錯覚・思い込み | Varahi のブログ

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チベット、ブータン等に伝わる瑜伽行者必携の如意宝珠、甘露、聖物等の説明、行法雑記など

 

 

どうしても教えや行などに触れて行くと勘違いをされる方が増えて行きます。

 

経典や聖典などを学ぶことも必要ですが、論理的な見解だけを持ち、

 

それで得たつもりになって得々と語る方も良く見かけます。

 

しかし意識は低いままで固定されているため、知識だけは膨大でも何にもなりません。

 

知識や経験だけに固執し団体などを起こしたりしても、出来ることは経験と覆えた知識の講義だけで、

 

どうしても神秘性や霊的な事や、エネルギーを追加して謳い文句になってしまい、

 

維持継続をするために無理やりにでも思い込ませたり脅威を与えたり

 

薬物まで使用してまでも行うところが出てきてしまうわけです。

 

切っ掛けだけであれば良いのですが、

 

エネルギーにこだわって何になりますか?

 

チャクラやクンダリニーにこだわって何になるでしょうか?

 

これにこだわって励み得たとしても人は人のままです。

 

理想だけ高く思い込み、意識が低い状態で、

エネルギー、心霊、神秘性、チャクラやクンダリニーごっこをし、

釈迦や祖師の説いた本分を無くし、都合の良い説法や解脱に置き換えて

得てもいないものを得たように説き、

理解できないのは未熟だからと言い、それらしい行や責務を与える。

これでは義務となり理解することはできなくなります。

 

仕事であれば報酬があるので、その目的でも我慢はできるでしょうし、

休みもあるので気晴らしも出来ます。

 

そのようなごっこを重ね一時の幸せ、平穏、当たり前のように飲んで食べて遊んで、

欲しいものを手に入れたり努力し、同じ仲間に囲まれることで思い込み続け

 

俗に戻れば俗に馴染む。

 

維持継続に追われながらライフスタイルでもごっこでも

ただカルマに流されカルマを重ね、自我を保ち自分だと思い込んで

やがて病気や犯罪、事故や怪我で、嘆き、悔い、腹を立てて

またカルマを重ねる。

 

少しでも避けようと、穢れと言い、カルマや霊障、エネルギーの不足や弱っている、

詰まっていると言い

 

それをどうにかするためにまたごっこをし、同じ仲間で群れて、確認し合って頑なに思い込む。

 

 

非難されれば腹を立てたり見下して、正義真理と言い犯罪やテロ行為。

 

団体でなくても、個人でも同様です。

 

調子の良い時は穢れがない、エネルギーが良いからと思い、

悪ければ何かのせいにする。

 

このすべて自我による身勝手な分別が引き起こしていることも知ろうともせずに、

対処対策、自分の見解に合うところを探し、思っていることの正しさを認識しようとする。

いずれもカルマによるもので無意味ですね。

 

みな自我による錯覚、思い込みで、劇中の俳優であることを自覚できずにいる。

 

感覚は確かだと言っても、人の五感すべてが、輪廻、カルマから逃がさないように、

 

原因結果報いと先に展開するためにあるものであり、

早く気付かせようとする良い意味での働きでもあるわけです。

 

理屈で真理だ正しい、正義だと言って教わろうが教えようが、

その段階で真理でも正義でもなくなってしまい何の役にも立たないものになっていることを

知る者はいません。

 

刹那刹那の一コマを続けてみることしかできない者が、過去や未来を思い、

 

正しい教えだ法だと教えるところがあっても、

次のコマにすでに変わっている事すら見えていなくて教えても何の役にも立ちません。

 

生きている以上完全な解脱や成就なんてものはありません。

だからこそ常に注意しカルマを重ねないように釈迦も励み続けたわけです。

 

気分の切り返しは必要ですが、それだけでは進めません。

まがい物が多く、基本的な情報はふんだんに出回っています。

なので自分で情報を集め、思い、専門家や肩書経緯、評価の判断基準で

信憑性を判断し、いろいろ言い聞かされたり読み、自分なりに咀嚼し理解するような

無駄な訓練という形を繰り返し自分も得たつもりになったり、予防のために

引用元やだれだれがと前置きをする。

ただの得たつもり、できている気になっているだけですね。

 

善き師は弟子の様を観、理屈は説かず、それに応じた事を示したり行をただ与えます。

説くのは、超えられない壁に当たったときや超えようと必死になっているときなどですね。

そうでなければいくら説いても無意味です。

 

ブログなどで基本的なことを書いていると、

どうしても情報集めの方が質問されてくることが多くなりますが、

壁にもあたっておらず、意味だけ理解しても無駄なんです。

説かれたものの大半は、あくまでも表題みたいなもので、概要だったりします。

正しく引き継ぎ、励んで得たものが口頭で伝えるものの方が多く、

一文だけでも百も千もの広大な意味があるわけです。

経験もせず励みもしないものに言っても、伝わらず、文面だけの意味すらまともに受け取ることは

出来ないでしょう。

なので質問されても説きようはありませんし、伝える必要もないわけです。

 

興味も好奇心も必要ですが、それによって多くのものが失われたり

本質が無くなってしまったものも多くあるのもまた事実です。

 

個人的な悩みや問題も同様です。

 

当たり前の日常の事であっても、理想や夢が大きく意識が低いからこそ

陥ってしまうわけですね。

 

だれもが昔はこんなことが、あんなことが、こうやって来たなどと言いますが、

 

では、それを持ってきて今ここに広げて見せてください。

 

 

 

 

 

 

出来ませんね。

 

当然です。

 

そんなものはどこにも存在していません。

写真や記録映像を出されても、今の自分とは別物です。

 

 

未来も同様です。

 

それを身勝手に持ってきて、今の自分に常にはめ込んで決めつけているだけです。

それが制限であり穢れであり詰まりです。

常に刹那刹那の一コマしか存在せず、

カルマの法則(その一つは時とも言う)によって連続的に流れている。

 

そのように捉えることしかできないのが自我です。

それを何年何十年と繰り返し、過敏過剰になり、何も知らず知ることも無く意識で固定し続けて

普通の生活、普通の人と同じようになどと、エゴの居場所や形、

継続存続のために生かそうと相談をするわけです。

そのための教えも法も行もありませんね。

 

もし良く励み知る師がどこかにいても、本を出したり教室を開いていたり、

それを売りにしてやる方は一人もいませんし出来ません。

そのように正しく得たものが、なぜする必要があるのでしょうか?

