体質はカルマによって出来上がる | Varahi のブログ

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人は母体に宿って3か月でカルマ由来の概念が定着します。

生れ落ち周りからいろいろと話しかけられたり教わることによって自我が出来て行きます。

経験や記憶から自分という認識になって行きますが、

 

ここですでにカルマや根本煩悩という基本の概念による好みや嫌悪は決まっているので、それぞれの反応の違いは現れています。

 

ただ概念と理屈が結び付いていくには子供の段階はまだまだ未熟ですが、過去にか馬を薄めていた場合には、言葉が話せるようになる段階でそれらを言葉にできるようになり、行為や行動も引き継ぐ形で行うようになります。

 

前世があるだの無いなどは議論するべきではなく、どうでもよいと言えばどうでもよいですね。

今形を得、癖として定着しているのなら、議論によってこじれるだけで、癖は癖、瞋恚や欲貪、無知由来の癖は癖として概念で出来上がっています。

 

母体に宿ってしばらく経ったときに母体を通して子供の脈を診れば、すでに体質は見ることができます。

 

ティーパがベースにあれば、すでに瞋恚のカルマ由来というのがわかります。

 

出すぎれば短所、程が良ければ長所ですが、どうしてもティーパがベースにあれば癖として動きやすいので、出すぎてしまうことが多くなり、肉食やトウガラシのような辛い物のようなものを好んだりします。

それにより更に動きやすくなるわけです。

アルコールも同様で、体質により働き方は違いますが、一例として

ティーパがベースにあれば、口が過ぎたり暴れたり気が大きくなったりします。

病気療養やヨーガなどされる方が呑まれるのは本末転倒になるので飲むことは普通は禁止です。

カルマを解消しようとされる方なら尚更ですね。

これにルンがベースに加わっていればいらぬことをいつまでも考え根にも持ったり、思い詰めて自分を狭くし追い込んでいきます。

 

ティーパと絡めば怒りが限界にまでこみ上げたり、どうしても納得がいかず強行にも出てしまいます。

色々な理不尽な犯罪も多くなっていますが、精神科医では

後付けで理由付けしているだけなので無意味ですね。

 

そのようにカルマ由来プラス住む場所や食べ物などによって

必要以上に大きくなります。

 

しかしそのようなものを確定とし、過去の記憶や自分の好みや現在の自分を見て思い悩んだり腹を立て、枠に押し込め何もせず(カルマの解消)身を任せてしまう事ほど無駄ということを知らなければいけません。

ある日突然自我が出来、思い込んで自分と決め、

何かあれば自分や誰かや何かのせいにしても意味がありません。

子供の時にこんなことがあったからこうなった、ああなったはすり替えに過ぎず、

仮に何もなく育ってきても同じようになります。

 

自分に瞋恚があれば、害意も敵意も惨事も、向けられます。

自分もまた向けています。

 

腹を立て、思い悩むのならば、その根本にあるものに対し向けて

徹底して屈しないことを誓い励まなければ、何一つ変わりません。

誰かに寄ろうが宗教や団体に寄って、同じ仲間で慣れ合って

その世界観に浸って何をしようが変わることはありません。

 

自我はただ過去や未来を認識することでそう思わせて固定しているだけです。

 

自我を自覚する努力自体も厳密には間違いです。

 

元々が作られた劇の主役と思っているだけですから

 

様々な演出があるのは当然です。

 

なので自覚ではなく、感覚や思考、湧き上がる思いや考えなどを

 

当事者、同調、経験の記憶に由来せずその働きを知っていく。

 

当然基礎的な教えや成すべきことを学んでおかなければ対応しようにありませんが、

いくらあがき騒ぎ、焦って探して求めても無駄ですね。

 

自己と向き合い心底カルマなどの奴隷になっていることを

悔いたり怖れ、決別することを誓い、その様な教えや師と出会えることを願う。

 

それがなければ目の前にいても気が付かず、教わることが出来ても師や対象に依存し思いこむだけで出来た、わかったつもりになるだけです。

なにかを学ぼうと誰でもしますが、資格を取るためや

良い師がいても肩書だけを見たり、そんな先生に就いたと自負するためや、望んでいる答えだけを求めて他は聞くことも無かったり嫌悪を顕わにしたりも平気で行えます。

 

このようになるのがわかっておきながら師になるのは無知な師だけですね。

 

どんなに能力があろうと、100人も1000人も一度に見れると言われる方に優れた師は例外なくいません。

当然ですね。

持っているものも違ければ、動くタイミングも違います。

一緒くたに教えることはできません。

 

しかしあがいてる方や依存されている方や、盲信されている方では気が付くことないのは当然ですね。

 

職業として警察官が職務に就いていても、通勤帰宅、職務外になれば自覚を持たず

犯罪や違法な事を行ってしまったりすることが多いですね。

何を学んでも奢らず、義務にせず、仕事だからと区分せず

行なわなければ意味がないわけです。

間違ってはいけないのは、報酬があるものが仕事ではありません。

 

報酬は二の次三の次です。

 

事に仕えるのが仕事です。

 

欲得ではなくみなや何かを想いそのために励む。

宗教などで言う信仰、と同じですね。

ただし、上に立つ者、提供するものが欲得ならば仕えても意味がありません。

ティーパやルンを大きく乱すギャンブル系を公認する国の未来は知れていますね。

 

個人でも上に立つものもよく知らなければいけませんね。

 

 

我々は豊かな情報や技術という武器があふれかえり、

使いこなせるものは一人もいないにもかかわらず

 

使っているつもりになっています。

 

そのような者が上に立ったり指導に当たったり、僧になろうが、何一つできずに

 

カルマや欲、地位名声、名誉や栄誉、資格にこだわり、

技術に驕りカルマを重ねエゴを増長し

 

満身創痍の傲慢になっています。

 

これは成功とは言わず、崩壊に向かう行為です。

その兆候として表れるのが虐待などですね。

これは歴史が示してもいます。

 

傲慢に(人ゆえに慢として驕り思い込み)なろうが

失敗し悲観したり自暴自棄になっていてもカルマとしては

同じなんです。

 

結局どちら側でも自分と思い込んで、その自分のために何かをしているからですね。

 

自分が、なさけなく人生が良くなく嫌いというなら、

なぜそのような自我のために喜んだり嘆いたり

落胆する方を選ぶのでしょうか?

 

簡単ですね。

 

誰かが、人が決めたことに従う事思う事等を常識と思っているからですね。

 

どんなに努力しても、それを決めた者たちと同じようにしかなれません。

その段階で枠や制限が出来てしまっているわけです。

 

出来なくて嘆く方が、苦しむ方が間違いですね。

 

かといって、反発したり真逆の事をしても無駄ですね。

 

誰かの決めたことは良い秩序以外にそれに反する事もまた決められていますからね。

 

ここで自分や教えは正しいのにとくすぶって煮詰まれば、

過去の団体のような行為になってしまうわけですね。

 

この段階で真理があっても身勝手な傲慢さがゆえの真理に置き換わってしまうわけです。

 

 

だからこそそれを成した確実な師などの言葉に耳を傾け

覚えるだけではなく

自分に働いてるものにたいして向けて観、

よく働きを知っていくわけです。