ニェパとは生き物であればその体の中にあるルン、ティーパ、ペーケンの三つの質ですが、
その組み合わせ、荒らさ、鈍さ、軽さなどは母体に宿り3か月で決まります。
これは母体を通して脈で知ることが出来ますが、
それを詳しく知るということは、一般の方には必要ないでしょう。
なぜなら、分別などを超えた智慧が無い場合、嫌悪や憂い、差別や早々に虐待の対象にもなりかねません。
オバマ氏が大統領であった時に、人の白血球のある部分を解析することで、その子の記憶度合い、優秀さ、性格や病気、
およそ何歳でそれらが出るか、犯罪を犯すか、どのような学校に行くかなど、ほぼ一生で起こることが解析できるとされ、
これをデータ化するために国民への義務と言うことを宣言し、
各地で大規模な抗議デモが起こり、特定の病気の検査に於いてのみ実行するということで終結しました。
当然ですが、差別やいじめ、虐待はもちろん、一切の可能性を否定したレッテル張りが起こるのは目に見えています。
人がカルマに縛られるのは、評価、比較、分類化、レッテル張りがメインとなっているからとされていますが、
学校などが無い時代では集落などの習慣などによりその枠ができ、学校などができても社会全体の枠としてできてしまいますが、
視野が広くなった分気がつくことが難しくなってしまいます。
それが良い悪いではなく、カルマ故に出来上がってしまうのですが、
それにはニェパが大きくかかわってもいるんですね。
最近目立って虐待や高齢者の事故などが取り上げられていますが、実際には高齢者と20代の自己の割合はほぼ変わりありません。
虐待などは矢が成長過程で概念の処理ができてこなかったことと、ニェパの合わさった結果などですが、
世界的に見てもルンとティーパの組み合わせがメインになっています。
病気などの場合には過剰や停滞と言いますが、質としては浮く沈む、混濁などと言います。
たとえば高齢者などはルンが浮いた状態になりますが、病気で言う過剰と言うわけではないので、病気になっているわけではありません。
勿論病気と合わさっている場合もありますが、これは20代前半までの世代も同様です。
能く年だから覚えられない、若いから記憶が早いと言いますが、これも関係ありません。
高齢の場合には意欲と言う面でのティーパが弱いために習慣の枠からその枠に押し込めているだけです。
逆に若い世代は経験も少なく目新しいものも多いためにまだ明確な枠が合いません。
高齢でもティーパの方が盛んな場合には、粗暴であったり勢いが衰えることもありません。
お酒や辛いものを好む高齢者などは、ルンが浮くかティーパが過剰になるかに分かれてしまいますが、
ルンが浮けば浅はかとなり、ティーパが上がれば短絡となるので、当然飲酒運転なども無くなることはないんですね。
もちろんそれ以外でも、高齢者は影響のないという薬を飲んでいる方も多いので、任意機能や精神には問題ないとされる処方薬でさえ
高齢であればルンが浮く大きな要因になるんですね。
年齢が若くてもそれ以外の世代でも同様に起こり得ます。
現代の食品の多くに薬品は含まれており、オーガニックと言われていても大半が使われています。
僅かとるのも行者にとっては致命的でが、それを3食、間食、おなか一杯になるまで食べているのなら、
鈍性が増し、智慧とは無縁になるのは当たり前なんですね。
むしろ三毒と直につながりやすくなる。
これと同様に、自然界も宇宙の五元素もみな同様なことが起きています。
この清い部分だけ感じたり繋がるということは、今の気功やヨーガ、スピリチュアルらオカルト系では不可能なんですね。
波動そのものが変わってしまっているという事、狂った波動と言う、つまり穢れを避けることは智慧が無ければできません。
それすら気づくこともできていないんですね。
夜の空に出る月の波動にも古来より二種ありますが、それもわかっている方はいません。
その一方しかヨギは必要としませんが、
初歩的でありながら今ではそれすら忘れられている。
どうでも良くなっているのが本音でしょう。
良くない波動や浮いたルンなどの中に身を置けば、当然それらと同じになって行きます。
職場や環境は変えられなくても食べる物や用を減らすことは出来ます。
自身が清い波動をだし、周りにまで影響を与えられるようになるのが理想なんですね。
いつの時代であっても、それらより鉄壁の守護の役割としてその使命をバイラヴァやハヤグリヴァなどの護法尊として
文殊菩薩が姿を変え、またパドマサンバヴァなどが役割を言いつけたとされています。
穢れだからと嫌悪しても避けることは出来ず、嫌悪するのではなく、正しく智慧をダーキニーより授けられなければ
穢れどころか教えも法も行ですら正しくその中にある本質に触れて行うことは出来ないんですね。
ダーキニーや護法尊と繋がるには、勝手な親しみや信仰ではできません。
師がいるのであれば授けてもらえますが、そうでなければすべてを捨てて一人求道のために深山幽谷に籠り、何十年も励んで
覚悟や決意を濃縮し純粋化して行って顕れて来るかどうかと言う事でしょう。
能くそれらの灌頂を云々と言う方が来られていますが、ほとんどはいつの世にかのために今切っ掛けとしての
縁となるようにと言うものがほとんどです。
まああたりまえですね。
日常の生活をし、社会に生きて当たり前のように合間で何か行い都合が主体です。
それに何を期待できるでしょうか?
そのきっかけで求道していく者がいるかもしれないが、今世とは限らない。
いつの世にか目覚めるようにと言う種なんですね。
その慈悲の恩を思わずに、受けたことがある。研修に参加してこんな経験をした云々と言い
だから教えてほしい、おかしくなったから何とかしてほしいという方が後を絶ちませんが、
そもそもの姿勢が間違っていること、その小さな一つの慈悲のどれほど、何よりも大きいものとも感じずに
一喜一憂し興味で求めさらに興味を満たすためでは、ダカもダーキニーも答えることは出来ないんですね。
今を維持し、さらにかき集めても満たされることはありません。
火の粉は寄るものが有ってまた燃える。
これでは本当の火は決して灯ることはありません。
自身のニェパは自分でしか制御も正すこともできません。
災害や汚染で食べる物が穢れてしまっても、即死でもしない限りは食べる物が無いからと言い貪る。
病気になれば誰か何かのせいにする。
満たすための食事は脳は減退して行くことは言われていますが、同時にティーパは増し粗暴になる。
うまいと喜び、まずいと怒り粗末にする。
これほど救いようのない無知はないでしょう。
大地も水も命も無視し手を入れた者たちの想いを今自分に布施し感謝で受け取る。
一般であっても最低限だれでも出来る善行です。
病気になったりルンやティーパが三毒により盛んになるのは当たり前でしょう。
遥か昔のインドでは、そのような聖人が居り、面白がって糞尿まで投げつけ食わせたが、
怒りではなく文句も不満も言わずに受け取り福で返したというグルが何人かおられます。
そこまでは必要ありませんが、まずいと思う嫌と思うことは、それだけ自分がまずいもので出来ているからなんですね。
行者は、心の訓練は、ここから始まるものなんですね。