自分という形の不浄観  | Varahi のブログ

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チベット、ブータン等に伝わる瑜伽行者必携の如意宝珠、甘露、聖物等の説明、行法雑記など

 

 

自分という形の不浄観 


身体の不浄観については、色々な方が説かれていますが、

日本では白骨観がひろく知られていますね。 

主に僧たちの色欲をそらすために美しい女性が老い、(病み)亡くなり、朽ちていく様を

観じて行きますが、当然これでは肝心なものがないために成功することは少ないでしょう。

事実某本山は色と酒におぼれ、そこより出た僧が別な派を立てましたが、

その弟子がやはり色に走ってしまうなどが歴史的にも残っており、

 

現代でも買春法が始めて出来た時に最初に違反された方が某宗派の僧で、

その後今日に至るまで繰り返し何度も違反を繰り返しています。

このようなことは一例でしょうが、

 

正しい不浄観に昇華行などがなければただの我慢になるだけです。

それと同様にただの我慢では好みも嫌悪も、怒りも欲も、カルマの癖は

どこかで暴走します。

 

昇華行に関しては一律とはいかないのでよく知る方につき課してもらうとよいとおもいますが、

 

ここでは不浄観についてふれておきます。


先ず、この身体は、大まかに

頭髪、爪、歯、汗、排泄物、皮膚、肉、骨、筋肉、神経、腎臓、

心臓、脾臓、肺、他の内臓、腸間膜、胃、胃の中身、肝臓、糞便、

涙、汗、胆汁、鼻汁、脂肪、リンパ液、骨髄、粘液、膿、血、脳、

粘膜、精液、尿などで構成されていると言い、

 
これらの身体を菩薩は自然に観察する。 

たとえ愚かで力がない者でも、これらの構成を一度理解すれば、

身体への貪欲は起こらないであろう。

ましてや聡明な人ならば、この身体に愛着を持つはずがない。

と説かれています。


 また、父母膿血和雑生経などには、こう

この身体は、父の精液と、母の子宮の血とから成り立っている。

この身体があることは、父の精液と、母の子宮の血とが、第一の原因となる。

 
第二の原因は、食物等を消化することである。 
食物が口に摂り入れられることで、食道を通り胃に入る。

 

そこでは膵臓から出る膵液が、食物を、吐き気を催すような柔らかい物質に変える。

胆汁が消化を助け、ある部分は消化されて乳糜(ラクタ)

 

※ 乳糜は乳白色のリンパ液の事

   ラクタは血液や血液組織という意味

 

となり、ある部分は大小便や汗となって排出される。 


ラクタ(乳糜)は血液に変わり、血液は身体を作り、

肉となり、脂となり、骨となり、骨髄となり、精液となる。 
 

このように、これらの身体の第一と第二の原因は、

ルンによらなければ活動できずにすぐさま不浄なものとなる。

それゆえに、菩薩は身体に関して不浄観を観察すべきである。 

人はこのような不浄の集まりであるにもかかわらず、欲と感覚と記憶とつなぎ

身体に大変な誇りを持ち、その大きな蔵を保っている。

 

いうならば、それは便壺を持ち歩いているようなものである。

 
彼の鼻からは鼻汁が流れ、口からはいつも悪臭が出る。 
目からは目やにがじくじくと流れ出る。 
誰がこのような身体を望み、誇りを保つべきであるか。 


間違った(美化された(欲によって))概念と固定観念によって、

愚か者が炭を拾い、それを磨けば光ると考える。

炭は光るどころか、こすればこするほど崩壊する。

 
同様に、人は

私はこの身体を清浄にしようと考える。

 

たとえ沐浴し、身をこすり、何百何千とにおいを嗅いでも、

死によって打ちひしがれ、崩壊し、悪臭を放つ死体となる。 

と説かれています。


人には煩悩(カルマ)の根本に三毒があり、

 

煩悩の根源の

 

貪欲

瞋恚

愚痴(正しい道理を知らないこと)

 

これに 慢・疑・見(悪見) が加わり六大根本煩悩ととしますが、

 

心の本質を覆う最大の障害、煩悩(カルマ)として五蓋とし

貪欲

瞋恚

惛沈

掉挙

とし、輪廻に束縛するための十結煩悩とし、この十結を中心として

解消を目的としますが、

 

根本煩悩や五蓋などとも直結していることなので、先述中心としなくても良いわけです。

当然それぞれはさらに細かく違う働きとしての煩悩を生み出すので、すべてあげれば

途方もないほどの数になります。

108どころじゃありませんね。

知ったとしてもさほど役にも立ちませんし、根本の働きや質などを知ることで

すべて観えてくるので問題はありません。

 

