり前のことです。
昔から若いうちに苦労は買ってでもしろと言いますが、これには二つあり、
様々な艱難辛苦に耐えることで物や繋がりなどの大切さを知ることやしっかりと向き合って思いを込めて扱わなければ
人にも伝わらず、恵みを粗雑に扱い破壊や崩壊につながると言う事と

もう一つはと言うよりは、こちらの方が本来ですが、それは
便利さ豊かさになれないと言う事で、快適さそのものが精神を脆弱劣化させ、煩悩穢れが主体となってしまうと言う事なんですね。

現代に於いては手遅れに近いわけです。
貧しい国では瞋恚を動かし、豊かな国では慢や疑、惜しむ心、つまり貪が主体となる、
日本はほかに比べれば惜しまずに手を差し伸べると言う事をしますが、
それに甘んじボケてしまい見失っているところも多いので、他から見れば疑などををもっていられるところからどうしても
対等と言うよりも卑屈さを持って見ることも少なくないので傲慢さや上から見られていると思ってしまう場合も少なくありません。

ボランティア等のように、現地に入り同じ環境で同じ生活をし、同じであることを互いに知ってと言う事で受け入れてもらうことが可能となったりしますが、昔は企業も国と言うよりも派遣されるものの器で同じようになされていたわけです。
しかし現地であっても地域ごとに質は分かれているために、善意であってもそのように受け取られずに狙われてしまうことが多くあるわけです。
それを見分けてそれぞれ同時に送り込むと言うことはしないので、このリスクが無くなることはないんですね。

ただの我慢ではフラストレーションや抑圧は強くなるためにどこかで暴走することになります。
それを満たすだけでは薬物依存などと何も変わらず、どんな凶悪な手法でも行え、その手法による感覚が性行為のおよそ3倍ほどの快楽となってしまうので、どうしても繰り返してしまう方が多くなってしまうんですね。

この解消のための治療などは明確に確立していないために、増減しながらこれからも猟奇的な犯罪や争いは無くなることも無いんですね。

己の質や穢れをよく知る事、浄化すること、単に漠然とした煩悩や穢れ、よくわからない過去世のことを今言われてもピンと来る人もいません。

釈迦やナーガルージュナやパドマサンバヴァなども、しばしば前世や過去世の自分はどのような人で、何ゆえに今のカルマを得たのかを
質問されることがありました。

しかし、決まって答えたことは、過去世や煩悩穢れを知りたいのなら今の自分、自分が今世で成してきたことをよく見なさいと答えられたわけです。

過去世をいくら知ろうと、今の自分とは違います。
例え知っても何も変わることも変えることもできません。

穢れのある今の自分と、いくら同調しようが何の役にも立たないばかりか、穢れに従うだけとなるので無駄なんですね。
それがより内面や経験の沿ってしまえば、一見純粋、外的な事から遠ざかるので精神性と錯覚していまい
信じてて疑わなくなってしまいます。
そうなることで抜け出せなくなってしまうんですね。


ニーチェなども仙道の壺中の天を応用した瞑想をさせますが、
壺中の天は仙道の幻術のようなもので、俗世間とは異なった別天地であり、理想郷のような世界が広がっているので、
瞑想であっても抜け出せなくなってしまうものが続出したとされたわけです。
いくら理想郷でも浄化は出来ないので、仙道の質が備わっているものの修行場としてつれていかれると言うものです。

それから壺の中の世界という意から転じて、酒を飲んでこの世の憂さを忘れる楽しみを足て使われるようになりますが、
現代の多くの人がこの状態と言えるでしょう。

嫌なことは見ない聞かない、しかしそれがネタとなって皆で評価し蔑み楽しめるなら、たとへ瀕死の人も面白がって
動画撮影などをする。

これでは偶然にも仙道の領域に入ってしまった若者が、連日そこに向かい帰ろうともせずに入り浸っていました。
しかし、ある時人に自慢したくなり、口止めされていたにもかかわらずに、村へ帰り自慢話を始め、
皆を連れて入口の有ったところへ向かったが、そこにはただの草原で、何一つ人口のものがあった形跡すらなく、
ほら話とからかわれ、二度とそこには行けなかったという話がいくつも遺されているわけです。

