生命の風 | Varahi のブログ

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チベット、ブータン等に伝わる瑜伽行者必携の如意宝珠、甘露、聖物等の説明、行法雑記など



胃の気は肚の気、丹田の気と言った方がわかりやすいとおもいますが、
よく訓練などでも言われることですが、論理的にはわかりますが、

先ずこの訓練が正しく行われているということは今ではほとんどないでしょう。
胃の気はまた生命のルン、つまり生命力そのものとも言えるので

例えで出すことはあまりよくありませんが、
朝の顔と言えるフジテレビのアナウンサーのさんの会話の声に力が無く、どこか気が抜けた状態に著しくなっています。

こうなると残念ながらそう長くないとなるわけです。

つまり、人生が終わりに近いと言う事ですが、

高齢だから云々と言うわけではなく、若くても当然誰にでも起こります。

病人ならば、風邪程度でも著しく胃の気の低下が起こる場合もあり、その場合には命を損なう場合もあるんですね。

以前まだものを言わない幼子が同様に胃の気が抜けているように見えたので、おおよその病名などを親御さんに伝え、
すぐに病院に行くように促し、半信半疑ながらも病院へ行き、あわやのところで手遅れにならなくて済んだと言うことがあり、
大抵は専門医でも見過ごしてしまい、見分けるのが非常に難しい病気だと言われ事なく済みましたが、

一般的丹田など肚の訓練してどうにかあると言うものではありません。
生命のルンはカルマなどによりある程度決まっており、意識でどうにかなるものでもなく、
訓練と言いつつ損なう事の方が意外と多くあります。

ほとんどは熱を上げ、熱によって消費を促すだけとなるので鉄砲玉になるのなら良いのかもしれませんが、
高い目的には向かないんですね。

勿論生来旺盛な場合にはなかなか無くならないでしょうが、粗雑なためにその分長患する病気などで苦しむことも多くなると言う可能性も高くなるんですね。

日ごろから顧み、反省や感謝、慈しみなど以て生活しているのなら、生涯通して粗雑性は解消されていくかもしれません。

この生命のルンの波を数えると何歳まで生きるのかと言うことが分かりますが、勿論生きていく過程での欲や三毒などにより
過失が多ければ短く変わることもあるわけです。

戒律や懺悔と言うものは、如何に生命のルンを浄く保つかというもので出来たものですが、今ではこの部分が欠損しているんですね。

懺悔行など行っていると三毒などから起こっていた欠損、阻害されていたこと、
つまり大きなずれや壁と言うものが確実に少なくなっていきます。

最初のうちは全く気付くことはありませんが、あるところまで行くとすべてが一致、繋がった状態になっていることに気がつきます。
そのようになったときからが本当の行に、本題に踏み込めるようになると言うのが本当なんですね。
勿論それぞれに応じて進めて行かなければいけませんが、
これが勝手に行っていたり、やったりやらなかったり、省略ばかりでは余計に悪くなり
後天的要素でひどい病気、事件事故などで苦しむようになると言う場合もあるわけです。

そういう意味で、一生ものである懺悔行を授かり、しっかりと懺悔行には専念しなければいけないんですね

そうでなければ粗雑性は論理と経験で覆われて錯覚し、生命のルンも訓練と称して行っている訓練にて
逆に逃げ場を探して上に上がってしまうので、それを覚醒と錯覚したり
熱性に害されて特定の箇所で停滞し、停滞したか所で病気を引き起こすと言う状態になったり、抜けだすと言うことが起こるんですね。
その抜け出すか所によっても穢れの度合いや三毒などどの状態かもわかってしまうんですね。

普通の方から見れば特殊な能力のようにみられるかもしれませんが、神通力と言われるものはそのように伴った形で現れた
積み上げた、身を以て実証した結果と言う事なんですね。
虹の身体などもまた同様で、やり方や訓練だけでそうなると言うわけではありません。

その為に表層的こころの訓練が何に於いても最初に来るものなんですね。

小さなお子さんがいる方は穢れで覆う環境ではなく、自然と心の訓練になる環境にしなければいけないんですね。
そうでなければ必然的抑圧とフラストレーションとなり、やがて外に向くようになる。

古い時代には殺伐とした地獄のような世の中から、飢えや乾きの餓鬼のような世の中となり、
畜生のように欲や本能が横行する中で修羅のように追い追われ争い、人はどうあるべきか、人間らしさとはと模索するものが多くなり
世の中を変えようと始める。
そうして秩序と社会性などで構築しはじめて人間らしく暮らせるようにし、
いつしか当たり前となり、自然に反していても気がつくことも無く、天界神のように傲慢さが自然となる。

そうしてそこからまた人間らしさと言うものが履き違われるようになり、利己心、其々と言う見方や猜疑、争いと言う修羅に落ち、
ただ理屈で覆われた本能に従う基準が麻痺した時代に応じた貪り(畜生)となり、其々の枠が出来、当たり前という
枠組みの中で人の都合で決めた中で常識化した貪りに麻痺した形を維持継続のために抱え込み(餓鬼)
それに僅かでも反するのなら怒りも敵意も顕著に表し常識と正当性を主張し、ねじ伏せてでも遂行し、
評価分別、嫌悪と愛着、無関心から無言であっても抑圧や虐げが多いい殺伐とした地獄と言うように輪廻を繰り返す世の中となる。

そこで吾を顧みずにすべてを放棄し、誰にも知られることなくすべて放棄し、人の、世の幸せを願い道を求める菩薩がいて食い止められるかもしれないわけです。

自分や自分のやっていることを主張する菩薩はいませんね。

そのように誰にも知られずに励んでいる方はどれほどいるのでしょうか?

この世にいる以上はこれで良いと言う区切りはどこにもありません。

誰かを釣るし晒しても、ただ輪廻を繰り返してより悪化させていると言う事。

抑圧とフラストレーションからまた予想のつかない惨事や反社会性も生まれ続けると言う事を忘れてはいけないんですね。