その十結煩悩の最初が身見ですが、

 

これは五悪見の一つにもなっています。

 

簡単に書けば、

 

根本の六大煩悩は

身見

身見は、壊身見、虚偽身見、有身見、移転身見などともいわれてもいますが、

それは人間が、それぞれ自らの中心となって常住普遍的な実体として自らを支配するような

我を持っているという執見を指し、

自分はいつでも自分であると自分に執らわれる考えをいいます。

 

この意味で有身見は我見と同じですが、この中には我所の見といわれるように、

自らの所有、自らの環境の中で、これは自分のものであると認識する

所有という感覚や概念にとらわれる執見をも含めて考えます。


なので、身見は我々所の見(ががしょのけん)をい言い、

このように自分は生まれてから死ぬまで自分であり、

そこに何か自分という中核があって、それは変化しないという考え方と、

 

その自分の中核的なものが自己の環境に対して自らの経験や記憶、

所有であると常に認識し、無意識にでも自分、自分のものと執着を起こす。

このようなものを有身見というわけです。

 

これの道理を知り心から切り離せなければ深い瞑想には入ることはできません。

当然クンダリニーやチャクラのコントロールやその本当の感覚も味わうこともできません。

 

巷でよく言われている方を見てもヨーガ、瑜伽、宗教、スピリチュアル系、心霊系問わず、

この身見に浸りきっているので、みな気功の延長のような感覚で錯覚や意図的に

利用しているわけですね。

 

これらを正しく行うには、群れてはできません。

どんなに優れた教師がいても、10人も生徒がいたなら追いつきません。

100人も1000人も一度に指導できると豪語させる方がいたなら、

それは例外なくありえないことです。

一緒くたの教えで導くことは不可能ですね。

道理を悟りどころか理解してもいない証拠です。

例外なくどの賢聖人もそのような指導をされた方はいませんね。


自分は常に自分であるとする考えは、人間社会にとっては当然大切なものであり、

そこに於いて個人が成立するのですが、

他面、もしもこの自分にとらわれるならば、

余計に自らの本来の相(すがた)を見失うことになって、

人間の禍患となることをよく知らなければいけません。

 

だからこそ、物があふれ情報があふれ、豊かで平和になって、流行や便利さを

追いかける時代になることで、心も精神も脆弱になり

(威勢や力やる気が旺盛でも脆弱)

病気としては鬱や精神疾患など、利己的、傲慢、身勝手、

処理できずに心で思い悩んだり葛藤しているものを

一緒くたに異常者、精神異常、変り者扱いし病院に行け、カウンセラーに云々とし

遠ざけようとしたり当たり障りのないように扱ったり、逆に維持位目の対象とする。

 

当然動物や非力にものへの虐待も多くなり、それを傍観または楽しむようになる。

 

そのようにし大きな争いや崩壊に向かっていくのは

いつの時代でも繰り返されていることですね。


自分を自分としてほんとうに自覚することのできるのは、

単に自らとして独立して考えられるものではなく、

常に他との関係の中にあってであるがゆえに無意識にでも、それが犯罪であっても

自分が自分でありうる事を確認し自覚するために他との関係をもつことをするわけです。

精神異常と分けてしまい追いやる側もまた、賛同、保守という意味の側で

同様にしているわけですね。

どちら側の言い分でも善でもあり悪でもあるわけです。

 

もしも大きな集団の上に立つ者の都合で、正しく道理も知らず行も無く、

それを正しく指導する師もいない状態で、この教えが使われたらどうなるでしょうか?

 

カルトやテロや、戦争だ核だと難でも正義になってしまうわけです。

下のものが間違いだと思ってもどうにもできませんね。

 

どんなに優れた医療やカウンセラーや精神科がいても解決はできません。

これだけ読まれても理解できると思います。

 

中には励まれてくださいと言われた方もおられると思いますが、それは

その方の思考にアプローチしているのではなく、

心の本質に対してアプローチしていることだと思ってください。

 

なのでこれらは、自他の区別関係の中で、

初めて成立するというものですね。

 

 

人はそれぞれ独立し相互に存在し、それぞれが依り合い

社会を構成しているとする考えは、一般的に常識な(それぞれ)の

考え方ですが、瑜伽では個人がほんとうに個人でありうるのは、

社会の中にあってこそ(他を見る、関わること)であるということです。

 

人というようなものがあって、人は人であって動物でないとするのは

人ゆえの傲慢ということで、誤りである事に気が付くことも無く、

人間は人間らしく生きてこそ人間と思うのは、

エゴは穢吾らしくと言い張っているだけで、

気が付こうとも思わなくなってしまっているわけですね。

 