また
壷中有天(こちゅうてんあり)という言葉もあり、

人間である以上はどんな境地にあっても、必ず自分だけの内面世界を作り上げるとされ、
いかなる壷中に天を持つかによって人の風致が決まるおされているんですね。

たとえわずかでもでも壺中天有りの生活をすれば
どのような境遇の中にあっても、自分だけの内面世界を持つことができる。
俗世間から離れた自分だけの別天地を作ってしまうと言う事で、
それを現代では愚かにも、急速に形にし、つまり尾の世に持ち込んでしまったと言う事です。

そこに何をもってくるかで、人の風致風韻が決まってしまうと言うことを指して言います。

否定性から眼をそらし、いかなる現実であっても、現実を離脱した別天地である現実の俗世間を作り持つ、
自由であり、楽しい境地を持つことで、それを維持し継続のために穢れを重ね、
それを阻み穢そうものなら敵意をむき出しになっていても気がつくことが無い。
そのような見せかけの壷中の天では、より一層苦悩が増すばかりである。

小さな壺の中にも、無限に広がる大宇宙は、存在していますが
三毒由来では何も残らないんですね。

それゆえに通常の瞑想ややり方探しでは理想郷となり、錯覚に陥り本分からも遠ざかっていても気がつかなくなるわけです。


そこで今回特別に一部基礎的であり一般でも灌頂などを得ていなくとも出来る範囲を書いておきます。

まず初めに1から10まで
息を吐くときに心の中で数を数えて呼吸を整えます。
途中で数が分からなくなった場合は最初からやりなおします。

10まで終わったのなら

息を吸うときに オーン
息を止めて  アー
吐くときに  フーン

と言うように声に出さずに心の中で唱えながら行います。

オーンで仏陀の光をいただき、
アーで会陰あたりに集め、
フーン で下へと流し体内を清めます。

数回行った後、
フーン で月輪の円座をイメージし
最初は紅い蓮の花
2回目はその上に白い円座
3回目はその上に重ねて白浄の円座
4回目は薄く透明な清浄な球体の中にあることを想い
5回目にはその中を光で満たします。

そうして浄三業の咒を誦す。

オン スワバーワ スッダ  サルワダンマ スワバーワ  スッダ ーアハン 

日本の真言の場合には、
 オン ソワハンバ シュダ サルバ ダルマ ソワハンバ シュドカン
一切諸法は自性清浄なり、我もまた自性清浄なりと観想文を続けて読み観ずる

そうして次に
ヴァーラヒーを観じ、

頭上にブスクルビェーマ(ターラや観音などでも可)を頂く。

その状態で
フームで光を上にあげ
3回ほど臍あたりを満たし、
3回ほど臍と鳩尾の中央当あたりを満たし、
3回ほど心臓を満たし、
3回ほど喉を満たしたあとに、頭頂から残りの光を空中に放出します。

ここで再び同じマントラを唱えます。

それによって煩悩穢れが静まり、行などが行いやすくなります。

それによって実りのある行になるとされ、ルンやプラーナなどの本質も掴め、統制も自由になりますが、

本来の脈管、ルンやプラーナの意味や質は一般的に言われている便宜的な物とは全く違います、
しかし、質が整い本題に入れる状態でないのなら、そこにこだわっても意味はないので、書いたままの
やり方だけで十分浄めることが可能となります。

また、性欲食欲などが強い場合には会陰や臍は抜きに行い、
無駄な思考や神経質的ならば喉を避けて行います。

よく逆に行う事を言われる方がいますが、そうすることでより強調され他は弱まり抑えがきかなくなるので
注意しなければいけないんですね。

 

そうしてその領域に浸り観察など行い

最後に
ブスクルビェーマなどのマントラを誦し

ブスクルビェーマが虹色の光となり
頭頂から降り注ぐとイメージし終了します。


これだけでも無駄なやり方を集めて繰り返すよりも、効率よく質を整えることが出来ます。