当然団体や教団を作ることもありません。

肩書や経歴をこだわるのは人だけです。

それに惹かれて寄ってくる者になにを教えても出来ませんし、

出来なかったことの理由付けしかしません。

 

なぜわざわざカルマを重ねるそのような余裕を持とうとしますか?

 

地位や名誉や名声や、団体維持の為なら多少の問題も我慢するのが

世間の聖人や生まれ変わりや完成された人なのでしょうが・・・

 

 

だから最初は正しく良あったかもしれませんが、

錯覚し、教団維持やテロ行為にまで発展してしまうわけです。

 

都合の行も教えも誰も説いていません。

 

エネルギーの基本は5元素若しくは4元素」ですが、これでさえ法則が働いています。

エネルギーがと言うのであれば、誰であろうとそれを出して見せてください。

そうしたならなんとがしてあげます。

 

これも出来ませんね。

 

当然です。

 

意識自体がこだわるがために低い状態で固定され、感覚が反応しているだけですから。

ヨーガでも瑜伽でも、肉体的に温かくなった、何かが這うような感じがした、エネルギーが

どこどこからどうしても進まず詰まった感じがある

などとよく耳にしますが、このような感覚は全て間違った行であったり

教えであるがために起こる現象として警告されています。

仙道や気功であっても同様です。

 

これらを正しく学んでもおらず、独自の行なったり、独自に行ってきた者に

習ったがために陥るわけですね。

 

当然カルマも働いていますが、

猫などにつくノミをつかまえて小さな箱にしばらく入れて置き、

その後外に出すと、その箱の高さより高くジャンプすることが出来なくなってしまいます。

 

観念も既成概念も理屈も記憶もそれと同様です。

 

販売、人員集め、自分の評価や価値を示すための製品や

行為などに正しい教えも行もありません。

現代の科学も同様です。

本分を忘れ応用と名称の変化のみで、新しい画期的を謳う事

先や新しいものを追うことが常となれば必ず黒い歴史をくりかえします。

 

 

なぜ資格や評価を添えて教えや行を伝えるのでしょうか?

自分も無意識にでも評価を気にし肩書があって示しているところがあるならそこに正しく得ている人は

決していることはありません。

そう言う所の世界観を共有、惹かれてしまうのは同様のカルマがあると言うことですね。

 

正義と称し犯罪まで発展した集団も、それだけ瞋恚が強くあったものが上に立ち、

理由はどうあれ下のものもみな瞋恚があるがために共感し賛同してしまうわけです。

 

瞋恚があるなら、最低でも

 

自分の事は思わず語らず考えず、損得なしに人のために何かをし、

今の自分を捨てる。

 

非常に困難に感じ、続けるのは大変です。

低い意識や(エネルギー)を変えたいのなら徹するしかありません。

始めれば、すぐにでも不満や苛立ちや葛藤が出るでしょう。

それに従えばそのままです。

狭い了見ではできませんね。

 

リアルの世界の感覚は、体感できるゲーム感覚の錯覚がカルマの成せる業です。

 

そんなごっこが蔓延している世界が我々の生きている世界というわけですね。

 

遥か昔から、そのような正しい行者がヒマラヤなどに多く籠って

励まれているときには世の中も平和となり、

減るにつれて苦難が蔓延すると言われています。

 

いつの時代でも、人が何かを求めることが多くなれば、

それを利用する偽物が多くなります。

 

 

ドイツの哲学者ヘーゲルが用いた哲学用語に「即自」、物事の直接態というのがあり、

他とのかかわりによって規定される段階にまで達していない未発展の相をさします。

認識する主観に対してまだ発現していない「潜勢態」、

また自己自身への反省的関係を欠くという意味で「無自覚態」の意ともしています。

小さな子供は理性の即自態であるため、

「即自」は、他と交渉し、そこに自己の自立性を失う状態で、

「対他」へと発展する過程とし、

子供が大人の言うことに従うのは、自己の内なる理性を、他者の側にもつからだとし、

 

「対他」から、自己自身と関係することによって、

自己を取り戻す段階である「対自」へと発展ていき、

 

そうして子供は理性を身につけることによって自立すると言われています。

 

理性を身につけるということは、自己の内なる即自的理性を自覚することであり、

理性を自覚することは、身に即して理性を発揮することであるとし、

他人とのかかわり(対他)のなかで、そのかかわりを自分の内に取り込んで

自己を普遍化することによって自立すると言われています。

 

「対自」には「自立」と「自覚」という意味が含まれる。

 

母体にいるうちに概念は出来上がっています。

 

誕生後、親や周りの対応や会話などを概念的に結び付けていき、

自我形成に到ります。

そうして徐々に上記のようになり、一個体となり、】行為、経験、記憶を

概念通り(カルマ)それに沿った好みや嫌悪によってカルマの結果に到る進み方穢汚選んで行くわけですね。