 

辺見 =  一辺にとらわれた考え方をいい、

       一般的には、人間は死によって無に帰す断見

       何かが残り続いてゆくとするのは常見で、

       (これ以外の事でも)

       この二種のどちらかによる考えなどの

        断常二見をさして言います。

 

邪見 =  一般的にはまちがったかんがえかたとされていますが、

        一般的な言葉を特別な言葉と(内容)とし、

        意味や付加価値をつけています。

        五つの悪見そのものが邪見でもあり、

        敢えて仏教論ではこのように邪見として入れ、(そのた四つも)

        このように分類し特殊なもののように分けてしまったこと自体が

        邪見であり、過失ということになるわけですが、

        それではわかりずらいということから分けたともいえるのですが、

        そのように知り教えるものはそうはいないため、

        単体で言われてしまうことが多いいわけですね。 

 

        敢えてそれを踏まえて言うならば、邪見は

        因果を撥無する考え方と言われてきたように、

        因果を(カルマの法則)否定し容認しないことを指して

        言っているわけです。 

        釈迦の説かれたことは、自業自得ではなく、

        教訓にし注意することでもなく、

        それぞれに有する因があり、欲や心など

        カルマの集積の癖(習慣の蓄積)によって

        自分だ自由だなどど

        思うように生き、流されて癖によって条件を

        整えていることにも気が付かない状態で、縁と結ばり

        結果として現れ、結果を見ることで自業自得と思い

        教訓にしても無駄であり、

        注意もせずに条件を調えるからこそ縁が生じるのである。

        その条件を揃ないように注意することで縁は生じるのだ

        と説き、

        ことは縁によって起こると言う縁起の法則を説いたわけです。

 

        それを観ようとも注意もしない僧や弟子たちは

        なにをしても無駄であり、なぜ禅定や瑜伽、三昧や

        歓喜、大楽に通じるための善因とし楽果(涅槃)に

        向かわないのかと説いたわけですが、瑜伽を無くした

        仏教などでは空想や(観想、観念)論理的なものだけになり、

        それこそ現実性のない空(想)論になってしまったわけです。

 

        その組織団体を守るためには容認しないのは

        至極当然の事であり、その組織も立場も名声も、生業も

        みな解体破壊となりうることになってしまうので、

        どうしても邪見という別立てが必要になったわけですね。

        それと同時に瑜伽も欠如して行くことになり、

        都合のものが多くなったわけです。 

 

見取見 = これは持勝見ともい言い、間違った考え方を

        誤って勝れた考え方であるとし、

        それに執着する考え方を言います。

 

戒禁取見 = これは戒禁されたものを勝れた正しいものと

          誤って執着する考え方です。

          これは非因計因と非道計道の二つを立てます。

          実際に因果の正しい立場に立てば因とならないものを

          因と誤って考え、それを勝れたものと執ずる見です。

 

          正しい菩提に対して、達成する正しい因をとらず、

          間違った(教訓やただの講義や世界観や人生観など)

          因を正しいものと誤って執着したり思い込み

          説いたり行ずることなどを指し、

          巷で多く教えられていることがそれですね。
 

          非道計道とは涅槃の道に非ざるものを涅槃の道と間違え、

          それを正しく勝れたものと誤って執着することです。

          この段階でも見な一緒くたの教えで指導はできないことも

          りかいできるとおもいます。


          それぞれの目的の達成にはそれぞれの状態や条件、

          目的を達成する正しい方法の自覚自行によらねばなりません。

          得手不得手、これが良いから悪いからの見方では

          指導する側もされる側も成せないのは当たり前の事ですね。

          思想と実践とが別々であっては、何の成功も無く、

          物理的な感覚と五感による感覚で得たものを

          印や証とするスクールや団体では取り返しのつかない

          事故や怪我、精神崩壊にまでなりかねないわけです。

          何年やって指導の資格がもらえたから・・・

          ただの知識と経験に依存しているだけですね。

          これだけでもだれでも見分けるのも容易とおもいますね。

 

細かくはまた別な機会に譲りますが、

心の訓練も、カルマの解消であっても、それ以外世間で何を行うにしても

病気の治療の方でも

この身見というものも大きな障害の一つであることが理解できると思います。

このような教えも聞かず、保たずに、自我と記憶とでいくら葛藤しても

自己納得や諦めの結論にしかたどり着くことができないことが分かると思います。

 

世間で絶望の淵に叩き落され、這い上がったものは、大なり小なりこれを薄められたので

好機を手にしたり出来たわけですね。

 

人には身見以外にも以下のようなものがあります。

大まかにだけ挙げておきます。

 

 

五下分結・三結(束縛という意)


1.欲貪     餓鬼や畜生のカルマによる欲。

2.瞋恚     思い通りにいかないことで起る不満や苛立ちや怒り、身勝手な悪意。
          

3.身見(有身見)


4.戒禁取見    カルマの法則を無視した誤った戒律・禁制への執着


5.疑(疑惑)    法則が分からない事で起る。


五上分結


6.色貪     人が生まれる世界でリアルと思い

          道理も知らず囚われ感受している状態で、そこにての欲得固執

7.無色貪   心の本質(純粋な精神性)に到達し

          その安息に捕われ得たと錯覚している状態でそこに対する執着固執


8.掉挙     更に心と一体となり、

         (更に洗練され、より純粋性が濃縮され、より高く上がれたと)

         絶対的な至福に到達できたと昂ぶり他が見えなくなっている状態で、

         この状態に心の浮動浮執

4.慢      慢心

5.無明    根本の無知

 

 

と様々あるわけですが、とても書き尽くすことはできません。

 

いずれにしても人にとって一番の穢れ、カルマを重ねる要因が

有身見ですね。

 

自分の肉体や経験記憶、五感に対するとらわれで、

簡単に言えば、われわれを地獄に落とすカルマの根本ですね。

 

最も粗雑な肉体に対して自我意識を持つことで、

われわれの落下の終着点であり、輪廻に縛り付けるものですね。

 

このようなものまで 「わたし」 という感覚を持ってしまったのが

今のわれわれなんです。

 

これが強まり堪能すればするほど

われわれは地獄のカルマに縛り付けられる(生きながらこの生で)。

 

少なくともわれわれのこの粗雑な肉体がある世界に結び付けられてしまうわけです。

なので、われわれは一番最初に、この自分の粗雑な身体への執着から

離れることから行わなければ、何をどうやっても無駄なんです。

 

チャクラやクンダリニーや、気功やその他いろいろありますが、

この粗雑な肉体に感覚的な反応があってなぜこだわり囚われ思い込むか?

間違いであることすら気が付かずにこだわるあまり、成就どころか犯罪まで起こしています。

その感覚もまた縛り付けていることになぜ気が付かずに、エネルギや神仏云々と

なぜこだわるか?

この段階で身見以外の何ものでもなく、ただの穢れを持つ人なんです。

これに反応する神仏もクンダリニーもチャクラもどこにもいませんしありません。

清いもの癒しのもの、神秘性にすり替えている自我や煩悩(カルマ)の

特徴なんですね。

 

その証として、生業としたり高揚したり、慢心し、一々の感覚に反応して

喜んだり浮かれて楽しくなったり、落胆したり悩んで苦しんでいますね。

人そのものですね。

低い意識や癒し意識に比例し、なりきり思い込み、

知識だけでは陥っても気が付かないんですね。

安易に真似したり、スクールや知識と中途半端な経験を重ねたものに習えば、

こじらすのは当然ですね。

 

 

そうして、もう一つは、他の人の肉体。

性欲などは当然他人の肉体への執着ですので、

これも不浄感によって、他人の肉体も穢れと認識し、それぞれのカルマに応じた、

癖に応じた訓練と合わせ、離れるわけですね。

 

そのための基本として煩悩や正しく理解されている方からの教えや

不浄感などをおこなうわけです。

現代では医療や番組も情報も多いので、頭髪、爪、歯などと言われて

伝統的に身体の構成を瞑想してもピンとこず、平気な方も多く

向かない場合も多々あります。

 

その辺りは適切に師より授かれば良いと思います。

 

けれどもカルマを大きく解消したものなどは賢聖、

チベットではトゥルクと言いますが、

形として見えるけれども、実際にはチベットでは虹の光の身体(法身体)と言い

もっとも微細なものになるとされ、清い光、純真正として敬うわけです。

しかし我々のように成就されていない者たちは不浄なものの結合体で
肉体は便壺で、自我がそこに漬かって俺様わは自由だ何でもできる

神仏の生まれ変わりだ、エネルギーが目覚めたなどと思い

良くも悪くも古漬けになっていることも知らずに固執し清いと思い込んでいるわけです。

 

自我は自我で、思い込まされているわけです。

炭をいくら洗ったって白くなることはありませんね。

 

どんなに有名になろうが知名度が高かろうが、自我は自我で

カルマによってそのようになっただけで、無名であろうと変わりは何もありません。

それに惹かれているのなら、

同様の穢れがあると言うたけのことですね。

これがわれわれの正体なんです。

 

まず自分の体に対するとらわれをなくし、

そうして他者に対する囚われを無くして行く。

そうでなければ嫌悪が強くなってしまいますね。